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2014年1月20日月曜日

【小ネタ】2013年思い出のフォトブックできたったw

ちょっと前なんだけど、年末に実家から発注した2013年思い出フォトブックが届いた。


表紙もいろいろ選べるが、やっぱ広島人なので赤。








内藤理恵子さんもブログでオススメしていたtolotというサービス使いました。

500円で、発注からだいたい10日くらいで完成。送料込み。



64ページまで作れて、アプリでちゃちゃっと写真選ぶだけなのでまじ簡単です。





基本1ページに1枚しか割り当てられませんが、このシンプル感がカッコいいと思っている。





あえて写真を選ばずに、文字を入れることもできる。
フォントは選べませんが、それだけに気楽。






どうしても組みたければ、こういう風にアプリで予め組んだ写真を一枚として割り当てれば良し。












自分で言うのもアレだが、
ザ・リア充な1年間だったな〜〜
写真絞り込むのが大変だったわ


皆さんもリア充な思い出をオシャレに残して、若き日の栄光を振り返る準備をしてはいかが??
もちろん旅行レベルでもアルバム作りに使えると思います!

2013年12月12日木曜日

米国債の危機に思う part 2

富の自己増殖について考えるエントリ第2回


前回から2か月が経とうとしているが、、、

ご存知のとおり、前回のエントリを投稿した直後に、米上院の超党派が提示した債務上限引き上げ案と暫定予算が可決され、先月の米国の危機は回避された。
ほっとしたという人も多かろう。

とはいえ課題は山積みである。暫定予算(政府機関の稼働)は2014年1月15日までで、米債務上限引き上げは2月7日までであり、近日中のデフォルトリスクが去ったとはまだ言えない。。

年末にかけ、FOMCの緩和継続がどこまできいてくるのか・・・

しかし、このようなその場しのぎ的立法をしていけばどんどん国債を発行していけるという事態こそまさに、債務帝国アメリカの病理のわかりやすい症候であろう。
歴史的に、米国債は時間と空間の制約を超えた信用のスパイラルを創出してきている。


継続的な借入による金融価値の創出が、深刻な資本主義的倒錯の表象であるとマルクスが述べていたことは前回のエントリで紹介した。

21世紀のエコノミストであるマイケル・ハドソンも、米国の債務帝国主義が生産する倒錯状態が、論理的な極値に到達しつつあることを指摘している。
曰く、国際的通貨基準となった米国国債は、貨幣というものが資産から借入へと、その形態を進化させたことの象徴である。資本主義が孕む狂気が、歴史上前例のない形で表出したのだ。

マルクスはまた、富の一般的な形式は、自らに課せられる制約を乗り越えようとする無限の慣性力を持つ、とも論じていた。
米国の債務創出に対しては今回の危機からもわかるとおり、さまざまな制度上のバリアが存在するにも関わらず、債務を担保するルール(つまりここでは連邦政府予算に関する法律だな)は、空間や時間の媒介から自らを解き放つ方向へと進化し続けている。
もはや単に米国の覇権が依って立つ論理的パラドクスだけを問題にすることはできない。
債務創出による価値の生産は、生命圏と非生命圏の境界=地球環境を乗り越えて進みつつある。

要 は実体経済とマネーの額面の極端な不一致、というよく指摘されるアレを言い換えたいだけなのだが。
とにかく、世界の通貨価値の基準となっている米国債がデフォルトする(しかける)という事態は考えてみれば、経済学のタームで語られる経済的現象の範疇を超え出ている。米国の債務帝国主義は、むしろ生態学的な発想で語られるべきかもしれない。(環境経済学者たちが試みてきたことで はあるが)
さまざまな政治経済の評論家が展開している議論を一気にパラフレーズしてしまえば、とりあえず米国債の信用担保は地上には存在しない。少なくとも現在の自然科学が認識できる次元には、ない。

かつては米国や日本といった経済大国による世界経済の席巻は、ひとつには石油に代表される地下資源の収奪と結びつけて語られることも多かった。
しかしすでに、地上の富が(金でも石油でもシェールガスでもなんでもいいが)、なんらかの物質と結びついている、というようなナイーヴな信念が通用する時代は終わった。債務帝国主義による価値の自己再生産は、このような地球の物質的限界を完全に突破してしまっている。

シェー ルガス革命により、米国の債務創出スパイラルが地球の石油俯存量を削り取ることで成り立っているというあからさまさが表面上薄れているのも一因だろう。しかしなにより、この明らかに不安定な状況に油を注いでいるのは、信用を担保している資本主義の倒錯(by マルクス)である。純粋な「信用」の世界において資本が地球のキャパシティの限界 を超えて自己再生産することが可能なのはこの倒錯のおかげとしか言いようが無い。

国債の借り換えが投機的な慣性力を持つことは自明だが、それは事態の一面でしかないだろう。
小切手にせよクレジットカードにせよ米国債にせよ、債務の将来的な返済が約束されていることを証明するためには、なんらかの形での物質との繋がりを示していく必要がある。
したがって債務帝国の倒錯は投機的かつ逃避的であるだけでなく、ある意味で極めて唯物的でもある。換言すれば、繰り返される借入は、物質化の慣性も内在させているということだ。
米国債含め、長期的には、あらゆる債務は地球上にある物質に帰属し、返済される「ことになっている」。
こうした、地球上の物質を参照することにより、自律的に物価が安定化されていくプロセスは、一種のオートポイエーシスのようでもある。



われわれは130年以上前にマルクスが予言した、資本主義の倒錯が生み出す幻想を目撃しているのではないだろうか??

(続く・・・のだろうか)

2013年10月17日木曜日

米国債の危機に思う part1

上下院のねじれ状態を原因として、債務上限引き上げの法案がなかなか成立しない米国では、数十時間以内にも国債デフォルトの危機が迫っているといわれる。

予算の成立を待たずに政府の会計年度が始まったため、10月頭から政府機関の一部は封鎖されている。
こないだ来日した(渡航費を東大が出していたから来れた)National Science Foundationの某役人にきいても、アメリカの公務員は一部、文字通り自宅警備員をやっているという。

また、10月1日以来、.gov系のアドレスに送るメールがすべて弾かれるという珍現象が発生している。
これは心穏やかではおれん。

エコノミストのマイケル・ハドソンによれば、過去数十年間にわたる世界経済の変遷は、米国の債務創出の歴史にほかならない。

米国は金本位制を廃止して以来,連邦政府が発行する国債を国際的な通貨価値の基準としてきた。
これは世界中のあらゆる銀行に対して程度の差こそあれ何らかのコミットメントを強いる、米国のパワーの象徴であった.

1971年以前は,石油・ドル・金の三本柱が米国政府の国際収支を決定する基準であり、他国の中央銀行はいつでも、ドルの剰余分を金に換えることができた。
しかし金が本位貨幣でなくなってからは貨幣価値の基準はすべてドルが決定するようになった。
ドルを金に換えることができなくなった金融機関には,米国債を買い上げる以外に選択肢はない。
換言すれば,ドルが余っている国は総じて,米国政府に対する貸し付けをすることを余儀なくされるわけだ.

この継続的な貸し付けこそが世界経済に決定的な構造変化をもたらした。
ハドソンの言葉を借りると「返済義務のない無限のロールオーバー拠出」が作り出されるということになる。

ウォーらーステインの盟友でもあった社会学者のジョヴァンニ・アリギは、こうした傾向が生み出された背景として,1979年から1982年にかけたマネタリズムの台頭をあげている。
レーガンが金利政策を導入した際、グローバルな財のフローが再びドルと米国市場に流入した.
このムーヴメントこそが90年代における米国経済の復興を支え、政府による多額の公共事業投資(含科学技術R&D)を可能にした。

つまり米国の覇権は、パラドキシカルな基盤のうえに再生されたといえる。
第二次大戦後に支配的な債権国となった国が、今や世界最大の債務国として資本市場を膨張させている。継続的な外資流入により、国際収支は赤字にとどまったままだ。

このプロセスを通じて、米国は債務を「世界史においても先例がない」(byアリギ)レベルにまで膨張させた。こうして米国は、徐々に債務の「帝国」を作っていった。。

不思議なことに、この帝国には植民地を運営するための有形資産や担保が存在しない。
常に更新されていく借り入れの利率を決定しているのは、ただの「信用」である。

債務がグローバルに展開したとき、マネーの世界に何が起きたか。
世界最大の覇権国家が資金源を絶え間ない借入に頼りつづけたとき、国際秩序になにがおこったか、それは2008年の9月以降、歴史が目撃した通りだ。


マルクス的には,借入による金融価値の創出は、資本主義的倒錯の最も深刻な形式である。この倒錯のもとでは、政府が価格安定策を講じなくても、資本が価値を自己産出するという幻想が産み出される。

米国の債務帝国主義の原理主義的なロジックはこの倒錯に支えられている。


続く(のか?)

2013年2月9日土曜日

セクロスとコミュ力

今日は代沢恋愛総研フェローとして、内藤理恵子さんブログのこの記事をシェアしたい。


性経験と社会性って関係あるの?


この記事でも取り上げられているが、最近
「コミュ力つけたいいうんじゃったら、ええけはよセクロスせぇやチンカス童貞らぁがたいぎいのぉ!!!!!!」
とおっしゃっている宮台シンジ先生(代沢恋愛総研本社aka DAIZAWA HOUSEの近くに住んでいるらしい)は元々は90年代末に、
「ヲタクもナンパ師も社会グループという意味では同等じゃね?そこに変な階層関係見出す必要なくね?」
と言った人であり、
有史以来存在したはずのリア充/非リア充のハイアラーキーを脱構築し、サブカルおよびサブカル野郎たちに光の道を示し、経●省主導の「クールJAPAN」の仕掛人ともなった大先生が、ここにきてセクースを社会性を獲得するための通過点として是々非々で推奨しているのは、考えてみれば意外だ。

セクースがコミュニケーションの、というか、誰か他の人と繋がるためのいち手段であるのは間違いないとは思う。
こいつをひっくり返すと、常に、とはいわないまでもセクースには潜在的にオルタナティヴなチャンネルが存在するということになる。あくまで機能主義的に考えるとね。

つまり、異性間でもセクースしなくても成り立つ関係だってあるじゃろういうこと。
わしだって知り合いの女性の大半とはセクース無しで関係しているわけで、あんま社会性の必須条件じゃないと思うんだが。

むしろ個人的には「いかにセクースなしで、男性性を排して女性と向き合うか?仲良くなるか」というのもチャレンジングだし、面白いと思うし、社会的に学びも多いと思う。


ただなー、まあ、逆に「セクース無しでは成り立たない」という関係があるのも事実で。。
社会学でも親密圏という非常に難しい研究領域があるわな。。。まさに機能主義に正対する。

ということで、宮台的な
「恋愛しないとコミュ力つかねーんだよバーカ」
っていうテーゼを超えて、

恋愛からしか学べないこととは何か?

というのを次の代沢恋愛総研(DLI)の研究テーマとして提案したい。


2012年11月29日木曜日

Queen of [SO]N.Y.


下北沢doramaで西野カナの新譜 ”Love Place”を借りた。

iTunesで楽曲単位で音楽を購入するのが普通になった今の時代、新作状態でレンタルないし購入する価値があるのはSONYグループの歩く広告塔であるカナやんのアルバムくらいだ。

そして西野といえば泣く子も黙るギャル演歌の大御所である。
念のため一応書いておくが、社会学者チャーリーによって命名された「ギャル演歌」は、00年代終盤から、西野や加藤ミリヤらに先導されて確立された、ヒップホップ/R&B寄りのサウンドに、男に会いたいだの会えないだのといった演歌的な切ない歌詞を乗せて歌うという歌謡曲のジャンルである。
ギャル演歌の楽曲は、JKないしJDがケータイにダウンロードしてきったねえマクドナルドで聴くという鑑賞(観照)スタイルが一般的であるとされている。
しかしそのサウンドは、必ずしもそのような劣悪な環境における聴取に最適化されているわけではない。

この西野の新譜にしても、もはや女子供が聴く音楽じゃねぇというレベルでカッコいいと言わざるを得ない。
オケトラックは、現代日本の音楽製作テクノロジーの粋が結集していると言っても良いであろう最新鋭のヒップホップ/R&Bサウンドで完全武装している。

特に、スペイシーなシンセ使いとブリッジ部でのバスドラ4つ打への展開がアツすぎるM6 Happy Half Year!や、オートチューンの使用は最小限に留めつつ中田ヤスタカ風味に真っ向から挑んだM9 Is this love? などは、ギャル演歌史屈指のヤバさである。


しかしいっぽうで、西野の歌が持つグルーヴ感は、デビュー以来一貫してオモテ拍が強調される、いわば昭和歌謡的なノリである。
それは今作でも変わっていない。

もちろん単純に歌唱力という意味では、歌ははっきり言ってクソうまいと思う。
文芸誌を斜めに読むブログの筆者であるkenzeeが東海林太郎に准えた伸びやかかつ素直な歌い方で、音域も極めて広い。未だに歌い方の面で浜崎あゆみの悪影響下にあるAKBの諸面々とは一線を画している。

ただそのノリが、同じギャル演歌でもブラックミュージック的歌唱法を完全にマスターし、マニュアル演奏によるゴリゴリのループさえも悠然と乗りこなす加藤ミリヤや青山テルマとは明らかに違う、なんともノッペリしたものなのだ。


この動画など見てもらえればわかると思うが、歌はほんまうまい。タイムとかピッチが合ってないとかではない。ただ、全体的にリズムがなんというか、フラットなのである。バウンスしない。

オケはバックビートの強調されたヒップホップサウンドであるだけに、歌のリズムとの不釣り合いさに違和感を覚える人も少なくないはずだ。
いずれにせよ、この歌と伴奏のグルーヴのミスマッチ感こそ西野の音楽を最大に特徴づけるポイントといえよう。






ここで思い出すのが、西野がレペゼンするところのSONYの黒歴史である。

今の中学生とかは知らない話なんだろうが、SONYは1999年に、携帯用音楽プレイヤー「メモリースティック ウォークマン」を発売した。
しかし、当時既に音楽ファイルで世界標準になっていたMP3をサポートせず、ATRACというミニディスク(懐かしいね) のフォーマットに限定したため、ほとんど売れなかった。
これはSony Recordsが違法コピーを恐れてDRMのないMP3を拒否したためといわれており、この状態は2004年まで続くことになる。

いっぽうでスティーブ・ジョブズ率いるAppleが2001年に発売したiPodは、SONYのウォークマンが先行していたこともあって、当初は大した商品にはならないと思われていた。
しかしジョブズは、大手レーベルの首脳を自ら説得して回り、大手レーベルの首脳をみずから説得して、SONYを除くすべての大手レコードレーベルの音楽を配信する権利を獲得した。(この理由により、現在も西野カナの音楽はiTunesでは買えないのである)

その後iTunes Music Storeと連携しMP3による録音/再生もサポートすることによってiPodが音楽プレイヤー市場における独壇場を築いたのは誰もが知るところだ。
MP3は音質の面で不利だが、iPodの成功は、もはや安くて性能がよければ電子ガジェットは売れるという時代ではなくなったことの直接的な反映だった。ハードウェアがコモディティ化すれば、新興国に生産拠点を移すことで原価はどんどん安くなる。
それよりも、ネットワークウォークマンのモッサリした操作感をiTunesとの連携で解消したことがでかかった。


製作技術としては最新鋭のヒップホッップサウンドで武装しておきながら、歌のノリは依然、日本の製造業が世界的な栄華を誇った70年代の(?)昭和歌謡的伝統を引き継いでいる西野カナの音楽は、技術面ではグローバルレベルでゴリゴリ勝負できる水準であるにも関わらず規格面でガラってきたために没落したSONYを象徴する商品なのではないだろうか、などと考えた(ドヤ顔)。

2012年5月17日木曜日

Hey Sonny!!What's the dinner??



go up your nose and (ry




以下出来の悪い学部生のレポートばりのカキ殴り。







ソニーとパナは本当に提携すんのか。っていうニュースが気になりすぎて体調不良である。

敵は言うまでもなく、半島の二強だ。

国内の健全な競争環境を阻害してまで、長きにわたるライバルであったはずの2社が結託して、外資に立ち向かう。

これがグローバル化なのか と思い知らされるし、ファストリテイリングとかサンスターとかがどんどんオフショア化していくいっぽうで、あくまでも日本経済を下支えしようという旧来の大企業経営陣の心意気には純粋に感動を覚える。これは冗談で、もちろん自社の生き残りこそが行動原理だとは思う。それにしてもどうして技術が絡むと、外資との資本提携は回避されるんだろか。

もとはといえば日本の技術屋さんが半島に流れたのが有機ELで大敗してる原因じゃないのか(根拠はない)?

そして新技術のR&Dへの初期投資が一社だけで賄えないことだけが問題ならば、そのとき国は。







ソニーやパナが今のLGサムスン的なスター状態にあった(本当か?)、80年代の日本は、国として技術イノベーションを主導する体制が国際的に評価されていた。

フリーマンという制度派経済学者は『技術政策と経済パフォーマンス―日本の教訓―』という実証研究で、日本社会の5つの特徴から経済成長を説明した。

フリーマンはこれらが、日本の国家としてのイノベーションシステムになっていると述べた。当人(日本人)たちは意識していなかったのかもしれませんが。

具体的には、




①日本経済の近代化における政府(通産省)の役割

②近代化における重要な要因としての教育・能力開発

③世界最高の技術を輸入し、リバースエンジニアリングを通じて改良する広範な努力

④政府と巨大企業の緊密な協力関係

⑤垂直統合した企業集団の形成




が挙げられている。




これを見て考えるに、日本などはもともとは(軍が強い米国など以上に)経済成長にとってインパクトの大きい技術は企業が持っていたわけで、国はそこに投資をしてイノベーションを促進するというより、とにかく企業間のアライアンスを強化する窓口だったんだろう。




もちろん政府主導の超LSIプロジェクトとかもあったわけだが、ここからはむしろ、イノベーションのジレンマbyクリステンセン的なサムシングが思い出される。

政府主導だと事業を打ち切るタイミングを決定的に逸してズルズルという好例であろう。

00年代の仕分け職人登場に至るフラグだったとも。





御用であっても経産省嫌いの学者などは、イノベーションに対して政府が果たす役割は、規制緩和と所謂「破壊的創造」の誘導(≒萌芽的技術の普及試作)、あとは人材育成だと考えているのではないか。→参考:http://saibs.org/saibs/Proceedings_5th_AIBS_GM.pdfとか






しかし昨今の新・重商主義、今回のソニーパナの一件にも象徴される国家資本主義的なビジネス競争、そこに含まれる新成長戦略、インフラシステム輸出立国戦略等を考えると政府のイノベーション施策はやはり重要なはず。






たとえばNEDOはスマートコミュニティの対外輸出、国際標準獲得のための企業コンソーシアムの事務局をやっている。






いっぽう、米国でRFIDタグ(ie商品のトレーサビリティ技術)の企業コンソーシアムを主導したのは行政ではなく、ウォルマートだったはず。


利用企業がリードした結果、特許リッチな開発企業は特許保有による競争優位を抑えられた。


技術システム開発において、特許リッチよりも、実際に利用する企業が優位性を持った興味深い事例である(そして日立フルボッコ乙)。






もはや政府はアライアンスの事務局なんて務めていないで、企業に任せたほうが良いのかもしれない。


シンガポールとかフィンランドみたいに、国家主導の科学技術政策がガンガン研究開発を引っ張っているような国は確かにあるが、日本とでは国のサイズも政策環境も違いすぎるか。


特許流出とか恐れなくても、ほっといてもコンサバな日本企業は身内でタッグを組みたがるというね。


そして日本では、国家プロジェクトでも、動員されるのは基本的に国内の産学官である。

いっぽう欧州などの科学技術プロジェクトは欧州内だけでなく新興国やら、時に日本なんかも引き入れている。

こういうイノベーションのオープン化、グローバル化が進む中で、そのとき国は、、というのも、気になる。

ガラパゴス()という批判があるが、まだまだ新興国の知財権保護が十分でない状況下で、リバースエンジニアリングによる剽窃のリスクを考えると、国として海外と手を組むのはリスキーという判断だろう。

オープンイノベーションは知財権とセットで考えるべきだと思う。

TPPからは、日本が入る入らないにかかわらずTRIPS+体制を拡大強化する効果が一定以上期待できるが。

ソニーとかが安易に台湾のほんはい(←なぜか変換できない)率いるサムソソ包囲網に入らないのも、この意味で現時点では合理的なのかも。

2012年1月18日水曜日

Moment's Notice:]:]:]

日本を代表するジャズベーシスト納浩一ブログの最新記事。
覚悟を決めよう!


音楽以外でも、少しでもヤクザな道に進んでいる自覚がある人には、響くんじゃないか。

ええこと書いてあるんだが、ひねくれた目からすればまあこういう話は語り尽くされているし、成功者が言うことはだいたい同じだという気もするが。
一応、自戒としての意味も込めて。

みんな、大変ということなんだね!

2011年11月5日土曜日

160k

ひっさびさに再開したツイッター上のやりとりで、本郷の社会学の修論の最低字数が16卍であることを知った。
なるほど、フクシマ論のかいぬまさんは例外的に長い修論を書いたのだと思っていたが、一般的に本郷社学の修論にはソッコーで書籍化できるくらいのボリュームが最初からあるわけだ。
上限が決まっている京大とは大違いである。
小熊英二さんの本とかを見れば分かるように、がっちり言説分析やったらどうしても膨らんでいくということが共通認識としてあるのだろうし、それを表現する筆力をつけることもトレーニングの主旨に含まれているのだろう。
こうして駒場らーたちのコンプレックスは膨張していくのであった。
私は「どうせ俺らは駒場院生で、正式な〜〜の訓練を受けていないから〜」的なくだらないコンプレックスが大嫌いなのだが。

2011年8月5日金曜日

事務課のケンさん

気●い級のテクを誇るラリースト、ケン・ブロックがまたやってくれましたよ。



うーん・・

もはや4駆の動きじゃないわ。デフを相当いじってるにしても。
インプからフィエスタに乗り換えたのは何故だろう。しかし中身はモンスターなのである。ミスファイアリングの音が凄まじい。

それにしても、これをジムカーナと呼ぶのは無理があると思う。


このケンさんが技術監修してるDiRTというレースゲームのシリーズがあるのだが、その新作が出るらしい。
すでに海外版のプレイ動画はニコ動とかにあがりはじめているが、相変わらず楽しそうな内容。

前作DiRT2はPS3版でやりまくったが、えーがにリアル志向な操作感で素晴らしかった。
CODEMASTER社ならではのリプレイの美しさも良かった。
オン対戦もみんなわりかしマナー良くて、かつアツかった。

とりあえず日本語版が出るまで待つ。

2011年7月24日日曜日

顔芸の肯定、革命

京都でジャズな(だった)人たちの多分に漏れず、私もジャズピアニスト、トシモリさんのファンだ。

昔から演奏を聴く機会はちょくちょくあったが、無音ストリートをはじめとする彼の昨今の活動にはますます感心してしまう。
無音ストリートは何より、「毎日やってる」ところがすごいと思うよ。

もちろん自身のブログで語られていることのなかには十分理解できないことも多いが、何より出音がかっこいいから文句はない。
ようつべにうpられているソロピアノの動画たちがすべてを物語っている。
なんか、「切手本」に書いてあったことにも通じる気がするのだが、真に革新的な藝術とは、洗練を待たないものなのだろう。
既存の確立された表現スタイルに則っているうちは、その表現される内容は半分過去にすぎない。それも大切だと思うが。
しかし、無音ストリートのように、洗練を待たず、世間には見向きもされずとも、日々、ただ音を紡いでいくこと、一瞬一瞬の聴衆(=歩行者)との邂逅に、偶発に、即興に身を任せること、それこそが「兆し」を表現することであり、未来なのではないか。


このテーク好き。

2011年5月11日水曜日

Julius Erving

ちょっと前のエントリで触れたミサワおばはんのその後。

おばはんは1月末にFinal Dissertationを提出し、地震騒動のなか審査を受けた。
しかしけっこう修正が必要だったっぽく、結果的に今年度もHSPの院生室にいてる。
そしてあいかわらず三沢的独白とともに作業を続けている姿が観察される。

おばはんは国際金融機関に再就職したいのだが、どうも就職活動もうまくいっていない模様だ。
世○銀行のお姉さんにきいたところ、落ちたあとで世銀の審査方法などにイチャモンをつけてきてまじうざいとのこと。

わからんが、そうゆう国際金融機関に入りたいならそもそも英米大学院の学位がいるんじゃないか?
それにリアルな話、前の職場(某国大使館)からも干されて辞めたという噂が立つほどのおばはんの強烈なミサワ性も禍いしているのではないかと予想される。

まあそのへんはあまり突っ込んでもしゃあない話だし、詳しいことはインサイダーにしかわからん。
しかしとにかく一番気に入らんのは、このおばはんが博士号をキャリアアップのためのハクとしか考えていない点だ。
おばはんの独白をぼんやりきいていると、Human Security分野での学位が再就職に不利であるためにD論へのモチベーションがあがらんという発言がちらほら耳に入る。

博士号に含まれる「博」という字にはもともと「広く諸事に通ずる」という意味がある。
博士とは自らの学問を「広げた」人物に対して与えられる称号なのだ。

それを、ただ論文を書いて就職に有利なように履歴書にペタンと貼付けるTOEICスコアのように考えてんのはなんかいけ好かないというか。
PHDホルダーでもないわしが言ってもなんも説得力ないけど。


というか、わしが愛想悪いのが完全に災いしたか、どうやら本格的におばはんに嫌われだしたっぽい。
しまった。
なんかいろいろ陰で中傷されているようで、そろそろHSP院生室から駆逐されてしまいそうだ。
おばはんの中傷癖はそれはなかなかで、この間まったく自分では話したこともない新入生の悪口を、完全な憶測に基づいてはじめはったのには閉口した。

わしもレベル低いな。


くそっ ←

2011年4月22日金曜日

ストライクゾーン

社会科学の方法論について語るとき


定量⇔定性

一般論⇔実証/ケーススタディ

という二分律が話題になるけど、そんなん本当はどうでもよくて、それらを超えたカテゴリとしての良い研究⇔悪い研究というやつのが大事だ。


善し悪しを決める変数はなんであろ。

2011年1月23日日曜日

Dear Georg

よそ者は集団に、客観的な態度で向き合っている。
—ゲオルグ・ジンメル「大都市と精神生活」


学者は、社会現象を政治や経済の事件として扱う。すなわち、戦闘、軍事力、条約、政治家、選挙、国民所得統計として扱う。あるいは彼らは、社会現象を思想体系としての「イズム」との関係において説明する。しかしこれら2つの方法は、それ自体いかに正しくとも、それだけでは十分ではない。第三の方法が必要である。社会現象には、社会そのものの分析が必要である。社会における緊張、圧力、潮流、転換、変動の分析である。この方法こそ、そもそも社会学がとるべきアプローチであり、すでに19世紀初めに明らかにされたことだったのではあるまいか。
—ピーター・ドラッカー「経済人の終わり」



言われてみれば、なぜ有力な社会学者にユダヤ人が多いかは、知識社会学のひとつの問題であろう。

ユダヤ系の社会学者といえば、マルクス、ジンメル、デュルケームに加えて、ポランニー、ベンヤミン、マンハイム、ギュルヴィッチ、ホルクハイマー、エリアス、ワース、マルクーゼ、シュッツ、フロム、アドルノ、ラザーズフェルド、アロン、アーレント、リースマン、マートン、ガーフィンケル、ベル、グールドナー、ゴフマン、バウマン、バーガー、ミルグラムなど。。。ビッグネームだけでも無茶苦茶いっぱいいる。
あえて含めるならばフロイトやドラッカーもユダヤ系だ。

もちろんアインシュタインやフォン=ノイマン、キッシンジャーなどをあげるまでもなく、ユダヤ人は諸学で知性を発揮している。
しかしユダヤ人知性の一般論とは別として、社会学とユダヤ的知性との親和性は問われるべきだと思う。
安易な推理をするなら、社会学の開祖のひとりであるウェーバーが『職業としての学問』でユダヤ人学者の不遇についてとくに書いていたことからスタートするのが自然かもしれない。

ウェーバーは大学に職を求める者の生活は運に支配されるとした。
とくにその者がユダヤ人ならばすべての希望を捨てよとまで言っている。
これには同時代人であったジンメルがユダヤ人であるという理由で大学の正教授になれなかったことが反響しているととれなくもない。

社会(科)学的な知識生産の営みはすべて、ひとつの矛盾を内在させている。
それは、社会という「全体」を語らねばならないにも関わらず、語りの主体たる社会学者がその「一部」であるという困難だ。
この問題を乗り越えることは理論社会学の試行錯誤の歴史そのものともいえる。

ルーマンは、「どのシステムの全体社会像も、他のシステムにとって投企される全体社会像と媒介不可能なかたちで衝突せざるをえない」(『社会の社会』)と述べた。
システムAはその内部の観点から外部aを観察し、システムBも同様に外部bを観察する。外部aとbについては実は「同一」であるのか「違う」のかをいうこともできない。
「同一である/違う」ということができるためには、aとbを俯瞰する視点に立つことが必要であるが、aもbも内部における内部/外部の差異の観察によって得られるものなのだから、そうした俯瞰的な視点をとることはできない。
システムAの内部における「外部a/外部b」の差異の観察における「外部b」とシステムBの内的観察における「外部b」とは同じではない。
違うとしてもどう違うのかをシステムの外側からいうことはできない。
したがって社会というのは、異なる社会(像)の間の差異として、あるいはそれらの衝突において、現れてくるものとしかいいようがない。

しかしそれは、全体性への言及を極力回避し、細部の固有性にこだわるべき、というのとも少し違う。
社会学的な思考は対象が何であれ、何らかの形でその対象が置かれている文脈依存性を考えざるを得ない。
対象を局所として内包する全体性、つまり対象が置かれる文脈を想定せざるを得ないということだ。
解釈学的循環と呼ばれてきたことと同じことだが、対象の単位性を見通しにくい社会学はわりと早いうちから、こういう再帰的な問題設定に取り組んできている。

たとえばマンハイムの知識社会学はその最たるものだし、Sociology of Scientific Knowledgeの始祖ブルアが提唱したストロングプログラムにおける反射性テーゼは、自らへの再帰的な問いを厳格に追求しすぎて逆に認識論的なスタックを引き起こしてしまうほどだった。
つまり社会学的な思考は、自らがいかなる視座構造から全体性を観察しているか、ということを観察しなくてはならない。
で、その全体性の観察をどう描き出すか、というのが方法論的な探求への引導なわけだ。

ここで社会学がはじめられた時代に視点を戻すと、例えばジンメルが言っていたのは端的に「社会の広域化と人間の個別化」の同時進行=近代化だという話だった。
これはいわゆる「共同体の解体」論という社会学の伝家の宝刀で、近年でもグローバリズムや情報社会化の文脈において、各方面で語られまくっているので個人的には正直食傷気味である。

(旧)思想地図vol.5で佐藤としき先生も書かれていたように、社会学はその誕生から延々100年間ずっとこの話をしてきたのだ。
今きけば実に常識じみた凡庸な命題だが、もちろんわたしを含めた現代の人たちはこういう社会像をmore or less抱いていると思う。
「格差社会」も「就職氷河期」も「婚活ブーム」も解体論の変奏だろう。
つまり解体論はある種われわれの生の肌感覚に起源を持つ。
テレビの討論番組から大学でのゼミから居酒屋でのヨッパライトークまで饒舌に語られまくる「解体していく社会」だ。
佐藤先生なら、「当事者の信憑」すなわちfolk theoryと呼ぶであろう類いのものである。

したがって、当時のジンメルが言っていた解体論と現代のわれわれが語る解体論の位置価は異なる。
いわば異なるシステムから観察された異なる環境なのだ。

ではジンメルの持っていた当事者の信憑とはなんであろうか。
ジンメルは苦節の末晩年に大学で正職を得るが、その短い在職期間は第一次世界大戦とほぼカブっていて彼の講義の受講者はほとんどいなかったというのは有名な話だ。
もちろん大学での職とユダヤ性との関係はウェーバーならば「社会学の外的問題」と呼ぶであろう事柄だ。
しかしある学問体系は大学にカリキュラムとして組み込まれることによって安定化され伝統を生む基盤を醸成できるという側面を持つ。

最近、1970年代に新興科学だった毒性学(Toxiocology)が大学の制度の中でいかにプレゼンスを得てひとつのディシプリンとしての立ち位置を形成していったかについての研究論文を読んだ。
特定の物質の毒性を検査するという非常にプラクティカルかつ個別具体的な学だったため、アカデミックで系統的な知的探求からはマージナルな存在とみなされていた毒性学は、はじめは製薬会社などの企業からの研究需要に答えることを主な営みとしていた。
しかしそのマージナル性は応用可能性の幅広さの裏返しでもあり、毒性学は結局環境保護運動家の後援を得て学として定着するという偶発的な軌跡を辿った。

草創期の社会学もそのような状況にあったのではないだろうか。
実際ジンメルは『社会分化論』で、哲学から社会学が分化していく過程において、社会学はまだまだ新興科学であったために理論整備が後手に回ったという言及を行っている。
その始まりからしてマージナルだった社会学に、本質的に亡命者的/遊牧民的性格を持つユダヤ民族との親和性を見てとるのは安直に過ぎるか。
ジンメルは「よそ者Fremde」こそが社会の実態を冷静に客観的に分析できると述べている。
それはベルリンという都市でのユダヤ人としての生活を通して主知主義と貨幣経済の席巻を嘆いたジンメルの生活実感から生まれた着想だろう。
そして全体性の観察の観察という社会学が抱え込んだ困難の解決への端緒もここに出現していると思う。
また付け加えるならば、冒頭にあげたユダヤ系社会学者には亡命者が多く含まれる。

まあこういう安易な答えを出すのは簡単だが、要するに、日本人で男でヘテロという時点でけっこう社会科学をやるのには罪悪感を感じる。
だからこそせめて方法論的な要請に対しては誠実でありたいと思う。


今でも一番好きな本のひとつ、講談社『デリダ』の著者であられるタカテツ先生の講義のレポート課題を書かねばならないのだが、とても困っている。
ヌタはナチスの戦後責任論に絡めてユダヤ性とドイツ性の対立と和解に関する考察を展開せよというタカテツならではのものだが、自分の専門との関わりがあまりに無い。
この講義はとる義理は一切無かったのだがいろいろあって履修することになった。
あまり為にはなってないがいろいろあって思い入れは深い。。orz
折角なので完成度が高い文章を読ませて憧れのタカテツを是非インスパイアしたいものだ。
2年以上前に買ってザクッとだけ読んだ早尾貴紀氏の『ユダヤとイスラエルのあいだ』を再読している。

2010年10月17日日曜日

えーご⑧

うんちく、たれたれ、の続き。


前回はクレオールについてだらだらと書いてしまったが、具体的にはどんな言語なのかイメージはつきにくいかもしれぬ。

世界には本当に多くのクレオール言語が存在するから、とても紹介しきれない。
ただ、すべてのクレオールに共通するのはなんといっても単純化、そして簡略化である。
たとえば、格を表す語尾変化が消滅したり、単数と複数の区別がなくなったり。

具体的に挙げていこう。
英語系のクレオールであれば、「三人称単数現在のsの省略」「be動詞の省略や単純化」「文章内での位置によって同じ単語が様々な品詞として用いられること」といった特徴などがある。

これらの特徴から、連想するものはないだらうか。。。

そう、Ebonicsだ。also known as BVE (Black Vernacular English)。
つまり、アフリカ系のアメリカ人たちが話している種類の英語だ。
おそらくわれわれ(←「あなた」を含む(!))も、エディーマーフィーやクリスロックの映画で、多少ナリとも耳にしたことはあるはずの。

ジャマイカで英語基盤のクレオールが誕生した経緯については前回書いた。
そして、同様にアフリカから多数の奴隷を運び込んでいたアメリカ合衆国でも、ジャマイカと同じことが起こったのである。
ただし、全人口に対するアフリカ系の比率がジャマイカに比べるとだいぶ低かったからか、そこで生まれた黒人クレオールは、「標準米語」とそれほど極端な差のないものだった。
とはいえ、明確な特徴はあり、それは現代にも残っている。

まず、「三人称単数現在のsの省略」なぞは日常茶飯事なので、説明は割愛!
さて、「be動詞の省略や単純化」も、みなさんは必ず目撃しているはずだ。
たとえば、amやareの代わりに原形のbeを使ったり、なぜかisで統一してしまうケース。
リュダクリスの決め台詞"I be the nxxga named Luda!"を思い出されたい。

あるいはこの簡略化をさらに進めたケースとしては、先日マルーン5も新譜でカバーしていたアリシア・キーズの超名曲"If I ain't got you"を例にとってもよかろ。
ain'tというのは標準的な口語英語においても、"am not"、"is not"、"are not"の代わりに、be動詞現在の否定として広く使えるが(確か?)、さらにEbonicsにおいては、"don't"や"haven't"、"didn't"の代わりとしてなんでもいけてしまうのである。
つまりこの場合、原題をオーセンティックな英語としてグラマティカリー・コレクトに変換すると、"If I have not got(ten) you"だと思われる。


(アダム・レヴィーンは本当に歌うまい)

さらに、同曲のサビの一節を見てみると、
"Some people want it all, but I don't want nothing at all〜"
という部分が。
これも文法的に破格なのはおわかりだろうか。
つまり教科書で習う英語ならば、"I don't want anything at all"となるはずだ。
否定詞の反復もEbonicsの大きな特徴のひとつである。
これはアフリカ系アメリカ人の日常会話において、注意していると非常に頻繁にきくことができる。
音楽ネタで例をあげると、マービン・ゲイとタミ・テレルの名デュエット曲、"Ain't No Mountain High Enough"だってそうだし、ザ・ルーツの"Don't Say Nuthin'"だってそうだ。



カッコいい曲やが、PVにポルシェの黒歴史カイエン(なぜかCG)が出てくるのが玉にキズか

2010年10月15日金曜日

われわれとは誰か

先のエントリで、学術論文では人称を排する旨を述べたが、これには例外があった。

「われわれ」という一人称複数の名詞を用いることは、確かにある。
しかし程度の差はあれ限定的だと思うし、論旨をクリアに示す必要があるアブストや導入の部分ではあまり使わないだろう。

ところで「われわれ」とは誰か?

もちろんアイデンティティクライシスに悩んでいるわけではない。
ここでの問いは、「われわれ」に「あなた」が含まれるかどうかだ。
つまり、語りかけられている人は「われわれ」の一員か、それとも他人か。

実際に日常生活でこの言葉を使っている情景を思い浮かべればわかるとおり、どちらのケースもありうる。
「あなたはそう思うかもしれないが、われわれは違う」と言う場合の「われわれ」に「あなた」は含まれていないが、「アイツらはともかくワシらはちゃうやん、なあ?」には、語りかけられている人(つまり「あんさん」)がかなりの確率で含まれている。

つまり日本語の「われわれ」「わたしたち」「わしら」は、そのあたりが曖昧なのだ。
英語のweとて同様。
聞き手(読み手)がweのうちなのか、それとも他人なのかが、明示されないのである。

しかしあくまで私見だが、学術論文に限って言えば、「われわれ」に含まれるのは、まずもってその論文を査読し掲載したジャーナル共同体の人びと、知識を生産し公共に提供している集合的主体であろう。
そしてジャーナルを刊行し、知識を公共に開いているという意味で、それは読み手である「あなた」をも含む。
もっと言えば、まだその論文を読んでいない不特定の他者、言うなれば「きたるべき読者」にも呼びかけているという意味で、「彼ら」をも含むだろう。
したがって学術論文での「われわれ」はあくまで、非人称的な「われわれ」なのだ。

とはいえこれは所詮キレイゴトだし、こんなことを考えながらすべての科学者たちが論文を書いているとも思わない。
それにジャック・デリダが生きていたとしたら、
「真理、普遍性を要求する真理は、理性の非人称性と歴史超越性を前提とすることによって他者を暴力的に排除する。他人を認識し、他人と一体化し、他人と同化しようとしたとしても、それは同一者への概念的関係づけにすぎない」
とでも言いそうなものである。

これは突き詰めれば、客観的かつ普遍的な真理というテイを持ちながら、常に反証の可能性へと開かれたサイエンスの抱える根源的ジレンマなのかもしれない。


南太平洋の島国、パプア・ニューギニアでは、トク・ピシンという英語起源の混成言語が話されている。
このトク・ピシンには「われわれ」を意味する表現の基本形が2種類ある。
まずはyumi。
これはyouとmeを合体させたもので、つまり「あなたを含むわれわれ」の意味。
それに対してmipelaはmeとfellow(s)を合わせたもので、「あなたを含まない、私と彼(ら)」の意味の「われわれ」である。



すごいのは、ここにバリエーションが加わることだ。
つまり、「あなたを含まないわれわれ、合計2名」ならmitupela (me+two+fellow)、同じく「合計3名」ならmitripela(me+three+fellow)
それに対して、「あなたを含むわれわれ、合計3名」ならyumitripela (you+me+three+fellow)、「あなたがた計2名」ならyutupela(you+two+fellow)となる。
ものすごい表現力だ。

以前もクレオールに触れたことがあるが、こうした混成言語は、「頭の足りない未開人による低能言語」と考えられがちだ。
確かに、単純化はクレオールやピジンの特徴ではある。
しかし、少なくともトク・ピシンは、人称代名詞の表現の細やかさでは英語を優に凌駕しているではないか。
単純なだけではない。

クレオールといえば、日本人にとってもう少し馴染みが深いのは、ジャマイカのパトワだろう。
もちろんわれわれが耳にする機会が増えたのは、ボブ・マーリーがはじめたレゲエのグローバル普及のお陰だ。
ジャマイカン・パトワもまた、英語をベースにしたクレオール言語である。

しかし考えてみればジャマイカは、アフリカからつれてこられた奴隷の子孫である黒人が人口の大多数を占める国だ。
なぜ、アフリカの言語を貫き通さなかったのか。

奴隷輸送船の船員(白人)になったつもりで考えてみると、利益率をなるべく高くするためには、とにかく大量の奴隷を一度に運んだほうが良い。
ついでにいうと、分け前を多くするためには、船員の数は少なければ少ないほど有利である。
しかし、たとえば10人の船員で航海する船に、200人ほどの奴隷を詰め込んだ場合、心配はないだろうか。
もっとも怖いのは、奴隷たちが一致団結して反乱を起こすことである。
それを防ぐにはどうしたらいいか。
そう、奴隷同士の意思疎通を妨害すれば良いのだ。

というわけで、奴隷たちは、それぞれ独自の言語を持つ多くの民族、、、フォン、アシャンティ、ハウサ、マンディンゴ、ウォロフ等々、、、から少人数ずつ集められたという(異説アリ)。
そんな混成集団では、各自の言語はごく少数の身内にしか通じない。

こうした集団がプランテーションに売られ、そこで生活をはじめた場合、何がおきるだろうか。
船倉に押し込められての旅のあいだはまだしも(といっても何ヶ月もかかるわけだが)、共同で綿花を摘んだりサトウキビを育てたりするには、やはり共通語が必要不可欠になるには違いない。

ただ、彼ら奴隷たちに必要なのが、自分たちアフリカ系混成集団内の意思疎通だけであれば、アフリカ言語の中で有力なもの、たとえばリンガラ語とかヨルバ語とかを中心にしたクレオールでも良かったはずだ。
しかし実際には、主人である白人とのコミュニケーションも重要だった。
望むと望まざるに関わらず、だ。
だからこそ、アフリカの言語ではなく、英語のボキャブラリーを基本にした混成言語が生まれたのだ。

もちろん、こういう際にベースになるのは英語だけではない。
たとえば同じカリブの国でも、ハイチは元フランス領。
だから、現在のハイチ国民のほとんどはフランス語起源のクレオール話者だ。
「ちゃんとした」フランス語と並んで、ハイチの公用語ともなっている。

また、ジャマイカが第二次世界大戦後、平和のうちに独立を果たしたのに対して、ハイチは18世紀末に奴隷たちが起こした反乱により独立した、という相違点もある。
「史上唯一成功した奴隷反乱」とも言われるこの独立革命の原動力となったのは彼ら奴隷が信じていたヴードゥー教だが、そのヴードゥー教用語の多くも、やはりフランス語起源だという。
たとえばヴードゥーでは、悪魔をジャブ(djab)と言うが、これはフランス語のdiable(つまり英語のdevil)が変化したもの。
森の神はグラン・ブワ(Grans Bwa)と呼ばれるが、これもフランス語のgrand(偉大な) + bois(森)が原型である。

しかし英語の場合、英語をベースにした世界中のいろいろな混成言語が「イングリッシュ・クレオール」と呼ばれるのに対し、
「フレンチ・クレオール」なるものは学術の世界でもなかなか語られないという。
このあたりが、フランス語文化圏のauthenticitéへのコダワリの現れと言えそうだが。


自分の研究から逃避して地域研究や民族誌周辺のひとびととつるんでいたらこういう蘊蓄ばっかり溜まるね。

2010年10月10日日曜日

Dear Natsuko,

"科学革命に必要なのは、老人の死である。”

-トーマス・クーン『科学革命の構造』


“戸田奈津子はもはや一個の人間ではなく、組織化された「コーポレイト・ナツコ」だ。だから、いま戸田本人が死んだとしても、字幕業界が改善されるわけではない。”

- 匿名の映画愛好家





戸田奈津子はいろんなところで叩かれているが、まあわたしもあまり好きではない一人だ。

そんなにバシバシ映画を見る人間でなくてもちょいちょい気がつくくらい誤訳が多すぎるというのがもちろんその第一の理由だ。

ところが最近は、プレミアなどで来日したハリウッド俳優がバラエティ番組に出演するときに、同時通訳として戸田奈津子氏が動員されているのをよく見かけるようになった。(テレビっ子)
そしてここでも彼女は、独特の意訳(≒誤訳)をしてるんだ。
しかも時に身振りを交えて、テンション高く。
というか、あまり英語自体お上手ではないような・・・(?)

まあ逐次通訳プロパーではないんだし、ネームバリューゆえに番組に呼ばれたんだろうからあまりせめても仕方ない。
それに日本のバラエティ番組の独特のスピード感の中で逐次訳を行うのは至難の業だろう。
しかし通訳というのは正確かつクールであってなんぼだし、発話に対して自分の勝手な解釈を盛り込んだり、身振りなど交えて話すのはもってのほかである。
通訳は第三者に対して限りなく存在を感じさせない、透明なメディアであるのが理想だと思う。


もちろん、彼女は日本の洋画字幕業界を作り上げていったパイオニアだし、そのことには敬意を払わなければならないだろう。
しかし彼女の独特のスタイルが寡占状態となった結果、一種の技術的なスタックインが起きて(cf. QWERT配列)、業界全体が「なつこ式」以上にテクニカル面において向上しなくなっているのではないだろうか。

ニコニコの字幕職人のほうが、よほど「う〜〜ん」と唸るような素晴らしい字幕をつけていることもしばしば。

さらに私は、時にはオリジナルをも越えて、まったく新しいキャラクターの世界を作り上げてしまう個性派吹き替え声優陣に、より好感を抱く。


ところで誤訳といえば、クソ訳で有名なT・クーソの『科学革命の構造』(みすず)だが、悪名高き某N山先生がお亡くなりになったら、S々木先生が訳しなおして重版するという噂が最近わたしの周辺できかれるようになった。

問題は、N山御大がまだまだ生きながらえそうなことなのだが・・・

2010年6月14日月曜日

えーご⑦

具体と抽象についてのスキルは,英語カルチャーの教養だ。

"It is a pen."という文。

前回述べたとおり、Itで指示されるペンは,誰が見てもペンだ。
この文は客観的に事実を表現している。

観察者を離れて,事実は客観として成立する。
これは科学哲学では,アインシュタイン/ハイゼンベルグ以前の古い近代のパラダイムの立場である。

客観的事実が、原因となり,結果を決定する。
近代医学,心理学,社会科学は,この立場に立つことで発展,展開した。

身体的・心理的な病気は,原因を特定することによって,治療が可能になる。
社会科学では,社会現象に対して定量的なアプローチが可能になる。
近代パラダイムは,社会についても言語表現についても,客観的決定論をもって完成するかのように思われていた。

20世紀はパラダイム転換の時代だった。
アインシュタインの相対性理論と量子論は,互いにせめぎあいながら20世紀前半に展開した。
20世紀の後半,ポストモダン文芸運動は,人間の認識をテーマとして展開した。
転換の中心は,ニュートン力学の客観主義から,アインシュタインの相対主義への移行であった。
焦点は,観察者の位置づけにある。

ここで否定されるのは,客観の「自明性」である。


ヒラリー・ローソンは、「これはペンです」のかわりに、「わたしはうそつきです」という文章を分析した。

第一に正直者は,「わたしはうそつきです」とは言わないはずだ。
うそつきが「わたしはうそつきです」と発話したら,発話者はうそつきだろうか、正直者だろうか。

ローソンは正解を求めなかった。
パラドックスを明らかにしようとしただけだ。

発話者がうそつきか、正直者かは,文自体には含まれていない。
この文の事実性は,文と発話者の関係のなかにある。
文は,発話者を離れては成立しないのだ。
文の事実性は,言われていることと言っている人(発話者)の間の構造のなかにしか,求めることはできない。
この文は,客観的自明性を欠いているばかりでなく、何事をも決定することはない。

しかもここでローソンは,文と発話者の間にある構造は,文がどのようなものであっても、実は存在すると考える。
つまり、「これはペンです」の場合も,発話者を除外することはできないとローソンは考える。
発話者は,社会的・文化的な存在であり,認識の主体である。
社会,文化,主観,認識,主体のどれについても、客観でもなければ,自明でもありえない。
「これはペンです」という文は,これらの要素を含むことで,言われていることと言っている人との関係を表現するのである。

ポスト近代では,客観はどこにいったのか。
古い近代のパラダイムでは,文はそれ自体,客観的に成立する。
しかし新しいパラダイムでは,文は発話者を離れては成立しないと考える。

"It is a pen."

も

"I'm a goddamn liar."

も、同じように主観的である。

では、客観は消滅したのか。

前述したように,ポスト近代の客観は,観察者の主観を通じて相対化される。
観察者なしには観察できないのだから,出発点が主観であり,相対的である。
そうだとしても、ここにおいても客観は,観察者の観察対象としては,やはり存在する「はず」である。
この存在する「はず」の客観を、ポストモダンの現代思想は仮説として探求した。
客観の「自明性」は、認識者の主観によって相対化される。
だから、客観の認識の有効性は,認識の仕方にかかっている。
とすれば、理論とは、客観的事実と主観的認識の関係を定義づけることである。
理論構築の焦点は,「自明性」から「定義づけ」へと変わる。

この立場に立てば,パラダイムとは客観と主観の構造だと言える。
ポストモダンの試みとは,古い近代によって構築されたこの二者間の構造を、意図的に解体することによって,新しいパラダイムに導こうとする運動だった。
だからこそ、それは認識論を扱うものであって,文芸運動として,哲学と言語学を中心に展開した。


とにかく、アメリカを典型として,ポストモダンの試行錯誤を経験した社会は,すでに個を単位としている。
「個」とは、客観の認識を仮説とする,認識の主体である。
この個は,ポストモダンである。
これが社会単位なのだ。
このポストモダンの人間集団は,いつでも個に分解可能であり,またいつでも組織を構成することが出来る。

生態学的な社会システム論の考え方では,ネットワークは個(ノード)が組織の主体で,個と個の関係は相互のコミュニケーションにより決定される。
人間が先で,関係があとだ。
(環境/システムの区別がはじめから存在するのではなく,コミュニケーションを契機として「複雑性の縮減」がなされる)

ところがたとえば日本の縦型組織では,関係が先にシステムとしてできあがっている。
人間を所与の関係が規定しており、人間(ノード)は与えられた関係に適応することしか許されない。
適応が,社会倫理であり、適応できなければ脱落する。
登校拒否や引きこもりは,脱落者に許された社会空間である。
この許された空間さえも拒否すれば,自殺や心中となる。

これに対して西欧のネットワーク社会は,運動するシステムであり、社会組織は、いつでも個に分解する。
その実現のために、カウンターカルチャーなどの社会運動にまで発展した,「ポストモダン」という高い対価をすでに支払っている。
たとえば1980年代アメリカ東海岸のDigital Equipmentや,もっと最近の例で言えば,ドイツのSteinweissなどが、事例として有名だ。

制度でありながら運動体である,開放系でありながら閉鎖系である、という意味で,ネットワーク社会は、近代の常識からは外れている。
ありえないものが存在しているという意味で,本質的にパラドキシカルだ。
そしてこのパラドクスはすでに実現している。
これが現代。可塑性の高いアーキテクチャによる緩やかな統合を特徴とする組織のスタイルだ。

ネットワーク組織は柔構造を持つ運動体である。
ネットワークでは,中心は作ることもできるし、必要ないかもしれない。
中心も周辺も変更が可能であり,組織は常に変容している。


日本も含めた非西欧社会の近代には,ローカルな伝統と融合という問題がついて廻る。
これは西欧とは別の近代の試みなのだから,古い発想に閉じ込めることなく,新しい理論の構築が必要である。
そうなってはじめて,西欧との関係も論ずることが出来る。
自然科学のパラダイムそのものではなく、自然科学のパラダイム転換に伴う社会変容を、説明できる理論の登場が待たれる。

日本の周辺部(典型的には、ベンチャーキャピタル)では,伝統とネットワークの融合は,すでにトレンド化している。
そこでは90年代から,さまざまな試行錯誤が継続しているが,理論が出来なければ,また概念が用語として定着しなければ,試行錯誤は一過性のままに留まる。
ソフトバンク,光通信,ライブドアなど、周辺独自の可能性と困難は目に見えている。
テンポの速いグローバル化時代に,さまざまな意味でリスクとチャンスを見てとり,対応できるのは周辺部だろう。
周辺部が,西欧社会のポストモダンの成果を何処まで吸収できるか,が、実は近道であるように思う。

しかし、その際に最大のバリアとなっているのが,具体から抽象へ、つまり端的には理論化/概念化という英語の教養的スキルだと、わしには思われるのだ。


物事を特定するとき,日本語では具体に返る。
英語では抽象に進む。
一般化によって個別のペンは「ペン」として抽象化され、共通に特定された。
抽象・一般化によって物事を特定するのが,英語の論理である。

この論理は,サイエンティフィックだ。
天動説から地動説への移行はまさしく、この具体・個別から抽象的思考への移行ではなかったか。
この移行が構造的に組み込まれた英語では,日常会話でも、つねに具体・個別から抽象へと,話者は進む。
一般化による共通認識が成立しなければ,"it"へは移行せず、"this"と"that"にとどまることになる。

物事の抽象的な特定の例としては,南極点や北極点,あるいは、「国境」などが挙げられよう。
これらは緯度・経度(僕はいつもLongitudeとLatitude、どっちがどっちだったか忘れてしまうんですが,みんなはどうですか?)という抽象的な線引きがあって、はじめて特定可能になる。
抽象的にしか特定できない。

あるいはもっと身近な例でいうと,時間がある。
だから英語では時間には抽象の"it"を使う。

言語は決して論理的に作り出されるものではないが,論理を含み込んでおり、話者はその論理に縛られる。
日本語では、抽象的論理を表出することは可能でも,その論理で話者を縛ることはしない。


英語の抽象について語りはじめた出発点は,極めて抽象度の高い「上の英語」を認知したことにあった。
おそらくこの「上の英語」は、大学に行って学ぶものだろう。
抽象能力のチャンピオンは「考える」作業のチャンピオンだ。
グローバル社会でのネゴシエーションでは,こういうヤツらが相手になる。


わしもそろそろえーかげんに、アメリカの大学に行かなければならないのである・・・!!


「具体から抽象へ」を、日本の学校の英語教育の初頭に教えることはできるだろうか。
もし可能なら,日本語にも良いインパクトがもたらされるのではないか。

つまり豊かな論理性だ。
このプロセスを野放しにせず,コントロールできる力を日本の英語教育法が獲得することが出来れば,日本ももっと変わることができるかもしれないなどと言ってみる。

グローバル社会のネゴシエーションで大切なのは陳腐なヒューリスティクスなどではないだろう。
具体から抽象へという心の動きは,民主主義社会の根底にあるものだ(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』)。
日常的な抽象の駆使があってこそ、ポストモダンの試みも意味を持つと思う。

2010年4月27日火曜日

切ない話

新しい環境だからしゃーないけど、
授業とか勉強会とかで名前きかれて、

まあ答えたら、

「えっ」

というリアクションがまず返ってきて、

「どういう漢字書くの」

ときかれ、

まあしょうがないから

「己という字にですね・・・」

と説明しますわな。

まあいいんだけど、毎回同じ説明になって冗長に感じる。
そして8割の人は名前メモっても、読み方を2回目に思い出せないんだな。


もはやいっそのことなんか笑いとりたいよ。

もちろん22年間生きてきてこんなことを思ったのは初めてではないので、

「下心と書いて・・・」

という冗談を言っていたときもあるのだが、

信じてしまった人が何人かいて、
僕も面白いからまあそのままほっといている。

世の中には何人か僕の名前が恋くんだと思っている人もいるというわけだ。


恋ルマティック

2010年3月4日木曜日

えいご③

旅行で米国に滞在するとき一番面白いと思うのが市井の人々の会話である。
僕はけっこう地獄耳なので、関係ない人々の会話内容がかなりの割合で耳に入ってくる(日本でも)。

電車の中で、酒場で、ストリートで、あるいはホテルのロビーで。。

今回は滞在中に
「I'ma bust'a up his ass!!」(あいつのケツにイッパツかましたるわボゲェ!)
なんてのを初めて生で耳にしたりしたよ。

古式ゆかしい街ボストンにもギャングスタ・ビアッチはいるのね。

まあそんなサグいセリフじゃなくても、特にジョークの類いはおもろい。
たとえば今回聴いたのが

"Why did the fried chicken cross the road?"
  "It saw a fork up ahead."(ぎゃはは)

というもの。

これはもちろん

"Why did the chicken cross the road?"
  "To get to the other side."

というスーパークラシックの変奏だが、それを知っていなければなんのこっちゃだろう。
アメリカンジョークはただのすべり笑い芸ではなく、無い機知をムリヤリひねり出しつつ過去の傑作にも敬意を払う愛すべきカルチュアだと思うのだが、どうか。

ゆーて実際は、道を歩いていて冗談を耳にする率がそんなに高いわけじゃ、そんなわけはないんですけども。
でもそういうの聴いてニヤニヤしてたからあーあーキモイ東洋人がいるわって思われたかもね。
すべての差異を呑み込むブラザーフッドの国だけど、やあっぱアジア系はちょっと蔑視されてると思うのね。
Mad TVでも、アバクロンビー&フィッチの店で最初は「俺たちはイケメンの白人しか雇わねーんだよー」って黒人差別してたんだけど、結局黒人は文化的にも政治的にも強い社会集団だから雇わざるを得なくなって、みんな迎合して黒人みたいな喋り方になって、最終的にはアジア系を差別するようになるというオチのエピソードがあったし。
「パンダエキスプレス(米大手中華料理チェーン)にでもいっとけや〜〜」ってね。
そうだそうだ全部PRCが悪いんだ。とか言っちゃダメだよ。
でも、アメリカでもオーストラリアでもシンガポールでもそうだけど、現地の中国系の人々に中国語で話しかけられる瞬間は少し「イラー」とくるイラッモーメントですよ。
オイラ日本人なんですけども。
もっとイラッとくるのは、中国語を話せる中国系以外に中国語で来られた時ね。
向こうは気を使ってるんだろうし、まあPRCには全地球の20%の人口がいるわけだから確率的には合理的な行動かもだけどよ。
失礼やろがー!と、不思議にも不寛容な自分に気付く瞬間でもありますな。
この辺が、多民族国家でアジア系同士がイマイチ連帯できない理由なのかしら。。わかんないすけどね。
米ではユダヤ人もヒスパニックもアフリカ系もみんな仲良く協力して暮らしてるのに。。


閑話休題。
僕の今回の旅行の第一の目的は一応NBAの試合を観ることで(いつもの如く!)、まあばっちりTDバンクノースガーデンていうアリーナで地元のセルティックスの試合を3コ観てきたんだけども、実際アリーナに行くと、試合始まってしばらくすると船漕ぎ始めるおじーちゃんとかいるわけですよ。
ダフ屋経由で入手した年間チケットホルダーの放出品でクラブシートとってたから、割と定価は高めの席なので、ベテラン・バスケット・ファン風のおじいさんたちも周りには結構おられたのです(凄く年期入った渋ーーーいチームアパレル製品とか着てたり)。
で、まあその人たちはどうせ年間チケットで来てるから目の前で繰り広げられているスーパープレイもjust one of those thingsって感じで、うたた寝タイムに入っちゃったのかもしれないですけどもね、日本からはるばる来ている身としては、「もったいなくね???!!」という感想を抱かざるを得なかった。
そんな人がタイムアウト中にオーロラビジョンに映されて失笑を買ったりとかしたりしてそれはそれで面白いんだけど、うーん、やっぱMOTTAINAIと思った。

しかしですね、まあある程度はうなずける話なのですよ。

冒頭のジョークにも登場したフライド・チキンやBBQチキン、フレンチ・フライド・ポテト、ピザ!、ステーキ・サブなどなど、アリーナで売っている食事には脂っこい強力なアメリカ的食品が多い。
もっとも、メキシコ料理というややヘルシーな(それでも日本食に比べたら・・・という感じだが)逃げ道も残されてはいるのではありますが。

で、そういうグリーシーなソウルフード系のものを食べると発生する眠気のことをズバリ言い表すスラングに

ITIS

というのがありまして。

お腹いっぱいご飯を食べたあとって、
「あーこのまま寝かせてー」と思うくらい、体もいい感じにポワワーンとして眠くなりますよね。
そういう状態をitisと呼ぶのです。

僕がこの単語を初めて知ったのは、確かDave Chapelle's Showのいちエピソード。
バーベキューソースに浸かったスペアリブが薬の容器の中に入っている映像が登場し、
「RIBSは、アメリカでナンバーワンの睡眠薬」
という、インチキながらも的を得たコマーシャルのスキットで同語が出てきました。

「ひとたび消化されると、RIBSのバーベキューソースと油ギッシュな豚肉が胃の中に広がり・・・creating an age-old condition called the ITIS(昔からあるアイタスと呼ばれる状態を作り出します)。体がだるくなり、すぐに眠りにつけるでしょう。」
と、アメリカの薬のCMにありがちな囁き声系の女声ナレーションが説明していました。

つまりこのITISとは、消化器に負担のかかる脂っこい食事をとることにより、胃に血液が集中して脳の血流量が相対的に下がり、眠くなってしまう現象を指すわけであります。
これをよりダイレクトに表現したfood comaも、itisの同義語(こちらもスランギー)。

こんな表現がわざわざあるくらいだから、TDガーデンのおじいさんの居眠りも、まあ仕方ないかということになりますかね。
彼がソウルフードを食べていたのかどうかは定かではないけども。

また、たびたびこのブログでも参照してきているアニメ "Boondocks"にも、"The ITIS"というエピソードがありましたな。
ここでノンカットの映像を見ることができます。

これは、グランダッド(おじいちゃん)がソウルフード・レストラン『The Itis』をオープンし、それが数々の問題(肥満、怠慢、etc.)を引き起こす・・・というお話。

余談になりますが、『The Itis』の看板メニューは「The Luther」という特大のベーコンチーズ・バーガー。
普通のベーコンチーズバーガーとの違いは、パンのかわりにKrispy Kremeのドーナツを使っているところ(!!!)。
しかしこのLuther Burger、ただのジョークかと思っていたら、、、


なんと実在しました(笑



調べてみるとジョージア州ディケイターのミリガンズというバーで発祥したもののよう。
さすがデブ超大国。バカすぎるw
油分&糖分&塩分の三冠王!なこのバーガー、食べたらすぐにダルくなって爆睡(pass out)確実ですな。


さて、このitisですが、実際に使う時は、

I got the itis(お腹いっぱいで眠い).

というように、必ず"the"をつけるようです。
けっこうみんな使ってる言葉だと思うし知っていると便利な表現ではあるよね。

しかし日本人が使う時は気をつけなければならないのであーる。

僕も今回旅行中にアフロセントリックな友達に"itis"の使用をたしなめられました。
ははは
僕は英語を話していると、普段よりさらに輪をかけて失言が増えるのですわ。
でもね、英語の場合は失言しても、

"Was it that loud?"

と、フレンズのチャンドラー風に切り抜けれるからokよね。もちろんokじゃないときもありそうだけどもやで。

実はitisは、その昔はNワードと組み合わせてN-----itisというように使われていたそうで、
「黒人は怠け者」
といったような人種差別的意味も含まれていたらしいです。

"~~itis"というのは、

meningitis(髄膜炎)
appendicitis(虫垂炎)
tonsillitis(扁桃腺炎)

といったように、「炎症」を表す接尾辞です。
つまりNワードにitisをつけることで病名らしさを演出し、
「たらふく食べたあとで眠くなる黒人の病気(人種に関係なく眠くなりますが)」
という意味で、ブラック・ピープル同士が自虐的なジョークとして使ってきたものなのだそうな。

今では非ブラックの人が使っても(without the N-word of course!!!)差別としては見なされないようですし、友人の中には「全然問題ないじゃん!」という人もいます。
しかし件の彼のようにいやがる人もいるので、意味だけ知っておけば十分なのかなー



たまに反省
でもなんて楽しい
英会話

(字余りしまくり)

2010年2月12日金曜日

悪魔の話

時が経つのは本当に早い。

2010年の波乱の幕開けを告げた未曾有のハイチ地震からもすでに一か月が経過した。
このブログはいつの間にかうんちく論的転回を経験したが、一応、ただ脈絡のないうんちくではなく、なるべくその時々の注目ニュースや季節を感じさせる話題などを取り上げるup 2 dateなブログにすることを目標としている。
ということでハイチネタでぜひエントリを書きたかったのだが、すっかり乗り遅れてしまった。

とはいえまだまだ大変な状況が続くハイチである。
地震国日本の尺度からすれば決して大地震とは言えない規模だったものの、とんでもない大「災害」になってしまったハイチ直下震災。
この一カ月は現地の悲惨な状況を伝える映像などとともに、欧米の政治家やセレブリティのコンシャスかつスピーディな反応に関する報道が注目を集めた。

だがそれを横目に、わしは「悪魔信仰」についてインターネットで調べるという不埒な行動をとっていた(許されたし)。
そう、ハイチから連想されるものと言えば、ヴードゥー教。
ヴードゥー教といえば、悪魔である。


わしは悪魔の存在を信じている。
もちろんそれはキリスト教的世界観における悪魔だ。
高校を卒業したての春休み、実話をもとにした悪魔憑きの映画『エミリー・ローズ』を映画館に見に行って、「一人暮らしなんてできんわ」と独白するほどの恐怖とともに、悪魔の実在を確信した。

わしはそもそもホラー映画がそれほど好きではない。
さらに、最近の邦画によくある「携帯の着信が呪いを呼ぶ」だの「とあるビデオテープを見た人は何日以内に死ぬ」だの、といった話は、設定を読んだだけで賢者モードに入る。
なんというか、不粋かつ安易に感じられるのだ。
理屈を超越した恐怖と、理屈と直結するテクノロジーをミックスするのは。
まあ、それはそれで、神秘なき時代に新たな恐怖を演出するための努力なのだろうが。

だがエミリー・ローズはわしの胸を貫いた。
エミリー・ローズという実在した若い女性が悪魔に憑かれ、周囲がその悪魔を祓おうと努力して失敗し彼女は亡くなる・・・それだけのシンプルなストーリーなのだが、実話ベースも相まって圧倒的な圧倒的リアリティが圧倒的にドSな演出で圧倒的に迫る!
あえておすすめはしない・・・わしも二度と見る気はないが、とにかくこの映画でわしは悪魔を信じるようになり、悪魔を退けるためにも日々祈らなければならないと思い、信仰を新たにしたのだった。

実際、悪魔をキリスト教の教義の中でどう扱うかに関しては議論が分かれるところではある。
新約聖書におさめられた福音のうちいくつかには、イエスが悪魔祓いをする場面も登場するが、カトリックの神学者の間では「悪魔=ローマ帝国軍」のメタファーであるとする説が主流であるようだ。
一方、ギリシア正教の一部では悪魔祓いの儀式を実際に請け負う教会なども存在するし、リアル・エクソシスト関連の動画などもいろいろ出回っていたりするのだが、怖すぎてとてもここでは紹介できない。
とりあえず十把一絡げでは行かないということである。
基本的に東欧の正教系修道会のほうが悪魔の研究についてはより、進んでいるということは言えるだろう。
しかしわしのようにカトリックでありながら悪魔をガチで信じているヤツもいる。

そんなこんなでハイチ地震をきっかけに故エミリー嬢のことなど思い出しつつ、悪魔信仰をキーワードにウェブを彷徨していたわしがたどり着いたのが、この記事である。
http://x51.org/x/03/08/2127.php

ヴードゥー教神父、悪魔との契約を出品:
英国はナリッジ(Norwich)在住のヴードゥー教実践者、Dtor Snake氏が"悪魔と契約して大物になる方法"をeBayに出品中。
落札後は落札者と個人的に連絡を取り、クロスロードでの契約を確実に行う。
落札者は氏が案内する闇の使者と"真の契約"を交わすことになる


もっとも、これは6年以上前の記事なので、オークション自体はとっくに終了している。
悪しからず。

もちろん、こんな話は笑って楽しむべきもの、信用したらアホである。
「悪魔との契約」と「eBay」という絶妙なミスマッチ感や、「これで救われた人はたくさんいる。でも、名前を明かすわけにはいかない」という理屈からプンプンするインチキ臭さはもちろんのこと。
それ以外にも、「契約」が二段構えになっており、Snake氏は要するに案内人に過ぎない点にも注意したい。
案内するだけの人間が「契約を出品」とはおこがましくないか?
手数料の規模にもよるが。

それ以前に、そもそもSnake氏はUK在住なのである。
イングランド東部の小都市に、どんなヴードゥー・コミュニティが?

こんな人を「ヴードゥー教神父」と呼んでいいのだろうか?

と問題点はいろいろあるが、Snakeさんの発言には、真剣に読むべきポイントもあるのだ。

曰く「本当はクロスロードの儀式の本質は悪魔的(サタニック)ではないんだよ。そもそも悪魔っていう概念自体、キリスト教が勝手に作り上げたものだしね」。

さてここで、映画『クロスロード』を思い出されたい。
ことの発端は、ウィリー・ブラウンという黒人青年(ロバート・ジョンソンの"Cross Road Blues"にて、「俺の友達」と歌われている人物だ)が、ミシシッピ某所の十字路で「ブルースマンとしての腕前」と「魂の所有権」を交換条件として契約したこと。

そして、その契約の相手をウィリー・ブラウンは「レグバ」と呼んでいるのだ。


話をハイチに戻します。
カリブ海に浮かぶイスパニョーラ島の西側を占めるハイチ共和国。
人口の95%はフランス領時代につれてこられた奴隷の子孫である黒人だ。
そしてヴードゥー教は、彼らの故地であるアフリカを起源としハイチで開花した(厳密には少し違うがジャマイカのラスタファリズムと同様の)、非常にパワフルでブラックな宗教である。

(余談だがわしがかつてハマった、米フロリダ州マイアミを舞台にした洋犯罪ゲームGrand Theft Auto: Vice Cityでは、街の外れにあるその名もLittle Haitiという地区にヘイチアン・ギャングたちがナワバッているのだが、そいつらが乗っているクルマ(カッコよさげなローライダー)はVoodooという名前だった。つまりアメリカではハイチといえばヴードゥー、ヴードゥーといえばハイチというわけだ)

黒いタキシードに身を包んだ粋な死神であるバロン・サムディや、蛇神ダンバーラ、怒りっぽい火の神オグン。
キャラ立ち激しい神々のオンパレードだが、中でも異色を放つ神がいる。
彼こそはレグバ(Legba)。
「ぼろをまとった老人の姿をしている」とされるため、死神や蛇神や火神と比べるとビジュアル的インパクトは少ないが、非常に重要な神格である。

トリックスターとしての性格も興味深いが、この場合に肝心なのは、レグバが神界と人間界を結ぶ鍵を握っているということ。
だから、神々を呼び出す儀式の際、最初に到着するのも、最後に去っていくのもレグバ。
彼がドアを開閉しないと交流は不可能なのだ。

そして、彼は「十字路の神」でもある。
十字路=交差点の意味するところは明白だろう。
神界と現実世界とが、文字通り交差するところ。
だからこそ、ウィリー・ブラウンは十字路を統べる主に「レグバ」と呼びかけたのだ。
アメリカンカルチャーとカリビアンカルチャーの距離の近さをいかにも示しているではないですか。


「ハイチ国民は、85%のカトリック教徒と110%のヴードゥー教徒からなる」と言われる。
要は、ハイチのヴードゥー教徒たちは同時にキリスト教徒でもあり、アフリカ起源の神々とともに、イエスもマリアも、そしてカトリック特有の多彩な聖人たちも信仰対象だということだ。
それら聖人は、時に単独で、時にはヴードゥー神と同一視されつつ、愛され崇められている。

たとえば聖ペトロ(ピーター)。
「初代教皇」と扱われることもある彼は、「天国への鍵」を保有すると言われている。
そして、さきほど書いたとおり、異界のドアを開閉する鍵を握っているヴードゥー神といえばレグバ。
ゆえにペトロは、レグバと同一視されることがある。

要するにハイチでは、ヴードゥーがキリスト教を吸収・合併したのだ。
だから「110%」なのだよ。


ロバート・ジョンソンが十字路で出会い、契約を交わした「悪魔」とは、実はレグバのことではないか。
そう結論づけるアメリカ文化史研究家も多い。

だが待たれよ。
映画『クロスロード』にふたたび話を戻すと、物語の終盤、老人となったウィリー・ブラウンが「レグバに会いたい」と言うと、使者が「レグバ?知らんのかいな、あの人は今は改名してんで。今は”スクラッチ”ゆうんや」とあざ笑うシーンがある。

そしてその「スクラッチ」とは、とりもなおさず英語圏での悪魔の別名なのだ。
映画ではほんのわずかな言及ではあるが・・・この改名のくだり、哀しいことにアフリカの神がキリスト教に「悪魔」として取り込まれていることの証左ではないか。

ヴードゥー教→悪魔信仰というイメージも、ここから来ていると思われ。
なんとも申し訳ない話だ。
ハイチでは決してレグバは悪魔では無い(だろう)。

「クロスロードでの契約は、決して悪魔的ではない」
Snake氏はそう主張した。
それはつまり、十字路での儀式が本来、ハイチの人(アフリカ系)による、ハイチ(アフリカ)の神との交流だったことを強調しているのだろう。

だが・・・古代のユダヤ人が近隣民族の神々を悪魔として自分たちの神話に取り込んだのと同様に・・・近世以降のキリスト教はアフリカの神々を悪魔と同一視した。
それを批判したのが「悪魔っていう概念自体、キリスト教が勝手に作り上げたものだしね」という部分だという。

そんなキリスト教の不寛容さと対照的に、「有力な神様は大歓迎!」とばかりに、イエスやマリアや聖人たちを神として取り込む、無節操だがおおらかなヴードゥー教。

多極化・多元主義の時代を生きる人類に必要なのは、後者のメンタリティではないか。
時折、そう思う。


まあ悪魔がいることに変わりはないんだが。