2013年6月25日火曜日

Why don't you let her go, old sport?


こうして見るとスクエアプッシャー風()








「華麗なるギャツビー」見ました。
劇場で映画を見たのは、思えばかなり久しぶりでした。

衣装キャスト音楽演出すべてに贅が尽くされていて、好景気極まりない20年代米国の刹那的・享楽的ジャズエイジのバブルバブルした空気感が伝わってきた。
3Dでまばゆく輝く摩天楼は、レム・コールハースが「錯乱のニューヨーク」で書いたマンハッタンの急成長時代を映し出している。

そしてもはや伝統芸能といえる、Leonard DiCaprioのキレ芸()も見れたし、満足。
まじ才能あふれる俳優だわやっぱ。顔はだんだんSteven Seagullに似てきたか()

あ えて苦言を呈せばCarey Mulliganはちょいミスキャストかなと思いましたが。あのポジはやっぱBlake Livelyばりの別嬪でないと。。といいつつ、それだと普通すぎる(というか今っぽすぎる?)ので、ハリウッドきってのアシンメトリック顔(ieブサカ ワ)かつちょっと古風なMulligan嬢が抜擢されたのかもしれない。







プレビューでもさんざん語られていた通り、衣装特にメンズウェアは雨トラ好き垂涎のかっこよさとなっております。
一部は実際に、Brooks Brothersの1920年代のアーカイブをもとに仕立てられたとか。。
フィッツジェラルドの原作は1922年の夏が舞台という設定なので、サマーツイードやリネンのかっこ良いスーツが登場します。
個 人的には、ギャツビーが履いていたロングウイングのコンビシューズと、ギャツビーとデイジーの最初のお茶会をセッティングするシーンで、ニック役の Tobey Maguireが着ていたグリーンのへちま襟カーディガンが好きだった。。特に後者はリブ部分にトリコロールのパターンが織られているなど、いかにも Thom Browne的な意匠がかわいい.。(゚∀゚*) 

さらに補足すれば、当時フラッパーと呼ばれた女性たちの佇まいや立ち振る舞いも注目すべきポイントかと。
それまでコルセットで身体を締め付け、髪は長く伸ばし、貞節だった女性たちが、コルセットを脱ぎ、髪はボブにし、ゆるふわワンピを身に付けはじめたのはこのジャズエイジにおいてである。
彼女たちは人前でタバコを吸い、酒を飲み、奔放な恋愛をする。例えば生活の不満のはけ口を不倫に求めたマートルはそのツケを身を以て払うことになるが・・・・・・ゴシガやSATCの原風景ですね。。




しかしストーリー的には、、鬱映画なんだよね。
歪んだ愛とはいえ、あれだけ想いを尽くしても結局報われないっていうのは辛スギル!泣いたわ。
いっぽうでデイジーはギャツビーに全部押し付けて、、、
やっぱり女を人生に関わらせると、ロクなことがないYONE(;∀;)

2013年6月23日日曜日

ソーシャル化する音楽(読書)

文化系音楽ファンの間ではけっこう話題になっている円堂都司昭『ソーシャル化する音楽』を漸く読んだ。

帯のコピーどおり「次々と新しいムーヴメントが起こる音楽シーン」が「全方位レビュー」されているなかなかおもろい本であった。
ゼロ年代、ソーシャルメディアの登場に伴ってポップミュージックの消費環境がドラスティックに変化し、同時にコンテンツも急速な最適化の歴史を辿ってきたのは誰もが知るところである。


ゼロ年代以降の音楽シーンを考える上では、フェス、iTunes、YouTube、DOMMUNE、K- POP、Perfume、やくしまるえつこ、菅野よう子、神聖かまってちゃん、AKB48、ももいろクローバーZ、ゴールデンボンバー、アーバンギャルド、初音ミク、けいおん! 、音ゲ、エア・ギター、「歌ってみた」「踊ってみた」など、膨大なキーワードが想起され、ウェブや雑誌でもさまざまな言論が行き来しているが、それらを体系的に整理し解説した本ていうのは今までなかったと思う。

同じく今年に入って出た音楽本である『誰がJ−POPを救えるか?』(感想エントリ)が産業論寄りだったのに対し,こちらはきっちりコンテンツに踏み込んだ分析がされているので、専ら聴く専門の音楽ファンも読んで楽しい内容であろう。


本自体がサーベイ形式なのですべての内容を要約するのは難しいのだが、基本的には以下のコンセプトを、ゼロ年代以降の音楽シーンを語る上での鍵となる道具立てとして分析に用いている。


分割:様々なレベルで「作品」としてのまとまりを分割、分解する手法(音楽配信→アルバムではなく曲単位、フェス→「アーティストのワン・ステージ」という消費単位をつまみ食い可能な形に)

変身:音楽の形を変える手法(リミックス、マッシュアップ、着うたなど)

合体:音楽に関し、それを作り演奏したアーティスト以外の人間がかかわる(合体する)ことによって起きる状態を楽しむ(音楽ゲーム、エア芸、アーティストとタイアップしたパチンコなど)

ここで、あえてしょうもない感想を書くと、

これら、あたかも21世紀に入ってテクノロジーとメディアの変化によって突然現れた現象のように書かれておりますが・・・・・・・・・・
 
全部ヒップホップ/R&Bの業界では、はるか昔からやられてきたことではなかったか?

古いジャズやソウルのレコードからとったフレーズを新しいビートに載せかえたり、時にはもとの曲すら特定できないほどの粒度でパーツを抽出して別の曲の中に散りばめるサンプリング(チョップ&フリップ)や、DJ自らがさまざまなレコードから切り出した曲を繋いだ音源を売り物にするというミックステープカルチャー、既存曲に別のアーティストをフィーチャーして再演したりだとか、あるいは曲と曲を繋ぐ部分のビートにあわせてダンサーが自由に踊ったり(ブレイクダンス)とか、これら諸々はすべてヒップホップの登場時期から同ジャンルを特徴づけてきた技術/製作手法である。

それをまったく無視して突然鬼の首をとったかのように「分割」「変身」「合体」といったコンセプトを提示してドヤ顔をされても、ナンダカナァである。。



・・・というような感想がしょうもないのはわかっているんですけどね。

もちろんゼロ年代以降の日本音楽シーンで起きている変化は、ブラックミュージック的な作法論には回収されないレイヤーでの変化である。
音楽の消費者同士が自発的に音楽を分割し、合体させ、変身させていっており、結果としてプレイヤーとリスナーの境界は不可逆な形で曖昧になってきている。
また同時に、SNSやN次創作のファンコミュニティを介してソーシャルな「繋がり」に価値を置く新たな共同性が生成されている。これは昨今のフェス人気にも通底する要因であり、かつて米国でもウッドストックやライヴエイドのようなフェスにおいて人々が思い描いていたコミューン幻想が40年の時を超え、当時の理念とは少し形を変えて現出したものともとらえることができる。。。とな。


それにしても、クラブミュージック系への言及や目配りが少ないのは確かなのである。
あくまでロックを主軸に書いてあるので、音楽ファンの中でもロックリテラシー低めな(私のような)人は、ちょっと??な部分もあったりーので。。。
まあ、日本では依然としてポップミュージックの最大勢力はロックだということなんでしょう。


2013年6月11日火曜日

私的宅録の歴史③ 〜The Anniversary〜


今日は地味に勤続一周年なのだった(中途半端な時期やな)。

当然だが、1年前よりは出来ることは圧倒的に増えたしいろんな仕事を任せてもらえるようになった。
違うチームの人たちと仕事をする機会が増え、いろいろなスタイルの仕事の進め方を学べて今はとても充実している。
自由がきく範囲も大きくなってきたので、今年は自らの発意でコトを興せるようになっていきたい。
ただ、これまで特に障害もなく楽しく働いてきているので2年目にはどういう壁があるんだろうか。。というのはビビっている(常に)




ところで宅録振り返りシリーズ最後の作品です。
振り返っているうちになんか宅録熱も冷めたがww
これも2010年の作品で、基本的に②と同じ環境で録音しています。
ただ、メロディをしっかりつけようという意識はこっちのほうが強い。
結局アドリブ的なフレーズになってますが・・・あとはエフェクト祭り







いきなりざんちゃんの写真でスマソ
これから宅録やるとしたら、打ち込みと生ベースを組み合わせてちゃんと構成がある曲を作ってみたいです。

2013年6月8日土曜日

色彩を持たない多崎つくらない(本の感想)


毎度いまさら的な読書スタイルだが、例の村上春樹の新作を読んだ。

すごく読みやすい的なことがネットや各誌で書かれているのだが、個人的には読みにくいなぁと。。
続きが全然気にならない感じの文章がずっと続くのな。

1Q84はpage turnerというか、ワクワク感とともに読める作品だっただけに、これは・・・
正直最後まで読むのはやや苦痛だった。

それでも意地で最後まで読んだったが、ストーリー的にもなんか微妙かなと。

そもそも仲良しグループにある日突然シカトされたくらいで「死ぬことだけを」考えるようになって痩せてトラウマになる展開とかちょっとあり得ない。

再帰的な問いだが、いまの若者はもっとタフで柔軟で、地に足着いていて、賢いんじゃないだろうか?
少なくともメンヘラ女の言っていることで仲間を見捨てたりしないだろう。


あと、無自覚モテ男=好感のもてるハンサムボーイ(リア充願望の結晶のような存在)ってのは、きょうびあんまりいないかなと 
リア充層はだんだんハイブリッドになってて、わりとオタクと兼ねている(eg. Daizawa House Residents ・△・;


カッコつけてないオレがカッコイイっていう自意識もない。
何の障害もなく自然に彼女できてましたパターンも、少なくともわしは共感できんぬ。


春樹はこれまでと同じく、具体的な地名とか大学名とかで、作品世界を読者側の生活世界と共有化する戦略をとっているけど、この辺のズレ感が残念である。
あえての形式美ならそれはそれで文学としてアリだと思うが。。

ま、主人公はロスジェネ世代ということなので、私には理解できないだけかもしれない。
30代の人が読めばまた違った感想を抱くかも。




主題としては、相変わらず35歳問題を扱っている。人生の折り返し地点で、前半戦を清算しましょうというアレ。

自分に引き付けて考えると、なんか将来的に清算すべきことを今積み上げてる感覚は特に無いんだけども、もしいつか巡礼の年をやるとしたら、誰に会いに行きますかっていうのは、とりあえず考えたら楽しいかも。


最近、三菱ekワゴンのCMソングがクソかこいい。
これぞ、ゴスペル進行