2013年3月27日水曜日

キ■■マ2

映画版を見てもーたわ。

えーーと、もうここで私のような者が書くべき感想とか無いとは思うのだけれど、
やっぱりありきたりながら、桐島が最後まで出てこないというところがポイントと思いました。

タイトルにも名前が入っているのに、桐島は最後まで出てこない。
桐島についての情報は、劇中の登場人物の会話から断片的に与えられ続けるが、彼は決して画面に姿を現さず、その全体像についてわれわれ鑑賞者が知ることはない。

ラスト間際に、ついに姿を現すか?と、いかにも出てきそうな演出があるが結局出てこないまま、高校の屋上でスクールカースト上位グループと下位グループが接触し、邂逅を果たす。
この桐島の不在は、ヒッチコックが用いた「マクガフィン」という古典的なひっかけの技法でもある。
本来、高校生の序列を決定するスクールカーストの頂点に君臨し、校内のあらゆる人間関係の参照点となっていたはずの桐島(だからこそ、彼が部活をやめることでカーストの全体がグラつく)を、内容が補てんされることのない空虚な記号としてのみ表象することで、当事者からすれば絶対的なものに感じられるスクールカーストだって、外部(つまりわれわれ映画の鑑賞者側)から観察すると意味を読みとることができない、不可視なものなんだよ、というメッセージを、吉田大八監督は伝えたかったのではないかな?などと無理やり考えた。
(ただ、前回小説の感想を書いたエントリの最後に思いつきで書いたセカンドオーダーの観察と無理やり繋げて解釈してみただけっす)

いずれにせよ、皆が絶賛するのも頷ける面白い映画だった。
「自分が撮っている映像と、過去の名作たちが繋がっていると感じる瞬間が好きだから映画を撮る」という前田くんのモチベーションは、ひたすらに前田くん個人の内面に規定され、それでいて他者の他者性に依存した歓びである。これは恋愛に通じる構造でありながら、確かに映画を撮ることがセクロスより楽しいんだろうな。と思わせる説得力がある。こうしてこの作品は、恋愛経験豊富な者が上位にくるスクールカーストの相対化に成功する。
超越性(桐島≒スクールカースト)の存立の危機と、そのあとにくる、内在的価値の深堀りによる行為の意味の獲得は、見る者全員に用意されたカタルシスだ。

2013年3月24日日曜日

ドラマ版モテキ再考(いまさら)

先週末、大学時代にトルコを一緒に旅した男、モラが東京にきてたので、映画版モテキをDVD借りて見ました。
この映画に関しては劇場に見に行ったときの感想をブログにも記しています。
→2011年時の感想





で、その友達にドラマ版をオススメされたので、ドラマについてもDVD借りて一気に見るという活動をしていました。




ドラマ版も面白かったです。

大根監督の一貫した世界観でありつつ、映画版の前日譚なので、うむ、視聴感的にはスターウォーズエピソード1的な()




主人公の幸世くんは、女子に対してやってはいけない行動ばかりを連発し、本当に見てられないんだけど、それでも嫌いになれないのは、自分にもそういうヘタレな人格があるからだと思います。





私は、(資本主義社会の抑圧に与して象徴消費を繰り返す)バブル期のトレンディドラマもしくは島耕作的なプレイボーイ物語に対するアンチとして、プラトニックな純愛モノがリバイバルしたのがゼロ年代だったと思っているのだが…



異性間の純愛だと冬ソナ的な構図になるし、
韓流ブームを通過したわれわれが見て楽しいコンテンツにするためには、別のヒネリがいるよね、ということでアッー!♂の世界に走ったもーたのが諸々のBLとか「坂道のアポロン」だな。
プラトン的愛を端的に表現しようとしたとき同性愛は確かにわかりやすい設定(cf.フーコー)


ほいでもうひとつのオルタナとしての、ヲタクの恋愛モノの範疇にモテキも入るとは思うのですが、、、ヲタ恋愛という意味では電車男という先行事例があるものの、ヲタのプラトニシティとバーターになっていた「一途さ」みたいな前提を撤去して、複数の女の子に目移りしちゃうヘタレ主人公を描いたところが新しいリアリティなのかなと思いました。


この目移りしがちなところは映画版だけだとわからなかった。
映画版の後半はけっこうシリアスな恋愛モノになるので。。


一途さには欠けているのだけど、幸世は女を完全にルックスで選んでいるから、結局プラトン的だと思う。



(同性でも異性でも、とりあえず美しければ好き、というのがプラトン的愛のエッセンスだったはず)


 でまあ、いっぽうで参照点になっているのがリリーフランキー演じる墨さんなのですよねぇ

バブル世代モテ男の象徴



モテキはまた、バブル世代を目の敵にしてるロスジェネ(アラサーの幸世)の悶々とした感じを描いた作品でもあるのだなーと思たよ。
でもゆとりのわれわれは一周してバブラーの墨さんにひかれちゃうんだよね(そう劇中の満島ひかりのように)。

2013年3月21日木曜日

美魔女の作り方・・・ではないッッ!!(本の感想)

移動中に読もうと思い吉祥寺の本屋で平積みの中からテキトー買いした本だ。


40代・大人女子のためのお年頃読本 プラチナ編 [単行本] 横森 理香 (著)

タイトルだけ見ていまどき流行りの美魔女講座かと思いきや、むしろアンチ美魔女的内容であった。

肉体的にもメンタル的にも、否が応でも枯れて(失礼)いってしまう40代の女性のために、そうした変化を所与の条件として受け入れつつ、どのようによりよく生きるか、その知恵を説いた内容であった。


話題は生活習慣から家族との関係、恋愛、趣味教養の話まで幅広いのだが、美容&健康の話題について取り上げたチャプターでは、アンチエイジングに投資しまくって20代30代と同じようなルックスを無理してでも保って美魔女を目指すのではなく、むしろ小娘にはない、40代だからこその叡智と品性を活かせという戦略が提案されていました。


かなり腹を割って書いてくれてる生き方論て感じだ。





まだまだ今の自分のことばっかりで必死な私のような若造は、自らの老いや衰えについて、いつか訪れるものと頭では理解していても、なかなか実感ベースではわからない。

しかし、「死ぬ」ということは決してある時点で突如訪れるイベントではなく、われわれ誰しもがこの瞬間にも確実に、そして不可逆的に死に近づいています。
生きることは、ジワジワと死んでいくプロセスとも言えるのだよね。
つまりどのように老いるかという問題は、どのように生きるかという問題と同値なのであって、この本の読者層として決して想定されていないであろう20代男性とも無関係ではないんす。


横森さんは、最大公約数的な良い生き方として、やっっすいプライドを捨てて、今置かれた場所で精いっぱい楽しんで生きましょう人に優しくしましょうということを、是是非非で推奨します


誰にも共通して言えるよい生き方とは、自分というものを最大限に活かして、世の中にささげること、ではないでしょうか。世の中というものが家族であったり会社であったり、コミュニティや社会であったり、地球環境や復興支援であったり、人それぞれだと思いますが


矜持とは、自分が憧れる、尊敬できる行いを自らできるようになること


プライドなんか持ってたら、つらくなるだけです。そんなものは捨てて、「今ここ」に居る自分を楽しみましょう



私事になりますが、いちおう今は、同僚にも恵まれ、自分の能力を活かせる、やりがいある仕事をしてい(ると信じてい)て、愉快な同居人たちと、若者が住みたい街No.2の下北沢でシェアハウスしていて、音楽その他趣味の時間も充実してるし、交友関係にも特に大きな不満はないっす。

ないんですが。


まあ、人に嫉妬することはあるわ。
他人様にはあれがあるけど自分にはない。自分にはあれもない、これもない、と気づいていくプロセスが人生なんかなぁ(恍惚)
そう。わしには金もないし色もない。それでもモテたいんだけどね。

ただ、毎朝、目を覚ますとはじまる1日1日が、神様から自分だけへの贈り物なんだよねーーとか思うと、わりと幸せだ(His amazing grace♪)。






フ■ブライト財団がたった一通のコピペレターで、アイビーリーガーになるという私の長年の夢を破壊してから、いくばくの時が経った。


仕事では欧米の大学との付き合いもありますし、関連学会に出たりもしていますから、コーネルとかジョージアテックとかの学生とかポスドクみたいな人らと知り合ったりするんですね。
まあそれぞれ大変なんだろうが、そういう人らと会ったり、大学のキャンパスいったりすると、やっぱ自分もまた思いっきり勉強してーなーーくそーこいつら羨ましいーーとか思って ぐぬぬ。。。となりかけます。


ただまあ、今はとりあえず、林先生ばりに

「IMDSH!(゚Д゚)」(いまでしょ)

とドヤ顔キメれるよう置かれた場所で咲いて、本物のアイビーリーガーよりもスマートでタフな、ラギッド・ジェントルマン(F&E的語法)になったろうと思いますよ (・_・)




うららかな春の訪れがお前らの心に優しさを与え、平和の実を結びますように。

2013年3月20日水曜日

追悼Bobby Smith (from The Spinners)

黄金期のフィリーソウルを代表するグループだったスピナーズのリードシンガー、ボビー・スミス氏が亡くなったそうだ。

http://newsone.com/2288891/bobby-smith-the-spinners-dead/

享年76歳だそうな。ご冥福をお祈りいたします。



長渕剛に似てるよね。

2013年3月17日日曜日

キ■■マ(本の感想

月末にロイハーグローヴのライブに行ってハシャイだと思ったのがついこないだな感じだが、気づけば3月ももう半分終わってんのな。


朝井リョウ著 桐島、部活やめるってよ (集英社)

日本中を夢中にしたあの映画の原作だ。
そしてこれもシェアメイトのザンちゃんの蔵書だ。

恥ずかしながらまだ映画は見ていないのです(1回目)。
やたら評判良いので、どんなすごいストーリなんかと思っていたら、少なくとも小説のほうは、特に大きなドラマがあるわけではなく、ひたすらに日常系である。
ある片田舎の高校の日常と、どろどろとした人間関係が複数の高校生の一人称から淡々と描かれる。大きなストーリーの展開が無い分、感情の移ろいなどの描写はとても細かく、直喩から隠喩まで様々なメタファーが散りばめられており、センター国語の問題文にも適しているんじゃないか?

去年全国各地でイジメ問題が多発し、大人も学生も、学校空間における社会関係を巡る困難について考えを巡らせていたさなか、奇しくもスクールカーストを主題として取り上げたこのような作品が登場したのは興味深い。



私の高校時代を振り返ると、われわれもスクールカーストについてとてもセンシティブだったと思うし、むしろ「スクールカースト」という言葉が人口に膾炙する遥か前だったが、普通にカースト制度のアナロジーを使って自分たちの人間関係を形容していたのを覚えている(上位2%の最強リア充「バラモン」から、いわゆる非差別集団「アウトカースト」まで)。。。それくらい、高校生の人間関係はカースト制度のタームに馴染むということか。




ただ、私の出身校は中高一貫の男子校であり、「桐島」で描かれているような階層関係とはかなり違ったよなという印象も、もちろんある。

共学校に通う男子高校生の人間関係においてこれほど「女子」というファクターがデカいとは。。




女子の目線など、気にする必要がなかったわれわれは本当に恵まれていたのだと、実感する次第である。あらためて男子校は素晴らしいな。




そういえばこの週末、たまたま東京に来ていた中高の同級生と、姉妹校(両方男子校だけど姉妹なのな)卒の友達と遊んだのだが、我が家で映画を見ようという流れになったとき不覚にも「桐島」ではなく「モテキ」をチョイスしてしまった。。

桐島こそ、男子校出身の野郎らと、わーわー言いながら見るべき映画だという気がする(もちろんモテキも男同士で見て楽しい映画だが)。







ところで、文庫版の解説文で、映画「桐島」を監督した吉田大八氏も書いているとおり、著者の朝井くん(1989年生)は、同年代のコミュニケーションと人間関係を見事なまでに対象化し、観察して描いている。

ただ、さらにそれを映像化した吉田氏はセカンドオーダーの観察、 つまりコミュニケーションの観察の観察をやってしまっているわけですよね。

再帰性の時代にあって、このあたりが桐島が好評を博した理由のヒントかな、と思いました。

まだ映画は見てないんですけどね(2回目)。

2013年3月14日木曜日

春がきたね(読書感想文)

春がきたぜ!(意味深)

 

大澤真幸『恋愛の不可能性について』 (ちくま学芸文庫)


DLIシリーズ

とりあえずザンの蔵書を渉猟していくシリーズ

林家ぺーさんの著作だが、今見るとタイトルからして黒歴史臭がパない。。

タイトルは中2っぽくてなかなかおもろそうなのだが、抽象的な議論が続くうえ、様々な思想家の用語や概念がパッチワーク的に散りばめられているので読むのは結構大変である。

昔はこのテの、自分が読んだ本を全部引用しないと気が済まないような書き方をする文筆家は、ヒップホップを感じさせるのもあって好きだったが、やっぱり、「いちいちラカンやデリダを経由しないでほしい…」という思いを禁じ得なくなり、最近ではあんま読まなくなっている。

しかしあらためて読んでみると、このテの本も、構造化という意味で価値があるんじゃないかと思った。

つまり、哲学や思想というのはそのときどきでバラバラな人たちが好き勝手言っているのが基本なので、時系列などに沿った体系的な整理というのはほぼ不可能なのだが、まさっち〜のようなガッチャンコしたがりのおかげで、これとこれとこれこれは同一のテーマのもとにこういう風に読めますというのを示されると、部分的にでも哲学の学問体系を俯瞰した気になれる。

(至極当たり前のことかもしれないが)






さて、ぺーによれば、第三者の審級が十分に抽象化した結果、その支配下にいる各個人は、行為の帰結のレベルではなく、行為の選択のレベルにおいて、つまりどの行為を選択するかという志向作用そのもののレベルにおいて、規範的な枠に閉じ込められる。

これは、抽象化された規範である第三者の審級に対して個人が常に「私は〜である」という自己正当化を永続的に反復せざるをえないからである。クリプキが述べたように、「私」は指示詞として発話者をさすが、その述定部分「〜である」は個体としての発話者を余すところなく定義することはできない。しかし、抽象的な規範が個体を捉えているならば、個人はそのような不完全な「私は〜である」という自己正当化を規範に対して永続的に行わざるをえなくなる。このような絶えざる反復の効果によって、あたかも完全には到達できないはずの「自己」が擬制される。

ここでまさっちは擬制的なものとしての主体・主観が、行為選択のレベルにおいて第三者の審級を内在化させることになると演繹する。

第三者の審級が抽象化されるということは、それに先行する具体的な第三者の審級を否定し、主観の内に包括するということでもある。

言い換えれば、具体的な第三者の審級は、先向的投射の範囲内にはない差異=他者に直面するやその確実性を揺るがされてしまうのだが、その他者さえ自らの圏域のなかに包括してしまうような先向的投射が行われえた時にはさらに抽象化した第三者の審級が定立される。

しかしこれは換言すれば、第三者の審級の抽象化は他者抜きには行われえない、ということである。それゆえ第三者の審級が抽象化される過程では、各個人の身体にとって他者が発見される内在性への依存度が増し続けるということでもある。

つまり超越性が十分に超越性を持つためには、それにともなって逆説的に内在性への依存が上昇しなければならない。

抽象的な第三者の審級が自らを位置づける場所として、擬制的な主体性が生み出されたのであるが、それはフッサールが意志と記号の純粋な一致として見出した内面の声にほかならない。

これをデリダは自己への現前と呼び、そのような一致状態においてさえ根源的な差異に付きまとわれていると分析した。つまり、抽象的な第三者の審級によって生み出されたかに見えた一貫した主体性は、同時にまったき差異を孕まざるをえない。

第三者の審級が局限まで抽象的になるということは、その審級が各身体の内面に孕まれた他者に依存せざるをえないことが露呈されていくということでもある。




超越性(第三者の審級)が内在性(主観においてとらえられる他者)に依存せざるをえないということが露呈する過程は、超越性にとって壊滅的である。

大澤先生によれば、超越性が内在性にもろに依存していることが露呈し、そのことから超越性が存立の危機に陥ると、もはや超越性は、主体が直面する他者に依存しているということを隠蔽することさえできない。

むしろ、内在性が直接超越性を支えることになる。したがって超越的な規範は決して到達できない。

しかし、その超越性が抽象化されればさるほど、規範の内実は無化されていく。



難しいのですが、ようは、愛する対象である他者を確定記述の束に回収できないことから生じる愛の記述不可能性(いわゆる、イケメンで商社マンなら誰でもいいのか問題)は依然として存在するとして、さらにその記述不可能性を語る主体の側さえも耐えざる差異化のうちにあるので、「私」と「あなた」の間にあるこの愛というのは余計に何なんですかという問題になる。
この根源的な不確定性が、愛にずっとついてまわることになる。



さらに大澤さんは、ここからルーマンを引っ張ってくる。
「私」と「あなた」の両者が不確実になった状況下で、社会システム論的な考え方を使って、ふたりの間の関係性(コミュニケーション)のみを純粋に把捉しようとする試みなのだが。。。。もちろんルーマソ読みなら察しがつく通り、コミュニケーションにおいてその時点ごとの価値判断の意味が確定される(与えられる)のは、事後のコミュニケーションに接続されることによってでしか可能でないので、結局はこの試みも恋愛の不可能性を裏書きすることになってしまう。


まとめると、恋愛プロセスにおける意思決定の不安を埋め合わせる代理表象はもはや超越的な存在から与えられることはなく、徹底して内在的な自己規定によってしか獲得できない。 というのがこの本のメッセージなのだろうと思いました。

まあぺーさん自身は、そこまでは言ってないんだけど
こういう示唆を引き出せるのは、ぺーさんが参照するに留めている現象学的還元を徹底して突き詰めることこそが、恋愛を含めたコミュニケーションを構成する重層的な意味のネットワークを顕在化することを可能にする戦略だということを、ゼロ年代を通過したわれわれが既に知っているからですね(cf.ジョウカン)。


こう考えると、哲学のincrementalな深化を感じる。

2013年3月8日金曜日

ホモネタ←プラトン「国家」revisited



<あらすじ>

代沢恋愛総研では、コミュ力つけたいんだったらセクロスしろという所謂宮台テーゼと、「恋愛/せクロスより楽しいこと見つければいーじゃん」という内藤理恵子さんの批判にインスパイアされ、「まあ確かに恋愛しなくてもコミュ力はつけられるかもなー、、しかしそれでも恋愛からしか学べないことはあるのでは?」という問いを立てた。

まずエーリッヒ・フロムによる「愛するということ」を検討し、人を愛することは特殊スキルであり、そこから導かれる恋愛の意義は全人格的に手に入る幸福と平和だという暫定的な答えを得た。

いっぽうでこのラブ&ピースな回答に対して、「恋愛は資本主義的抑圧にまみれた世の中への抵抗だ」という不良的なマインドを持ったマルクス主義者ハーバート・マルクーゼの「エロス的文明」の検討も行った。

マルクーゼは現代文明を少しでも抑圧から解放するためにはプラトン的な愛の回復が必要だというのだが、この本からだけでは少しプラトン的愛の意味がいまいちわからんかった。

そこで、私はこの本に立ち返った。




プラトン『国家』





パンキョーの講読で買わされた大学生の本棚にもあるような超古典だが、教養課程が終わっても売らずに持ってると本棚全体が締まるぜ、みたいな本。

タイトルは国家なんだけど、国そのものの話は実は半分くらいしかない。

むしろ最初は個人の善き生とは何か?という話が結構長く続いて、ソクラテスがいろんな人にツッコミを受けているうちに、じゃあもっと大きいスケールでの善について考えることからスタートするほうがすっきりするでしょう、という流れで国家における正義の話になる。

そして国家というマクロスケールな裏付けを得た正義を個人の生にもいっかい適用する、という構成になっている。

結論としては、善き国家においてのみ個人の善き生が可能であるということが述べられている。一見ライトウイングっぽいが、もちろんここでの国家は現代のわれわれがイメージするような近代的なネイションステートではなく古代ギリシャのポリスだ。プラトンは腐敗したポリスの政治に対する絶望から哲学を志した。

いずれにせよ、個人の生が、より大きな「社会」と依存関係にあるという議論は、考えてみればマルクーゼの議論と対を成していることがわかる。

マルクーゼが現代を生きるわれわれのより良き生のために、現代文明における回復を謳ったプラトニック・ラブだが、その語源となっている「プラトーン」という言葉はもともとギリシャ語で「幅広い」というような意味である。

プラトニック・ラブ=射程が広い愛、つまり、 

アッー!♂

の世界だ。
プラトンはポリスに絶望するとともに、普遍的少年愛♂にハマっていたのだった。

同性愛は遺伝のせいなのか環境のせいなのか諸説あるが、男性の場合は4〜5%が同性愛者(女性は約2%)とする説が有力である。
しかし実際には、同性愛と異性愛の間に線引きすることは難しいというのが私の考えだ。

(恋愛について研究しているにも関わらずホモソーシャルに構成される代沢恋愛総研的にヤバいネタに入ってきたな。。)

例えば泣ける名画『ブロークバック・マウンテン』においては、主役の男性2人が、心魅かれる相手に出会ったしまったことで目覚めてしまったという描き方がなされている。大器晩成型のゲイだな
とにかく同性愛と異性愛は別の世界ではなく、誰しも程度の差こそあれホモ的な面とヘテロ的な面をもっているということは確実だろう。。。と思う。

イヴ・セジウィックは『男同士の絆』においてホモソーシャルの概念について解説しており、それによればホもソーシャリティとは同性愛嫌悪とミソジニーを同時に内包する男同士の絆を意味する。代沢恋愛総研も例外ではないかもだが、ホモソーシャルな世界では、男たちは同性愛を嫌悪し異性愛を指向しながらも、そのいっぽうで、男同士の世界に女が入ってくることを嫌う。

しかし、誤解を恐れずに言えば、男同士の友情は同性愛ときわめて近い と思う。
ブロークバックマウンテンに話を戻すが、2人が川できゃっきゃとはしゃいだり、全裸でガケから飛び降りたりするシーンがあるが、こういう野郎盛り上がり的なノリは、同性愛的な男性でなくても特に男子校などではよくあるだろう。
(私の周辺のサンプルを見る限り、男子校出身者は飲み会でもすぐ服を脱ごうとする傾向があるな・・・)

あるいは日本のマンガ『坂道のアポロン』においては、ジャズを媒介とした2人の男子高校生の友情が描かれているが、ネット界隈ではこれがガチホモマンガであることが根強く指摘されてきていた。
2人が一緒にジャズを演奏し、インタープレイで盛り上がるシーンはもはや擬似的なセックスシーンにしか見えない。ブロークバックマウンテンでは、それが直接的に描かれていたに過ぎず、この2つの作品に本質的な差は無い気がする。
ただ、アポロンでは、2人の主人公と三角関係になる律子というヒロインの存在によって、同性愛物語であることが巧妙に隠蔽されているのである。



重要なのはなぜカモフラージュが必要か?ということで。
あるいはなぜブロークバックマウンテンはあれほど絶賛されながらオスカーを受賞できなかったのかというその理由である。

答え:プラトン的愛は現代文明のもとでは抑圧されているから(ドヤ