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2014年8月6日水曜日

スパルタ婚活塾(読書

ついに出たワァ。。という感じ。笑

代沢恋愛総研ではこれまで明示的に取り上げてきていなかったが、現代の恋愛理論を語るうえで欠かせない水野敬也氏の著書を、もちろん私は渉猟してきている。

中でも、ウケる技術、美女と野獣の野獣になる方法 は、単なる(男向け)モテテク指南に留まらない、人とうまくコミュニケーションをとり、円滑な人間関係を築くために使える心がけが詰まった素晴らしい教科書だ。

ま、何より読み物としておもろいので未読の方は是非読んでいただきたい。



そんな水野敬也氏がついに女性向けモテテク教科書を上梓された。


うーむ・・・やはり笑える。おもろいなぁ水野さん

見出しや文章がおもろいのは当然として、ページの切れ目でオチをうまく引っ張ったりといったレイアウトの工夫も相変わらず素晴らしいクオリティ。

全編水野節炸裂で、ネタ的な部分もありつつ(いや、かなり比率としては高いか)、珍しく男目線から書かれた女性向け恋愛本ということで、婚活女子にとってはかなり実用的と言えるのではないか。

女性が意中の男に好かれるためのありとあらゆる小手先テクニックを構造化し、まとめあげた著者のインテリジェンスに乾杯だ。


「コミュニケーションはサービスである!」と徹底してとらえ、
    ↓
意中の人のニーズを踏まえたうえで、
    ↓
予定調和を崩していくことにより、
    ↓
相手に楽しんでもらう


以上のことを基本哲学としているのは男向けの水野流恋愛術と同じ。

ツッコミマスターとなれ!
という部分も、ウケる技術と共通している。
自分の役割を理解し、コールアンドレスポンスを意識していくことは会話術全般においてすごく大切だと思う。

また、

「執着分散理論」→「仮氏理論」
「逆に理論」→「ライフ・イズ・ビューティフル理論」

といった、美女と~ で語られていた男向けモテテクの変奏も散見される。


つまり出会いから交際、結婚に至るまでのプロセスに必要とされるコミュニケーションの基本は、男女でそんなに変わらんということだろう。

ただし、男女の決定的な違いとして、女は「待ち」が基本で、男性から声をかけられるのもデートに誘われるのも交際を申し込まれるのも、すべて受身で実施していかなければならないことの難しさは繰り返されている。
自分から行くと、価値を下げることになってしまうからだ。

この本でも一部で自分から能動的に行くストロングスタイルも紹介されているものの、全体的には声をかけられる確率、デートに誘われる確率、交際を申し込まれる確率、プロポーズされる確率をあげるテクニックの紹介が大半だ。

ところで、タイトルにも含まれている「婚活」というワードは、社会学者の山田昌弘氏がAERAで使ったのが最初らしいが(参考:「「婚活」の時代」(山田昌弘・白河桃子、2008))、その後各種マスコミのあおりを受けて、最近ではこのワードが用いられる際、男性を経済的指標に還元して商品化し、「肉食系」「狩猟系」の結婚活動を行う女性たちが常にクローズアップされるようになっているように思う。

マスコミにより変形させられた婚活イメージが人口に膾炙した結果、女性全般に対する恐怖を抱いて、女性に積極的にアプローチできなくなっている男性もいるのではないか。

本書でも、婚活ブームから派生した専業主婦礼賛イデオロギーや、男性総人口の数パーセントに過ぎない玉の輿に乗ることの理想化を否定していないし、むしろそちらを目指せ!貪欲に!妥協せずに!と書かれている。(笑)

しかし、基本的には女性側からハンティングすることに対しては否定的なトーンで、前のめらず、男が追いかけてくるのを待て、というのが大原則である。

これを敷衍すると、やはり女性はアプローチを待っている!ということで、男性にも勇気を与えてくれる本なのではないか。

いやぁ、女子は大変や。(ひとごと)

2014年6月14日土曜日

ミリオネーゼ向け?恋愛本(読書)

はあちゅうの恋愛本買ってきて読んだ。


連載コラムの集合体なので一気に読めたし、面白かった。
バンバン売れているようで、多くのアラサー女性にとって支持され、共感を呼ぶ内容ではあるのだろう。

私も読んでいて、そうだよなー、と思うところはたくさんあり。
特に、ある意味平凡ですが、本書全体を貫く20代後半の男女の恋愛と結婚に対する意識の違い、という部分には大いに共感した。

男はまだまだ口説きたい。ワクワクしたい。
女子だってきっと口説かれたいはず。と、ここまではsame pageだが、結婚・出産までの逆算はどこまでも堅牢かつ、堅実なワケで。


という感じで、登場するのは女子会トークでよくあるネタばかりなのだけれども、
誰しもが普段考えている平凡なことをクリアに文章化することができるっていうだけですごい才能だなと思います。


ただ、もちろんはあちゅうといえば帰国子女→慶応/カリスマブロガー→電通というこれ以上ないリア充キャリアで、今は売れっ子中の売れっ子ライターであり半分、というかほぼ芸能人なわけですね。
そして本書中に登場する、はあちゅうを取り巻く人たちも、男女問わずメディア、広告、商社、銀行あたりで働いてものすごく稼いでいて、自分に自信があり、結果としておモテになっている。

というわけで、vernacular具合にはいまひとつ問題があるというか、どこにでもいる女子目線で書かれているとはいえないと思うんですよね。
こうした極めて文化/社会/経済資本力の高い人々の恋愛語りを読んでも、やはり極めて限られた人口層の話をきいている感じがしてくるのは否めない。


基本的に女性向けに書かれているのは大前提として。
そして男も読んでおもしろいしためになるな、とは思うが、私のような凡庸な負け組一歩手前の男が読むと少なからず凹むと思う。

はあちゅうは本書中で自分も含めた周りの女性たちのことを直接/間接的に、金と色を兼ね備えた「バリキャリ女子」「Aランク女子」などとラベリングしているが、こうした女性たちは当然男に求めるものもはっきりしていて、ハイレベルなわけで。。。


自分たちが求めているレベルに達していない男を見下してる感じはするのね。
「日本社会にも間違いなく身分階級が存在する」と言い切っていますし。

われわれ競争社会に生きる人間は、何かとランク付けが好きです。

はあちゅうは特に毒舌系なコラムニストではないと思うけど、少なくとも人をランク付けることに躊躇いがないことが、人気の理由のひとつかなとは思いました。





いやもう、正直に申しますと、元カノ思い出してしまうんですよねww
アラサーバリキャリ女子の価値観はここまで似るのかと。
成功者としての自覚と、人を格付けする視座な。


1年前の自分なら、何も考えず楽しくヘラヘラ読めた気がします。
これはle sentimentなのだろうか。

2014年3月31日月曜日

心の穴理論の入口として(読書

『淑女のはらわた 二村ヒトシ恋愛対談集』(洋泉社 2014)

DLIでも何度かレビューした二村さんの新著。
今回は対談集ということで、7名の女性との恋愛とセックスに関する対話が収められている。

川村エミコや小明といった、いかにも恋愛に関してコンプレックスがある非モテ/こじらせ系列の人もいれば(失礼か?)、はあちゅうや荒牧佳代といったリア充/恋愛強者寄りの対談相手もバランスよく入っていて、幅広い話題に触れている。

男女関係や性生活に関するライトな読み物として十分面白いし、男向け・女向けのモテテクも随所にちりばめられているので一読の価値はあるだろう。
基本的には二村監督持ち前の「心の穴」理論を駆使して、対談相手の女性の過去や現在の経験を深堀りし、心の穴の形を理解していこうという構成だが、やはり対話モノなのでなかなかうまく行かず、少し煮え切らない部分もあるのは確かです。

心の穴理論はこの本では小出しになっていて体系的に説明されてはいないので、初見の人が十分内容を理解するためには『恋とセックスで幸せになる秘密』を読む必要がある。DLIによるレビューはこちら

二村監督の、性に対するリベラルな考え方には賛同できる人もできない人もいるだろう。私は個人的には彼独特のヤリチン理論はプラトン的で好きだが。
しかしフィロゾフィーは一貫して、自己肯定(ナルシシズムではない)が大切だということなのであり、幸福論として多くの点で参考になるでしょう。



2013年12月31日火曜日

タイムリーじゃなくて申し訳だけど(読書)



なんでもPopeyeが、クリスマスシーズンにあわせて12年ぶりにデートマニュアルを組んだとかで、常見さんがイカっていたので(笑)↓

http://agora-web.jp/archives/1573801.html






オイラも買ってみました。笑





ポパイは去年5月にリニューアルして以来アメリカの古臭トラッド&ヘビーデューティ推しで人気を博している(?)


もともとポパイが推していたシティボーイ的なスタイルが、トム・ブラウン以降のアメトラブームとガッツリ共鳴したというのもあろう。そして今はカーディガンの肩掛けやセカンドバッグ/ドキュメントケースといったバブル期的な意匠がもてはやされる時代で、ポパイにとっても追い風になっている。いや、むしろ主従が逆か。










で、肝心の中身はといいますと、やはり常見さんがイカっているとおり、リア充のリア充によるリア充のための内容となっております。







オシャレだな~~(棒)

いろんなカップルのデートのサンプルがのっているのですけども、
出てくる人々、皆フォトグラファーとかデザイナーとかなんよな。

あまり私の周りには、いないのですが。。。





やっぱ今はeconomically challengingな時代なんで、こういう1万円デート特集みたいなのもある。
かつてバブル期にPopeyeが仕込んだ高級フレンチ→BAR→シティホテルでお泊りっていうコースはもうできないんです!
バブル崩壊で若者からは金がなくなり、ロマンスにつながる物語だけが残った。そういう時代に売る本に載っているコンテンツとしては、なかなか良いと思う。

ただ、まだそういうロマンティックラブと絡んだ「物語」を売り物にしているという点に常見さんは怒っているんだけど、この問題意識は実はすでに文化系トークラジオLifeで先取されている。
2010年11月28日の放送テーマは「クリスマス資本論」であった。神回だったと記憶している。こちらがアーカイブになります。→http://www.tbsradio.jp/life/20101128/

この放送回では、バブル世代とロスジェネ~ゆとりのクリスマスに対する認識やクリスマスにおける消費のジェネレーションギャップが論じられ、今も息づく「クリスマス=恋人たちのためのイベント」ちう枠組みを日本に定着させた雑誌として、1980年代中盤以降のan-anとPopeyeのデートマニュアルが断罪されていた。

(参考:関連書籍 ユーミンの罪)




そして今も、古き良きリア充雑誌Popeyeは、クリスマスシーズンになれば、デートすることを推奨している!(↑おうちデートも節約の基本ですね!)

あえての突き抜けは個人的には好感が持てるかもしれない。



映画デートの指南なんてまさに 古き良き って感じじゃないですか。
実際読んで笑えるし、使えそう。
上で述べたとおりPopeyeはトラッド族のものになったんだし、雑誌全体のThrow Backな雰囲気と相まっていていい感じだ。

恋愛強者のための雑誌、Popeyeの中にオルタナティブな社会像、複数のユートピアはないのです!
外部としての非リア充は登場しません。

ただし、かつての自分たちの行為を振り返る再帰性はあるんだよな。




Popeyeですらかつての(そして今の?)デートマニュアルのイタさをわかってますよ。。。と宣言したうえでのあえてのデートマニュアル推しは、2010年代っぽいなーと思うんですがどうでしょうか。

今は、「僕は自分の立ち位置をわかっています(笑)」と前もって宣言することが大切な時代だと感じています。



西野カナは「言葉で表現」できる人が理想らしい。
もっと愛の言葉を~~ ていう歌あったなそういえばw





DLIのバイブル ホイチョイプロダクションのあの名著も登場!



そして大根さんのこのエッセイは名文だと思いました!
「モテキ」っぽい個人的体験がいろいろ綴られています。
そして「モテキ」のあの名台詞の誕生秘話も読めます。


全体的に、買いなのではないかな。

2013年10月22日火曜日

Bye Boo

When starting a bonfire, the largest challenge is usually to trigger a spark for ignition.

Nevertheless, even when you have both a spark and bunch of barks, sometimes you still find the barks are wet after successful kindling.


Hello biatches.

2013年9月8日日曜日

自己肯定(読書)


モテない男が読むべき書籍No.1、『すべてはモテるためである』(こちらが私の感想)の著者で、AV監督の二村ヒトシ氏が、女性に向けて書いたLove論である。
Love論と言いつつもモテテク指南などでは決してなく、結局は広い意味での生き方論に行きついているのは、『すべモテ』と同じ。

良い恋愛をすること、良い恋愛を通じて幸せになるためのキーは、「自己肯定」であるそうだ。
まずは自分をあるがままに認めてあげないと、相手のことも認めてあげられない、ということらしい。

レヴィナスも、大浦先生も、ルーマンも、恋愛のエッセンスは、社会とか文化とか家族とかそういうしがらみを抜きにして相手と出会うこと、向き合うことだとおっしゃっているが、その前提となっているのは、まずもって、同じようなしがらみを抜きにして自分を好きになることだったのだな。
自分を好きになるといっても、自分の顔が好きだからとか、いい仕事してるからだとか、家が金持ちでいい人生だからとか、そういう理由じゃなくて。
こうしたナルシシズムに陥ることなく、自分の存在を無条件で「よい」と肯定できなければ、人のことも無条件に肯定することはできない、と二村氏は述べる。

自分の欠点や、寂しさを埋めることを目的として恋愛をするのではなく、相手を、自分を、そしてふたりの関係性を、それ自体完成した、満ち足りたものとして受け入れることこそが肝要ということだろう。

あくまで女性向けに書かれてはいるが、これは再帰的に男性に向けたレッスンとしても読むことができる。
紳士諸氏におかれては、女性=原初的に母的な存在、というのがどうしてもナルシスを記述するうえでの参照点になりがちである。つまり、ある特定の女性にとっての恋人である→彼女を独占・支配している→彼女の幸せをコントロール下に置いている という状況を、(見せかけの)自己肯定の材料にしがちなのだ。しかしそれは相手を自分の都合の良いように利用しているに過ぎないし、結局は、自分は完璧ではないという劣等感からくる行為だと言える。

2013年8月1日木曜日

【Daizawa Love Institute】On taboos


愛の再帰性にとって不可欠なのは、こちらの感情と相手の感情が呼応することが双方の感情に基づいて肯定され探し求められるということ、言い換えれば私自身が愛する者としてまた愛される者として相手から愛され、相手も愛する者としてまた愛される者として私から愛されるということ、つまり自らの感情と相手の感情が呼応することなのである。愛は、私という人と同時にあなたという人にも向けられ、そうである限り私もあなたも愛の関係にあり、つまり私もあなたも互いにこうした関係を可能にしている──このように愛し合えるのは、私やあなたが善良であるとか、美しいとか、高貴であるとか、金持ちであるという理由からではない。  Niklas Luhmann





前回DLIでは恋愛において相手に求める条件リストの作成が持つ効用についての考察からスタートし、何らかの形で設定される”ハードル”的なものの存在が親密な関係の構築に対して果たすポジティブな役割の類型化を行った。

恋愛ハードルの第1形式:個人の理性が自らに課す障害(eg. 条件リスト)
恋愛ハードルの第2形式:男女(男女じゃなくても可)がふたりの間で共有している間主観的ストレス(ie. "吊り橋")

ここでハードルがポジティブな役割を果たす、つまりハードルが存在することによって逆に恋する気持ちが強まる、と言うときに前提になっているのは、われわれの心の中で、理性(言語)によって記述可能な領域が、本能(言語化不可能な領域)を絶えず抑圧しているというフロイト派っぽい仮定である。
例えば親友の彼女に手を出してはいけないというのは理性からの語りかけであるが、それがテメエを繁殖に駆り立てるリビドーの働きを弱めることはない。
語りつくされていることだが、本能はDNAを残すために利己的な行動を促す。むしろ、不実を働いているときのほうが精液中の精子の数や運動量は増えるという医学的エビデンスすらある。

このような「裏切り」とか「不倫」のような、社会の規範や倫理に反するシチュエーションこそが恋愛を盛り上げる燃料となるケースは珍しくない。
理性に従えば、好きな女が親友の彼女である状況は、障害にほかならない。好きな女が親友と別れるのを待つか、あきらめて枕を濡らすかというのが理性に従った行動パターンである。
ところが理性の語りかけを振り払い、親友の彼女とヤル状況まで漕ぎ着ければ、それは有り体に言って非常に「エロい」し、正直、普通に彼氏がいない女とヤルより燃えるだろう。
自分が子孫を残す確率を増やしているだけでなく、他のオスが子孫を残す確率を減じているのだから当然である。

というわけで往々にして、ロマン主義的な恋愛を駆動するのはタブーであることが多い。

社会的に共有された規範や道徳観を、恋愛ハードルの第3形式と名付けよう。

ドイツの理論社会学者ニクラス・ルーマンは、唯一といってもいいエピグラフ的著作『情熱としての愛』(3年間ほど?絶版だったがつい最近重刷されたもよう)において、人間同士の親密な関係について私たちがあらかじめ共有している「コード」こそが、親密な関係を可能にする、と述べた。
つまり、例えばチェスのルールを知らないと遊べない(対戦者とコミュニケーションできない)のと同様、恋愛についても、恋愛がどういうものか、どういうコミュニケーションが期待されているか、前提を共有していなければ、恋愛することはできないということである。
コミュニケーションのコードとしての愛は、社会からの逸脱によって特徴づけられるとルーマンはいう。情熱としての愛のコードは道徳的な根拠を必要とせず、社会の秩序によってその持続が保証されるということもない。
ルーマンもまた、社会的・道徳的規範からの逸脱に愛のエッセンスを見出す立場をとっているということだ。

ロミオとジュリエットに典型的だが、文化表象において伝統的なタブーのひとつが、階級や人種を超えた恋愛だ。
あるいは宗教上の理由や、親族同士の対立なども第3形式の恋愛ハードルとして機能する。
厳格なバプテスト派の家庭で育てられ、婚前の性的交渉など御法度中の御法度という環境でありながらも性的に奔放にふるまう少女たちが否応なくエロいソフィア・コッポラ監督の『ヴァージン・スーサイズ』はこの典型だ。ことハリウッド映画において、キリスト教的な倫理観は専ら破られるものとして消費されてきているのではないか。。

いっぽうで、世の中はガンガンリベラル化してきており、特にここ日本で民族や宗教上の価値観との齟齬が恋愛の障害になることはもはや考えづらい。

そこで昨今、わかりやすくタブーを超克する第3形式の恋愛ハードルとして代替的に消費されているのが
・NTR
・ガチホモ
・年齢差
といった設定だと考えられる。

浮気や同性愛はまだまだ現代日本でもタブーとして共有されている。

あるいはAKB48なども、「恋愛禁止」というタテマエがありつつちょいちょいフライデーされている。これは、生殖能力がありながらも生殖してはいけないという少女(=処女)性を売り物にしているアイドルでありながら、その禁断が破られるところを見たいという逆説的な大衆の欲望を映し出している。

そして以前、モテキについて感想を書いたエントリでも述べたとおり、最近では、身分/階級制度無き時代に疑似的に創出された身分差というものも、ハードルとして機能しているのではないかと考えられる。
すなわち、モテ層と非モテ層の間の差だ。
現在の日本で、金持ち、若い、イケメン、オシャレな趣味、夢、イケている友達がたくさん、高いコミュ力etc...といった恋愛資本を多く持つ者と、持たざる者の間では格差が絶えず再生産されている(cf.ピエール・ブルデュー)。
リア充と非リア充の間の境界は、実質的に「恋愛してOKな層」と、「恋愛する資格がない層」の間の境界に近づいている。

映画版モテキでは、サブカルオタク、金なし、夢なし、学歴なし、友達もあんまいない、といった「恋愛する資格がない」層に属する幸生が、「恋愛してOK」な層に属するみゆきに恋をすることで物語が成立した。
これは極端に言ってしまえば奴隷から貴族への恋と本質的に差がない。現代の日本で非リアがリア充を好きになることはタブーなのだ。映画の序盤で、幸生はみゆきとの身分差を絶えず自分に問いかけ、葛藤する。
住む世界の違う女子に恋焦がれる平凡な男子という構図は、ビリー・ジョエルのヒット曲「アップタウン・ガール」や、わが国におけるヒュー・グラントの知名度を一気に高めた映画『ノッティングヒルの恋人』等でも描かれている。

しかしモテキでポイントとなるのは、幸生とみゆきは、一見すれば同じ世界に住んでいるように見える、ということだろう。
別に所得や職種や年齢や出身家庭環境に極端に大きな差があるわけではない。
ただ、持っている恋愛資本に大きな差があり、その差を乗り越えることが社会的にはタブーと見なされているし、幸生当人もそれを自覚している。

恋愛資本の格差問題は、身分制度無き時代にロマン主義的恋愛を演出するタブーとしての機能を果たしていると述べたが、ここまでくると恋愛ハードルの第1形式、すなわち恋愛についての自分ルールとの区別があいまいになる。
リア充と非リアの差を意識するかどうかは、あくまで当事者の問題ともいえるからだ。

宗教や、法的に定められた階級制度といった厳然たる社会ルールがハードルとして機能しない時代、恋愛ハードルの形式の区分は質的に意味をなさないのかもしれない。
ただ、どのような形であれ私たちのエロスは象徴界(言語、文明、理性、意識、自我・・・)からの抑圧を受けており、そこからリビドーを解放しうるのは、プラトン的な愛でしかない。というのがマルクーゼのメッセージだった(参考:以前のDLIでの検討)

では、さまざまな抑圧の形はどのように決定されるのか。

表象文化が与えるステレオタイプなイメージが恋愛に対して果たす
役割については、スロベニアの思想家スラヴォイ・ジジェクが興味深い議論を展開している。
曰く、小説や映画に現れる「理想的な恋愛関係」は、私たちが実際に経験する恋愛関係の「消える媒介者」、すなわち精神分析理論における「原初的神話」の役割を果たす。平たく言えば、私たちの内面に、あらゆる恋愛関係のひな型となるようなファンタジーが存在するからこそ、私たちはリアルでも恋愛関係を取り結ぶことができるというのだ。そしてこのファンタジーは、小説や映画、ポルノグラフィーの消費を通じて形成されるという。

したがって、モテキや電車男のようなポピュラーカルチャーに表象されるということは、その時点で既にリア充-非リア充間の恋愛は多かれ少なかれ社会でタブーと見なされているということでもあるのではないか。


恋愛の絡んだ物語の創出には何らかのハードルが必要であることを長々と語ってきた。

唐突だが、テラスハウスの視聴率が低いのは、この辺りが理由じゃないかと思うのである。
奴らには恋愛をするうえでなんの障害もない。
イケメンと美女が葉山のテラスハウスに一緒に住んでいる。普通に考えて恋愛する以外にやることないだろ!と思うところだが、意外とカップルはあんま成立してない。
逸脱すべきコードが無いから、逆に恋愛できないのかもしれない。よく比較されるあいのりには、恋愛するとドロップアウトしないといけないというルールがあったから、物語が生まれていたのでは。

ま、個人的にはかなり好きではまっとるけどね。テラスハウス

2013年7月20日土曜日

【Daizawa Love Institute】リスト思考について

好きな人の条件を30個あげると結婚できるときいた。




「こいつとはずっと一緒にいたってもいい」

と思える、パートナーに求める条件をわりと厳しめに決めておくことで、満足できない相手と満足できない関係に陥るのを回避し、結婚までのコスト(時間的・精神的)を最小化しようという戦略らしい。




恋愛において「若さ」に対して異様なまでに大きな価値が置かれる日本では、若さが失われればずっと結婚できない可能性が高まる。そして若さは一度失われれば二度と取り戻すことはできない。したがって、特に出産適齢期との兼ね合いもある女性たちは結婚を急ぐ傾向にある。
私と同年代の女性たちも、このところ結婚適齢期を迎えている。結婚していく者もあれば、単身者は恋愛/結婚市場において現役プレイヤーとして活動できる残された時間を計算し、パートナー探しを焦りはじめている。
(いっぽうで私はまだまだ恋に恋していたいセカンド童貞真っただ中であり、どんどん現実的になっていく女子とは温度差が拡がりつつある。DLIとして、彼女を作るという形でのアウトプットは、もうできそうにない)


いずれにせよ、これから失敗できる回数に余裕がないアラサーにとって、効率よくパートナーを選定することは至上命題なのだ。


条件というのは例えば、

・よく笑う
・怒鳴らない
・煙草を吸わない
・年収1000万円以上
・長男ではない

といったヤツだ。
もちろん、こんなにありがちじゃなくてもいいけど。

で、こういう話になると必ず、言語哲学でいうところの確定記述の束と固有名に宿る剰余、あるいは社会学でいう機能主義と親密圏みたいな議論になってしまう。俗にいう商社マンでイケメンなら誰でもいいのか問題である。
だから、「恋愛は結局フィーリング♪パートナーに求める条件みたいな話は、飲み会でのネタ程度にしかならんじゃろ」という結論を、われわれは往々にしてだしがちだ。

ただ、30個というのは膨大なリストなので、すべての条件を満たす人を見つけることは簡単ではないし、すべてではないにせよ、条件に多く適合する人物を選んでいけば候補は必然的にかなり絞り込まれるため、近似的に「商社マンでイケメンだとしても、誰でもいいわけではナイ」を実現できる。
ということでこの30個という数の多さが、リスト化戦略の有効性の鍵であるといえそうだ。

もちろん、仮に30個の条件をすべて満たす人物が本当に現れたとしても、条件リストは、その人の個性を表現しきってはいないだろうし、世界のどこかには30個の条件を満たす人物が2人以上いたとしてもおかしくはない。
しかし例えば、30個の中でも重視する条件とそうでもない条件によって重みづけを変えて採点し、気になる異性について定量的にかつ多角的に評価する、というような使い方もできるかもしれない。


しかしここでDLIとして提言したいのは、パートナーに求める条件のリスト化による逆説的な効果だ。

例えば、
・よく笑う
・怒鳴らない
・煙草を吸わない
・年収1000万円以上
・長男ではない
という要件を含めていたとしよう(わかりやすくここでは五箇条にしている)。

そんなあなたの目の前に、
・めったに笑わない
・怒鳴る
・ヘビースモーカー
・年収200万円
・長男
という男が現れたとする。

条件リストに合致していない項目があるので、本来ならパートナー候補から弾かれそうなものだが、それでも何らかの理由で、例えばわかりやすくそいつがハンパじゃない床上手だったとして、否応なく惹かれてしまったと仮定しよう。

そのときあなたは、自分で決めた条件を満たしていないにも関わらず、そのハンデを乗り越えてもなお、自分を惹きつけてくる彼に、より強く惹かれるのではないだろうか。
(あれ・・・こんなヤツ・・・一番きらいなタイプなのに・・・・・・でもなんで?気づくとあいつのことばかり考えてる・・・?!)


恐らくこうした、理性的に決めた自分ルールと、生殖という動物的な本能の間にはミスマッチがあって、管理しようとすれば管理しようとするだけ、本能は制御不能になるのではないかと考えられる。

男女ともに精神的ストレスもダイレクトにホルモン分泌などに影響を与えていることが知られている。「こうしなければならない」とか、「こうじゃないとヤダ」といった制約が増えれば増えるほど、ややこしいことになっていくのだ。

つまり30個条件を挙げるというようなリスト化思考は、理性に基づいて個人的なルールを設定することで、それを超えようとする本能のはたらきを強める効果があるのではないか。
ハードルが高いほど燃える!ということだ。

付き合う相手についての自分ルール。
これを恋愛ハードルの第一形式と呼ぼう。

いっぽうで、ニューヨークの大停電の際、その停電中に恐怖を感じたカップルが性交渉をし、更に劇的に出生率が高くなった(明らかに停電中の性交渉で妊娠したと思われるベビーが後に一時期にまとまって生まれた)というから、本当に、ワイルドな動物的な本能を否定してはいけないと思う。
これはいわゆる吊り橋効果で、ふたりでストレスフルな状況を乗り越えるというハードルを共有することから、本能のはたらきが強まるパターンだ。
これを恋愛ハードルの第二形式と呼ぶ。

どこかセクシャルな分野というのは、野性的な要素に満ちていて、その欲求・要求から切り離せないので、それを考えたときに、ハードル設定の効果を侮るべきではない。


そして実は、個人的なルールを設定したり、吊り橋を一緒に渡ったりしなくても、世の中には恋愛関係になるうえで乗り越えるべきハードルが満ち満ちている。

恋愛ハードルの第三形式は、社会的に共有されたタブーだ。
次回はこれについて考察する。


2013年3月24日日曜日

ドラマ版モテキ再考(いまさら)

先週末、大学時代にトルコを一緒に旅した男、モラが東京にきてたので、映画版モテキをDVD借りて見ました。
この映画に関しては劇場に見に行ったときの感想をブログにも記しています。
→2011年時の感想





で、その友達にドラマ版をオススメされたので、ドラマについてもDVD借りて一気に見るという活動をしていました。




ドラマ版も面白かったです。

大根監督の一貫した世界観でありつつ、映画版の前日譚なので、うむ、視聴感的にはスターウォーズエピソード1的な()




主人公の幸世くんは、女子に対してやってはいけない行動ばかりを連発し、本当に見てられないんだけど、それでも嫌いになれないのは、自分にもそういうヘタレな人格があるからだと思います。





私は、(資本主義社会の抑圧に与して象徴消費を繰り返す)バブル期のトレンディドラマもしくは島耕作的なプレイボーイ物語に対するアンチとして、プラトニックな純愛モノがリバイバルしたのがゼロ年代だったと思っているのだが…



異性間の純愛だと冬ソナ的な構図になるし、
韓流ブームを通過したわれわれが見て楽しいコンテンツにするためには、別のヒネリがいるよね、ということでアッー!♂の世界に走ったもーたのが諸々のBLとか「坂道のアポロン」だな。
プラトン的愛を端的に表現しようとしたとき同性愛は確かにわかりやすい設定(cf.フーコー)


ほいでもうひとつのオルタナとしての、ヲタクの恋愛モノの範疇にモテキも入るとは思うのですが、、、ヲタ恋愛という意味では電車男という先行事例があるものの、ヲタのプラトニシティとバーターになっていた「一途さ」みたいな前提を撤去して、複数の女の子に目移りしちゃうヘタレ主人公を描いたところが新しいリアリティなのかなと思いました。


この目移りしがちなところは映画版だけだとわからなかった。
映画版の後半はけっこうシリアスな恋愛モノになるので。。


一途さには欠けているのだけど、幸世は女を完全にルックスで選んでいるから、結局プラトン的だと思う。



(同性でも異性でも、とりあえず美しければ好き、というのがプラトン的愛のエッセンスだったはず)


 でまあ、いっぽうで参照点になっているのがリリーフランキー演じる墨さんなのですよねぇ

バブル世代モテ男の象徴



モテキはまた、バブル世代を目の敵にしてるロスジェネ(アラサーの幸世)の悶々とした感じを描いた作品でもあるのだなーと思たよ。
でもゆとりのわれわれは一周してバブラーの墨さんにひかれちゃうんだよね(そう劇中の満島ひかりのように)。

2013年3月14日木曜日

春がきたね(読書感想文)

春がきたぜ!(意味深)

 

大澤真幸『恋愛の不可能性について』 (ちくま学芸文庫)


DLIシリーズ

とりあえずザンの蔵書を渉猟していくシリーズ

林家ぺーさんの著作だが、今見るとタイトルからして黒歴史臭がパない。。

タイトルは中2っぽくてなかなかおもろそうなのだが、抽象的な議論が続くうえ、様々な思想家の用語や概念がパッチワーク的に散りばめられているので読むのは結構大変である。

昔はこのテの、自分が読んだ本を全部引用しないと気が済まないような書き方をする文筆家は、ヒップホップを感じさせるのもあって好きだったが、やっぱり、「いちいちラカンやデリダを経由しないでほしい…」という思いを禁じ得なくなり、最近ではあんま読まなくなっている。

しかしあらためて読んでみると、このテの本も、構造化という意味で価値があるんじゃないかと思った。

つまり、哲学や思想というのはそのときどきでバラバラな人たちが好き勝手言っているのが基本なので、時系列などに沿った体系的な整理というのはほぼ不可能なのだが、まさっち〜のようなガッチャンコしたがりのおかげで、これとこれとこれこれは同一のテーマのもとにこういう風に読めますというのを示されると、部分的にでも哲学の学問体系を俯瞰した気になれる。

(至極当たり前のことかもしれないが)






さて、ぺーによれば、第三者の審級が十分に抽象化した結果、その支配下にいる各個人は、行為の帰結のレベルではなく、行為の選択のレベルにおいて、つまりどの行為を選択するかという志向作用そのもののレベルにおいて、規範的な枠に閉じ込められる。

これは、抽象化された規範である第三者の審級に対して個人が常に「私は〜である」という自己正当化を永続的に反復せざるをえないからである。クリプキが述べたように、「私」は指示詞として発話者をさすが、その述定部分「〜である」は個体としての発話者を余すところなく定義することはできない。しかし、抽象的な規範が個体を捉えているならば、個人はそのような不完全な「私は〜である」という自己正当化を規範に対して永続的に行わざるをえなくなる。このような絶えざる反復の効果によって、あたかも完全には到達できないはずの「自己」が擬制される。

ここでまさっちは擬制的なものとしての主体・主観が、行為選択のレベルにおいて第三者の審級を内在化させることになると演繹する。

第三者の審級が抽象化されるということは、それに先行する具体的な第三者の審級を否定し、主観の内に包括するということでもある。

言い換えれば、具体的な第三者の審級は、先向的投射の範囲内にはない差異=他者に直面するやその確実性を揺るがされてしまうのだが、その他者さえ自らの圏域のなかに包括してしまうような先向的投射が行われえた時にはさらに抽象化した第三者の審級が定立される。

しかしこれは換言すれば、第三者の審級の抽象化は他者抜きには行われえない、ということである。それゆえ第三者の審級が抽象化される過程では、各個人の身体にとって他者が発見される内在性への依存度が増し続けるということでもある。

つまり超越性が十分に超越性を持つためには、それにともなって逆説的に内在性への依存が上昇しなければならない。

抽象的な第三者の審級が自らを位置づける場所として、擬制的な主体性が生み出されたのであるが、それはフッサールが意志と記号の純粋な一致として見出した内面の声にほかならない。

これをデリダは自己への現前と呼び、そのような一致状態においてさえ根源的な差異に付きまとわれていると分析した。つまり、抽象的な第三者の審級によって生み出されたかに見えた一貫した主体性は、同時にまったき差異を孕まざるをえない。

第三者の審級が局限まで抽象的になるということは、その審級が各身体の内面に孕まれた他者に依存せざるをえないことが露呈されていくということでもある。




超越性(第三者の審級)が内在性(主観においてとらえられる他者)に依存せざるをえないということが露呈する過程は、超越性にとって壊滅的である。

大澤先生によれば、超越性が内在性にもろに依存していることが露呈し、そのことから超越性が存立の危機に陥ると、もはや超越性は、主体が直面する他者に依存しているということを隠蔽することさえできない。

むしろ、内在性が直接超越性を支えることになる。したがって超越的な規範は決して到達できない。

しかし、その超越性が抽象化されればさるほど、規範の内実は無化されていく。



難しいのですが、ようは、愛する対象である他者を確定記述の束に回収できないことから生じる愛の記述不可能性(いわゆる、イケメンで商社マンなら誰でもいいのか問題)は依然として存在するとして、さらにその記述不可能性を語る主体の側さえも耐えざる差異化のうちにあるので、「私」と「あなた」の間にあるこの愛というのは余計に何なんですかという問題になる。
この根源的な不確定性が、愛にずっとついてまわることになる。



さらに大澤さんは、ここからルーマンを引っ張ってくる。
「私」と「あなた」の両者が不確実になった状況下で、社会システム論的な考え方を使って、ふたりの間の関係性(コミュニケーション)のみを純粋に把捉しようとする試みなのだが。。。。もちろんルーマソ読みなら察しがつく通り、コミュニケーションにおいてその時点ごとの価値判断の意味が確定される(与えられる)のは、事後のコミュニケーションに接続されることによってでしか可能でないので、結局はこの試みも恋愛の不可能性を裏書きすることになってしまう。


まとめると、恋愛プロセスにおける意思決定の不安を埋め合わせる代理表象はもはや超越的な存在から与えられることはなく、徹底して内在的な自己規定によってしか獲得できない。 というのがこの本のメッセージなのだろうと思いました。

まあぺーさん自身は、そこまでは言ってないんだけど
こういう示唆を引き出せるのは、ぺーさんが参照するに留めている現象学的還元を徹底して突き詰めることこそが、恋愛を含めたコミュニケーションを構成する重層的な意味のネットワークを顕在化することを可能にする戦略だということを、ゼロ年代を通過したわれわれが既に知っているからですね(cf.ジョウカン)。


こう考えると、哲学のincrementalな深化を感じる。

2013年3月8日金曜日

ホモネタ←プラトン「国家」revisited



<あらすじ>

代沢恋愛総研では、コミュ力つけたいんだったらセクロスしろという所謂宮台テーゼと、「恋愛/せクロスより楽しいこと見つければいーじゃん」という内藤理恵子さんの批判にインスパイアされ、「まあ確かに恋愛しなくてもコミュ力はつけられるかもなー、、しかしそれでも恋愛からしか学べないことはあるのでは?」という問いを立てた。

まずエーリッヒ・フロムによる「愛するということ」を検討し、人を愛することは特殊スキルであり、そこから導かれる恋愛の意義は全人格的に手に入る幸福と平和だという暫定的な答えを得た。

いっぽうでこのラブ&ピースな回答に対して、「恋愛は資本主義的抑圧にまみれた世の中への抵抗だ」という不良的なマインドを持ったマルクス主義者ハーバート・マルクーゼの「エロス的文明」の検討も行った。

マルクーゼは現代文明を少しでも抑圧から解放するためにはプラトン的な愛の回復が必要だというのだが、この本からだけでは少しプラトン的愛の意味がいまいちわからんかった。

そこで、私はこの本に立ち返った。




プラトン『国家』





パンキョーの講読で買わされた大学生の本棚にもあるような超古典だが、教養課程が終わっても売らずに持ってると本棚全体が締まるぜ、みたいな本。

タイトルは国家なんだけど、国そのものの話は実は半分くらいしかない。

むしろ最初は個人の善き生とは何か?という話が結構長く続いて、ソクラテスがいろんな人にツッコミを受けているうちに、じゃあもっと大きいスケールでの善について考えることからスタートするほうがすっきりするでしょう、という流れで国家における正義の話になる。

そして国家というマクロスケールな裏付けを得た正義を個人の生にもいっかい適用する、という構成になっている。

結論としては、善き国家においてのみ個人の善き生が可能であるということが述べられている。一見ライトウイングっぽいが、もちろんここでの国家は現代のわれわれがイメージするような近代的なネイションステートではなく古代ギリシャのポリスだ。プラトンは腐敗したポリスの政治に対する絶望から哲学を志した。

いずれにせよ、個人の生が、より大きな「社会」と依存関係にあるという議論は、考えてみればマルクーゼの議論と対を成していることがわかる。

マルクーゼが現代を生きるわれわれのより良き生のために、現代文明における回復を謳ったプラトニック・ラブだが、その語源となっている「プラトーン」という言葉はもともとギリシャ語で「幅広い」というような意味である。

プラトニック・ラブ=射程が広い愛、つまり、 

アッー!♂

の世界だ。
プラトンはポリスに絶望するとともに、普遍的少年愛♂にハマっていたのだった。

同性愛は遺伝のせいなのか環境のせいなのか諸説あるが、男性の場合は4〜5%が同性愛者(女性は約2%)とする説が有力である。
しかし実際には、同性愛と異性愛の間に線引きすることは難しいというのが私の考えだ。

(恋愛について研究しているにも関わらずホモソーシャルに構成される代沢恋愛総研的にヤバいネタに入ってきたな。。)

例えば泣ける名画『ブロークバック・マウンテン』においては、主役の男性2人が、心魅かれる相手に出会ったしまったことで目覚めてしまったという描き方がなされている。大器晩成型のゲイだな
とにかく同性愛と異性愛は別の世界ではなく、誰しも程度の差こそあれホモ的な面とヘテロ的な面をもっているということは確実だろう。。。と思う。

イヴ・セジウィックは『男同士の絆』においてホモソーシャルの概念について解説しており、それによればホもソーシャリティとは同性愛嫌悪とミソジニーを同時に内包する男同士の絆を意味する。代沢恋愛総研も例外ではないかもだが、ホモソーシャルな世界では、男たちは同性愛を嫌悪し異性愛を指向しながらも、そのいっぽうで、男同士の世界に女が入ってくることを嫌う。

しかし、誤解を恐れずに言えば、男同士の友情は同性愛ときわめて近い と思う。
ブロークバックマウンテンに話を戻すが、2人が川できゃっきゃとはしゃいだり、全裸でガケから飛び降りたりするシーンがあるが、こういう野郎盛り上がり的なノリは、同性愛的な男性でなくても特に男子校などではよくあるだろう。
(私の周辺のサンプルを見る限り、男子校出身者は飲み会でもすぐ服を脱ごうとする傾向があるな・・・)

あるいは日本のマンガ『坂道のアポロン』においては、ジャズを媒介とした2人の男子高校生の友情が描かれているが、ネット界隈ではこれがガチホモマンガであることが根強く指摘されてきていた。
2人が一緒にジャズを演奏し、インタープレイで盛り上がるシーンはもはや擬似的なセックスシーンにしか見えない。ブロークバックマウンテンでは、それが直接的に描かれていたに過ぎず、この2つの作品に本質的な差は無い気がする。
ただ、アポロンでは、2人の主人公と三角関係になる律子というヒロインの存在によって、同性愛物語であることが巧妙に隠蔽されているのである。



重要なのはなぜカモフラージュが必要か?ということで。
あるいはなぜブロークバックマウンテンはあれほど絶賛されながらオスカーを受賞できなかったのかというその理由である。

答え:プラトン的愛は現代文明のもとでは抑圧されているから(ドヤ

2013年2月26日火曜日

Marvin Gayeが死ぬまでエ□ソングを歌い続けた本当の理由がわかった気がする。

DLIでは

恋愛からしか学べないことは何か?

という問いを立て(参照)、
エーリッヒ・フロムの『愛するということ』の検討を進めていた。


恋愛について語るとき多くの人が参照したがるクラシックだが、実際にこの本を読んで、内容に向き合ったヤツが今の日本人の中にどれだけいるのだろうか。
非常に危険なことだが、こういうカッコつきの名著は往々にして、日常に溢れる世話話の中で、そのタイトルに言及するだけで満足してしまいがちだ。つまり、プルーストの「失われた〜」などと同じく、著者とタイトルの組み合わせを知っていることに妙な価値が見出されている本のひとつだと思う。

かくいう私も今回読んでみるまでその内容について詳しくは知らなかった。

で、率直に言うと、
これってそんな名著か???という感想を抱かざるを得なかった。
この本についてなんとなく口にするヤツらはタイトルが好きなだけじゃないかという疑問が。

実際に読んでみるとわかるが、いかにもヒッピーブーム前夜・・・といいますか、ジャックケルアックないしジョンレノン臭がする本だ。
フロイトが展開した性愛と人間の行為についてのシニカルでスキャンダラスな学説を経由しつつも、結論としては、

「人が人を愛するのは他者と向き合い、ひいては人類社会と向き合うため」(←宮台シンジよりももっと"社会"の粒度がでかい)
「愛は、人格の修練を通じてしか手に入らない」
「みんなが人格の修練を通じて愛することを覚えることで、社会に幸福と自由が訪れる」
 
という少し社会主義ちっくな道徳的教条に着地している。


したがって、

恋愛することの目的とは。

というわれわれのリサーチクエスチョンに対するこの本からの暫定的な回答は、まずもって 「愛する という特殊スキルを身に付け」、長期的には「人類社会に幸福と自由をもたらすため」、といったことになろう。


もちろん異論は認めるが、正直ちょっと説教臭い内容なのね。
極端かつ卑近な喩えで申し訳ないが、不運にもコンパで啓発系メンズ(人材コンサルなどにいがち(←偏見))と同席してしまい、頼んでもいないのに「成長」についての長話をきかされているかのような感じだ。


ではこのキモチワルさ(cf二村監督)の正体は何なのだろう。


ということで、この週末+代休中に読んでたのが、全共闘世代のカリスマであるハーバート先生のこの本だ。


H. マルクーゼ『エロス的文明』(原著1958)



マルクーゼ先生はこの本で、フロムを正面からディスっとる。
曰く、フロムはフロイトを誤読している。

私のざっくりした理解だと、フロムがフロイトと袂を分つことになった最大のポイントは、フロムが、人間と人間以外の動物の間に本質的なバウンダリを認めていることのように思う。

ジークムント先生によれば人間の精神には①理性的/人間的な"意識"の層と、②本能的/動物的な"無意識"があるが、文明社会で暮らすわれわれの中では、普段は①によって②が抑圧されている。
しかし幼児の行動とか、あるいは成人してからも夢の中とかエロタイムとか、時限的には②がちょいちょい現れてくるのでそれを研究することで人間の深層についてもっと知ろうとしていたのがフロイトなのでした。
つまり、人間と人間以外の動物の差を連続的なものと捉えていて、人間といっても性愛行動などは動物的な部分に大きく規定されていると考えたわけです。

いっぽうでフロムは、人間は、人間らしい部分である①を鍛えることで、動物から離れていくべき!←これが現代社会をうまいこと機能させるキーになる。ホルモンの作用と生殖本能に駆動された性的交渉(つまり②が表に出過ぎることによる、セクロスを一義に据えた男女の関係、乱交含む変態プレイ、同性愛など)はやめて人間として成熟した恋愛をしましょう。そのスキルを身につけるためにみんながんばろう。というようなことを言ってたと思うのね。


しかしマルクーゼは、それはジークムント先生の読みとしてはちょっとズレてんじゃない?と言います。

フロムのフロイト批判のひとつの論拠は、①と②の連続性が科学的に妥当な形で証明できないことでもある。
確かにフロイト派の精神分析理論は、実証的な脳神経科学の研究が進むとすぐにオワコン扱いを受けるようになってしまい、人間の心を生物学的に裏付ける試みとしては失敗と考えられている。

だけどマルクーゼによればそこの蓋然性はどうでも良くて、フロイトが言ったことで本当に一番大切なのは、人間の①意識は今もこれまでも文明社会によって不可避な形で抑圧されている!!というメッセージだという。
そこでマルクーゼは近代的自我と合理性が生んだ抑圧的な文明に対抗するためのヒントを、フロイト的に言えば②の領域に属する、根源的なエロスの探求に見出している。

マルクーゼ先生は全体を通じてマルクス主義の術語を使っていて、過剰な富の蓄積とそのいっぽうでの人間疎外、そして資本主義的な抑圧が進行するこの狂った世の中で・・・・・という現代文明批判をひとしきり行っています。
そして最後に、この文明に残されたものの中で、純粋にプラトニックな愛だけが、抑圧から切断されうるんじゃない?という提案をする。

このプラトン的な愛というのが何かについての説明はちょっと歯切れが悪くて、お茶を濁し気味なのだけれども、恋愛はこの狂った世の中に抵抗するための手段だ!というのがマルクーゼのいちおうの結論になっている。
また裏返しのようだが、抑圧的な文明の中でエロスを回復するためには反抗心が必要、とも述べています。

ようは、

 「たとえ全世界を敵に回しても・・・(ry」

というやつですな。
この台詞を言うためにはいろんな社会のしがらみとか全部取り払った愛が必要なんだよ、ということです。

まとめますと↓

フロム:みんな頑張って恋愛して良い世の中にしようず。
マルクーゼ:世の中別に良くはならんけど恋愛をして抵抗することはひとつの選択肢としてアリ。


蛇足かもだけどマルクーゼの主張はある意味、「世界とは多少ズレてても、恋愛をして特定の関係に徹底的にコミットすることで「小さな父」になることができる」とゼロ年代風に読み替えることも出来ますね。


愛の普遍性が人類社会を繋ぎ、平和と幸福に導く・・・というフロムのメッセージは極めてジョン・レノン的だ。
しかしレノンの歌は(すまん今イマジンしか念頭にないが)、みんなが男も女も肌の色も宗教も関係なく自由に愛しあうことで世界がひとつになれるというような生温い内容を反復するに甘んじた。
そして結局は「僕とヨーコが愛し合うことで世界が平和になる」という、独善的マチズモを拠り所にしたセカイ系へと突っ走った。

いっぽうで、60年代にレノンと同じようにベトナム戦争に対する反戦ソングを出したマービン・ゲイという人がいたわな。
この人は珠玉の名曲"What's going on"や"Mercy Mercy Me"において、

Only love can conquer hate.

という、表面的には非常にレノンに似たメッセージを発しつつも、アーティストとしての業績の大半は超へテロなエロソングである。
ヒットを飛ばした有名どころでも"Sexual Healing"や"I Want You"、"Let's Get It On"など枚挙に暇がない。
かなり刹那主義的、肉食的、直接的な表現が多いエロソングをここまで量産していたということは、年がら年中ヤることしか考えていなかったに違いない。



直球なエロを求道しつづけているにも関わらずマービンが突発的に、子供たちも聴ける反戦ソングを出していたのは、穿った見方をすれば偽善的ともとれる。
しかしマルクーゼの検討を経た今、われわれはマービンのエロソングも現代文明への抵抗メッセージという意味で、一貫したアクションとして解釈することが可能な地平に立っていると言えるだろう。