修論がやばいので、生協で買っておいた「一般意志2.0」を読んでしまいました。
2年前の朝生を見て以来、あずまんがあちこちで書いてたこととかには注目していたし、去年の駒場での集中講義も行ったしで、あらかじめ大体の論旨は知っていたので、まあサクッと読めた。
意外だったのはフロイト派の精神分析の理論の援用だ。
奇しくも2年前、あずまんの一般意志に関するアイデアを朝生で初めて見たとき、私はある事情からフロイト全集を読んでいた。
当時は、大衆の欲望を可視化して統治に利用するという考え方は、フロイトの思想とむしろ逆行するものと思っていた。
というのも、集合知の公共性は、ルソーの提示した一般意志のように、それがいかなる公的領域とも関連していない場合は、政治的空間でのヒエラルキーの無統制な拡散へと姿を変える恐れがあるからだ。
あずまんが提言する新しい民主主義の形では、誰もが情報の発信者になりながらも、その出力はあくまで集合的にしか評価されず、利用されない。
つまり、あらゆる個的な特徴を無効にするようなひとつの融合的な関係の中に、参加者全員が一同に押し込められることになる。
したがって、ソーシャルメディアの普及による語りや思考の氾濫は、その集積によって作り上げられる集合知、すなわち多数的なものがそこにおいて共有される諸問題に関わり得るようなひとつの政治的空間(=公的領域)のなかに包摂されない事態を招く。
これはフロイトが、かの有名な「無気味なもの」という論文で扱った「恐怖」という人間の精神状態についての記述と共鳴する。
簡単に言うと、人間は自らの思考の力を過信すると、逆説的に不信に陥るということで、ここから導かれるのは、人間集団の公共性を維持しようとすれば、結局は「神話」のような(統治論の文脈でいう国家主権のような)参照点が必要になる、という含意であーる。
しかし、あずまんの主張は熟議的な(近代合理主義的な)ものは全て私的な領域に限定し、いっぽう、公的領域では、ソーシャルメディアを通じて表出する大衆の「無意識」を吸い上げることで統治を行うべき、というものなので、そもそも意識的な「思考」に基づく大衆の行動を前提としていない。
つまり、公共の政治的空間に無意識の集積は含まれる必要はない。それは大衆の無意識の流動性を確保する戦略であるからだ。
あずまん本人も書いてるが、この辺の発想は、ちょっとネグリっぽい。
そしてあずまんのフロイト援用は当然、「無意識」の活用というところに関わる(このフロイトの使い方は非常にカルスタ的というか、まあそういうの個人的には全然嫌いじゃないんだけど、ちょっと脆弱な気もする)。
上に記した私のビミョウな誤解は梅田望夫的な総「表現」社会という語がまだ死にきっていなかった当時のウェブ社会論のせいとも言えるが、そもそもツイッター等を人間の能動的な表現の媒体と考えていないところがあずまんの論の独創的なところで、ある。
むしろツイッターやアマゾンは、意識に立ち現れてこない個人の欲望を淡々とログに残していく技術ととらえられる。
それらを集計して、意識のレベルまで持ってくることで、民主主義を成り立たせる。
「考える主体」としての政治参加ではなく、人間のバカ性を前提としたシニックな制度構築が目指される。
だから、本当は最後らへんのローティとかノージックの話はいらないってか、他者への「共感」とか、そっちに行くことでハナシがなんかかえってボヤっとしてしまっていると思う。
無意識が、他者への共感を欠いていることだってあるはずだし、たとえあずまんが描きだしたような民主主義の形が実現されても、排除や分断の問題は残るとは思います。
その辺のあやうさも、「動物化」のレトリックで回避できてるっちゃできてるんだろうけども、現実問題としてはね、うーん。みたいな感じです。
ともあれ、興味深く読めました。
「切手本」での東ディスに応えてるように読める箇所もちょいちょいあったりとかね。面白い。
(ブロガーのクイックHTML編集機能復活しとる!!!!)
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