2012年1月27日金曜日

Bright Size Mikan


温州みかんの、果物としてのブライトサイズ感は異常。


最近は、駒場の音楽実習室(生ピが置いてある防音室がキャンパス内にいくつもあるのは本当に素晴らしい)というところで、同期の鍵盤プレイヤーと音を出して楽しんでいる。
Pat MethenyやChick Coreaの曲をセッションして楽しんでいる。
久々でなんか衰えとか感じたりもしてあれだけど、なかなか楽しい。
もともとピアノとかギタとのデュオは結構好きだったし。

にしても、やっぱジャズのコンボとかやったことないピアノとかエレクトーンの人って、左手ガンガン系が多いようなね。。
そういうのはベースさん的には、常に悩ましい。
まあ遊んでるレベルならいいけど・・・

特にエレベは、モノにもよるけどほんとにピアノと帯域かぶってると思う。
弦だけ見たらそっくりだもんなー
基本的には、相性の悪い楽器どうしなんでしょうな。ヌケないといいますか。


ところで、滑り止め的に受けてた奨学金の書類が通りました。
ハジマタ\(^o^)/
また来月面接がありんす。
今回は、フラグも立てず慢心もせず全力でいきます。


2012年1月18日水曜日

Moment's Notice:]:]:]

日本を代表するジャズベーシスト納浩一ブログの最新記事。
覚悟を決めよう!


音楽以外でも、少しでもヤクザな道に進んでいる自覚がある人には、響くんじゃないか。

ええこと書いてあるんだが、ひねくれた目からすればまあこういう話は語り尽くされているし、成功者が言うことはだいたい同じだという気もするが。
一応、自戒としての意味も込めて。

みんな、大変ということなんだね!

2012年1月15日日曜日

ところで、

先日修論を書き終えました。
今月末に審査がありますが、きっとこのままなら修了できるはずです。

主に途上国における温室効果ガス削減事業がローカルな環境や社会にもたらす影響の評価手法に、地域によってどういう分散があるかを、テキストデータの統計科学を使って分析しました!!!!!!!!!111111!!!!

出願準備とか奨学金とかいろいろ並行してやりつつ書いた論文だったので忙しカッタッチャー忙しかったし、中盤戦はメンタル的にも大変だったけど、指導教官や研究室OBの方々の導きもあってなんとか形になったのは本当に良かった&感謝。
あんまし達成感とかは無いんだけどね。最後は実家で正月番組見ながらダラダラ書いてたから。


いっぽうで、本来なら余裕ブッコいて遊びたい時期ですがしかし、就職活動を始め(てみ)ました。
募集がこれからの奨学金もあるし、まだまだ留学のチャンスは残っているのだが、とりあえず何かしていないと不安なので。。

前みたいに、トップを目指すミーハー層就活っていうのだけはしないようにしようとは思ってます。
時期も時期だし、身の丈をわきまえてって感じで。
そして留学資金の話にカタがついたらその瞬間やめる方向で。
でも本格派な感じで、そこそこ全力でがんばる。

2012年1月13日金曜日

ヒストリーオブジャズインブラックnホワイっ!(本の感想です

中山やすきさんの「白と黒のジャズ史」を読んだ。

実質的な内容はジャズ史というよりも名門レーベル「ブルーノート」の歴史で、ジャズ進化の歴史を大体知ってればふんふんという感じで読める。
が、帯に書いてある「ジャズの正史を覆す」という文言とは異なり、「ジャズは黒人ミュージシャンと白人ミュージシャンが渾然一体となって作り発展させ、白人がエンターテイメントビジネスとして完成させた」ということ以外に特に目立った主張はない。

基本的にブルーノートがいかに前衛的で、採算を度外視した事業展開でジャズの進化に貢献したかということが書いてある。
ジャズであれなんであれ新しい文化がマスに受け入れられるにはまずもってそれをプロモーションする制度や市場の整備が必要であって、そこに一役買ったブルーノート創業者たちの活躍が描かれている。
したがって音楽的内容への言及は全体に少なく、「xx年代のジャズは大体こんな感じでこういうやつらがすごかった」といったことを把握している層がreadershipとして想定されているのだろう。

米国ポップカルチャー史におけるエスニシティの横断の問題はそれはそれとして非常に興味深いテーマだとは思うが、あまり突っ込んだ記述はされていない。
ちょっと期待はずれであった。

しかしこの本きっかけでiTunesライブラリ内のブルーノート系音源をまたちょろちょろと聴きなおしたが、やっぱホレスパーランなにこれかっこいいみたいになったわ。



うーーんロイクーー

2012年1月8日日曜日

チェック皿医務(本の感想です

修論のドラフトが仕上がったので、
ライターの長谷川町蔵さんと慶応英文の大和田先生による話題書「文化系のためのヒップホップ入門」を読んだったぜ。

「入門」というタイトルに相応しく、前半は時系列でヒプホップの基本的な歴史を辿ってるが、さすがは長谷川さんてな感じの独特な視点からのまとめが随所にあって従来からのブラックミュージック愛好家でも随分楽しめるんじゃないかしらと思いました。
(ただ、固有名詞がかなりの密度ででてくるので、まったく音のイメージがつかなかったり背景知識がない人はけっこう辛いんじゃないか・・・でも今はYouTubeもあるしいいのか)
『Wild Style』とかの、ヒップホップ草創期の空気を伝える映画DVDの紹介が素晴らしい。

また、大和田さんはベースを弾く人らしく、ベーシストらしい着眼点がちらほら見られ、そのへんは特に面白かったですね。
とてもうなずけるというか。
ザ・ガメの「Documentary」(2005)からヒップホップに入っていったとこらへんも親近感覚えたな。
あれは名盤つーか、わしも新盤で買ってきいたときはなんか衝撃だった。
トラックはドレー的サウンドスケープ全開で西海岸ギャングスタラップの流儀ど真ん中なんだけど、ナズやブラックソートを思わせるようなシンコペートしまくるラップスタイルという組み合わせで、本の中でも言われていたように、ヒップホップ音楽のボーダーレス化というか、ローカリティが希薄化していく時代の開幕を象徴する1枚だったのかと。

興味深い論点はいろいろあったのだが、全体として一番印象に残ったのはやっぱり「サウスの台頭=ラテンへの先祖返り」という説。
2000年代中盤より、アトランタからリルジョンとかリュダクリスとかTIとかが出てきて、ヒップホップの中心はダーティサウスへと移ってしまったのだが、その流れはリアルタイムで見てても、う〜〜ん、とは感じていたし、それが今でも最新鋭のメジャーリーグヒップホップをなかなか耳に馴染ませられないことに繋がっている。
しかしバウンシーなビートと、ひたすらパーティ礼賛のような中身のないかつ時にはまったくライムもフローもしてなかったりするラップの組み合わせというのがいかに受け入れ難かろうと、それが進化を止めた東海岸のリリシストを置き去りにして数歩先を行っているのは間違いない。
クラブでの再生を基本に考えているところが、もともとブロックパーティでのDJプレイから始まったヒップホップ音楽の創成期のスピリットを継承しているという話にも一理あるし、長谷川さんたちが整理するところの、「ループの気持ち良さを核としたブラックミュージックの本流」の歴史における最先端なのであるという論も頷ける。
そしてカリブ海系音楽の要素を取り入れた曲が増えてるのは、びバップからハードバップへの移行期にアフロ・キューバンが流行したジャズの歴史とも重なる。
結局ブラックミュージックの根底には脈々とラテンのリズムが流れていますよと、そのへんがニューオリンズのセカンドラインファンクのリズムの話とかとも絡めつつ展開してあって、面白い。
要するに、技巧や芸術性が極端に追求された反動として流行ってるのが、レゲトンでもソカでもなんでもかんでも取り入れて、ウェッサイもダーティサウスもイーストコーストもミッドウエストも関係なく客演に呼んで「パーティ!」というハイブリッドなダンスミュージックとしての機能を追求した今のメジャーリーグヒップホッップのスタイルである、と言いますかね。
(でもやはり大好きにはなれないから古参のファンはアンダーグラウンドに走りまさーな。。)


ジャズとの類比は結構でてくるけど、ポストモダニズムとしてのジャズ/ヒッップホップという視点は、やや語り尽くされた感もありながらもやっぱおもろい。
あらゆる物語性を抹消するために、パーカーやガレスピーは昔の小曲から歌を消し、コード進行だけを借りてアドリブしてたわけで、それをヒップホップにも敷衍すると、やっぱ過去のアーカイブから組み上げたトラックの中でフリースタイルするというのがエッセンスちゅうことになりまさーな。
だからメッセージ性とかストーリーテリングの技術とか、そういうのはある意味ヒップホップ音楽にとっては副次的な要素なのかもね。
基本的に叙情詩であると。
ラップに要求されるのはいかに上手いこと言ったるかという機知と押韻の技術ということかね。

ただひとつだけ、ヒップホップトラックメイカーの技術である「フリッピング」を、ジャズの「ブラインドテスト」になぞらえている箇所があるんだけど、フリッピングはやはり演者側の技術なので、ジャズでの対応物は「スーパーインポーズ」というところにならないだろうか。
別の曲のメロディとか名手の名フレーズをアドリブの中にぱっと取り入れるあれね。
個人的に好きなジャズの要素なのでここは譲れまへんな。

いずれにしても、おもろい本であります。

2012年1月5日木曜日

鯉が昇り龍になる年に ←

的な?



実家に帰ったらなぜか両親が坂の上の雲(ドラマ)にはまっていて、
というか前からはまっていたのは知っていたのだが、そのうち飽きるやろとか思ってたのが、
もっとヒドくなっていた。
なんか二人とも東郷平八郎の話ばっかするし。なんで?



広島で、うまいもんとか珍しいものとかいろいろ食べたのでブログに載せたかったのだけど、いまデジカメとPCつなぐケーブルみたいなやつなくなってて充電すらおぼつかない状況なのでね。
ちと辛い。

特に昆布にカキ乗せて七輪で焼いたやつはうまかった。
亡き祖母が茶道をやっていた関係で高級茶炭がむっちゃ残ってるというwwwww
あと、白子酒?っつーの初めて飲んだ。
これはお店で飲んだんだけど、白子焼きが日本酒に溶かしてあって、日本酒の、あの鬼ころしっっぽい臭いがその香ばしさでうまいこと消えてて、日本酒苦手なボクでもうまいと感じました。


明日東京に戻ります。
ケーブル買ったら、また写真日記が増える予定ライフアンドデス!!!!!!!!!!!!11111111

2012年1月2日月曜日

デレッデッデッデデレレーー↑↑(本の感想です

修論がやばいので、生協で買っておいた「一般意志2.0」を読んでしまいました。
2年前の朝生を見て以来、あずまんがあちこちで書いてたこととかには注目していたし、去年の駒場での集中講義も行ったしで、あらかじめ大体の論旨は知っていたので、まあサクッと読めた。

意外だったのはフロイト派の精神分析の理論の援用だ。
奇しくも2年前、あずまんの一般意志に関するアイデアを朝生で初めて見たとき、私はある事情からフロイト全集を読んでいた。
当時は、大衆の欲望を可視化して統治に利用するという考え方は、フロイトの思想とむしろ逆行するものと思っていた。
というのも、集合知の公共性は、ルソーの提示した一般意志のように、それがいかなる公的領域とも関連していない場合は、政治的空間でのヒエラルキーの無統制な拡散へと姿を変える恐れがあるからだ。
あずまんが提言する新しい民主主義の形では、誰もが情報の発信者になりながらも、その出力はあくまで集合的にしか評価されず、利用されない。
つまり、あらゆる個的な特徴を無効にするようなひとつの融合的な関係の中に、参加者全員が一同に押し込められることになる。
したがって、ソーシャルメディアの普及による語りや思考の氾濫は、その集積によって作り上げられる集合知、すなわち多数的なものがそこにおいて共有される諸問題に関わり得るようなひとつの政治的空間(=公的領域)のなかに包摂されない事態を招く。
これはフロイトが、かの有名な「無気味なもの」という論文で扱った「恐怖」という人間の精神状態についての記述と共鳴する。
簡単に言うと、人間は自らの思考の力を過信すると、逆説的に不信に陥るということで、ここから導かれるのは、人間集団の公共性を維持しようとすれば、結局は「神話」のような(統治論の文脈でいう国家主権のような)参照点が必要になる、という含意であーる。

しかし、あずまんの主張は熟議的な(近代合理主義的な)ものは全て私的な領域に限定し、いっぽう、公的領域では、ソーシャルメディアを通じて表出する大衆の「無意識」を吸い上げることで統治を行うべき、というものなので、そもそも意識的な「思考」に基づく大衆の行動を前提としていない。
つまり、公共の政治的空間に無意識の集積は含まれる必要はない。それは大衆の無意識の流動性を確保する戦略であるからだ。
あずまん本人も書いてるが、この辺の発想は、ちょっとネグリっぽい。
そしてあずまんのフロイト援用は当然、「無意識」の活用というところに関わる(このフロイトの使い方は非常にカルスタ的というか、まあそういうの個人的には全然嫌いじゃないんだけど、ちょっと脆弱な気もする)。
上に記した私のビミョウな誤解は梅田望夫的な総「表現」社会という語がまだ死にきっていなかった当時のウェブ社会論のせいとも言えるが、そもそもツイッター等を人間の能動的な表現の媒体と考えていないところがあずまんの論の独創的なところで、ある。
むしろツイッターやアマゾンは、意識に立ち現れてこない個人の欲望を淡々とログに残していく技術ととらえられる。
それらを集計して、意識のレベルまで持ってくることで、民主主義を成り立たせる。
「考える主体」としての政治参加ではなく、人間のバカ性を前提としたシニックな制度構築が目指される。

だから、本当は最後らへんのローティとかノージックの話はいらないってか、他者への「共感」とか、そっちに行くことでハナシがなんかかえってボヤっとしてしまっていると思う。
無意識が、他者への共感を欠いていることだってあるはずだし、たとえあずまんが描きだしたような民主主義の形が実現されても、排除や分断の問題は残るとは思います。
その辺のあやうさも、「動物化」のレトリックで回避できてるっちゃできてるんだろうけども、現実問題としてはね、うーん。みたいな感じです。

ともあれ、興味深く読めました。
「切手本」での東ディスに応えてるように読める箇所もちょいちょいあったりとかね。面白い。


(ブロガーのクイックHTML編集機能復活しとる!!!!)