2013年2月26日火曜日

Marvin Gayeが死ぬまでエ□ソングを歌い続けた本当の理由がわかった気がする。

DLIでは

恋愛からしか学べないことは何か?

という問いを立て(参照)、
エーリッヒ・フロムの『愛するということ』の検討を進めていた。


恋愛について語るとき多くの人が参照したがるクラシックだが、実際にこの本を読んで、内容に向き合ったヤツが今の日本人の中にどれだけいるのだろうか。
非常に危険なことだが、こういうカッコつきの名著は往々にして、日常に溢れる世話話の中で、そのタイトルに言及するだけで満足してしまいがちだ。つまり、プルーストの「失われた〜」などと同じく、著者とタイトルの組み合わせを知っていることに妙な価値が見出されている本のひとつだと思う。

かくいう私も今回読んでみるまでその内容について詳しくは知らなかった。

で、率直に言うと、
これってそんな名著か???という感想を抱かざるを得なかった。
この本についてなんとなく口にするヤツらはタイトルが好きなだけじゃないかという疑問が。

実際に読んでみるとわかるが、いかにもヒッピーブーム前夜・・・といいますか、ジャックケルアックないしジョンレノン臭がする本だ。
フロイトが展開した性愛と人間の行為についてのシニカルでスキャンダラスな学説を経由しつつも、結論としては、

「人が人を愛するのは他者と向き合い、ひいては人類社会と向き合うため」(←宮台シンジよりももっと"社会"の粒度がでかい)
「愛は、人格の修練を通じてしか手に入らない」
「みんなが人格の修練を通じて愛することを覚えることで、社会に幸福と自由が訪れる」
 
という少し社会主義ちっくな道徳的教条に着地している。


したがって、

恋愛することの目的とは。

というわれわれのリサーチクエスチョンに対するこの本からの暫定的な回答は、まずもって 「愛する という特殊スキルを身に付け」、長期的には「人類社会に幸福と自由をもたらすため」、といったことになろう。


もちろん異論は認めるが、正直ちょっと説教臭い内容なのね。
極端かつ卑近な喩えで申し訳ないが、不運にもコンパで啓発系メンズ(人材コンサルなどにいがち(←偏見))と同席してしまい、頼んでもいないのに「成長」についての長話をきかされているかのような感じだ。


ではこのキモチワルさ(cf二村監督)の正体は何なのだろう。


ということで、この週末+代休中に読んでたのが、全共闘世代のカリスマであるハーバート先生のこの本だ。


H. マルクーゼ『エロス的文明』(原著1958)



マルクーゼ先生はこの本で、フロムを正面からディスっとる。
曰く、フロムはフロイトを誤読している。

私のざっくりした理解だと、フロムがフロイトと袂を分つことになった最大のポイントは、フロムが、人間と人間以外の動物の間に本質的なバウンダリを認めていることのように思う。

ジークムント先生によれば人間の精神には①理性的/人間的な"意識"の層と、②本能的/動物的な"無意識"があるが、文明社会で暮らすわれわれの中では、普段は①によって②が抑圧されている。
しかし幼児の行動とか、あるいは成人してからも夢の中とかエロタイムとか、時限的には②がちょいちょい現れてくるのでそれを研究することで人間の深層についてもっと知ろうとしていたのがフロイトなのでした。
つまり、人間と人間以外の動物の差を連続的なものと捉えていて、人間といっても性愛行動などは動物的な部分に大きく規定されていると考えたわけです。

いっぽうでフロムは、人間は、人間らしい部分である①を鍛えることで、動物から離れていくべき!←これが現代社会をうまいこと機能させるキーになる。ホルモンの作用と生殖本能に駆動された性的交渉(つまり②が表に出過ぎることによる、セクロスを一義に据えた男女の関係、乱交含む変態プレイ、同性愛など)はやめて人間として成熟した恋愛をしましょう。そのスキルを身につけるためにみんながんばろう。というようなことを言ってたと思うのね。


しかしマルクーゼは、それはジークムント先生の読みとしてはちょっとズレてんじゃない?と言います。

フロムのフロイト批判のひとつの論拠は、①と②の連続性が科学的に妥当な形で証明できないことでもある。
確かにフロイト派の精神分析理論は、実証的な脳神経科学の研究が進むとすぐにオワコン扱いを受けるようになってしまい、人間の心を生物学的に裏付ける試みとしては失敗と考えられている。

だけどマルクーゼによればそこの蓋然性はどうでも良くて、フロイトが言ったことで本当に一番大切なのは、人間の①意識は今もこれまでも文明社会によって不可避な形で抑圧されている!!というメッセージだという。
そこでマルクーゼは近代的自我と合理性が生んだ抑圧的な文明に対抗するためのヒントを、フロイト的に言えば②の領域に属する、根源的なエロスの探求に見出している。

マルクーゼ先生は全体を通じてマルクス主義の術語を使っていて、過剰な富の蓄積とそのいっぽうでの人間疎外、そして資本主義的な抑圧が進行するこの狂った世の中で・・・・・という現代文明批判をひとしきり行っています。
そして最後に、この文明に残されたものの中で、純粋にプラトニックな愛だけが、抑圧から切断されうるんじゃない?という提案をする。

このプラトン的な愛というのが何かについての説明はちょっと歯切れが悪くて、お茶を濁し気味なのだけれども、恋愛はこの狂った世の中に抵抗するための手段だ!というのがマルクーゼのいちおうの結論になっている。
また裏返しのようだが、抑圧的な文明の中でエロスを回復するためには反抗心が必要、とも述べています。

ようは、

 「たとえ全世界を敵に回しても・・・(ry」

というやつですな。
この台詞を言うためにはいろんな社会のしがらみとか全部取り払った愛が必要なんだよ、ということです。

まとめますと↓

フロム:みんな頑張って恋愛して良い世の中にしようず。
マルクーゼ:世の中別に良くはならんけど恋愛をして抵抗することはひとつの選択肢としてアリ。


蛇足かもだけどマルクーゼの主張はある意味、「世界とは多少ズレてても、恋愛をして特定の関係に徹底的にコミットすることで「小さな父」になることができる」とゼロ年代風に読み替えることも出来ますね。


愛の普遍性が人類社会を繋ぎ、平和と幸福に導く・・・というフロムのメッセージは極めてジョン・レノン的だ。
しかしレノンの歌は(すまん今イマジンしか念頭にないが)、みんなが男も女も肌の色も宗教も関係なく自由に愛しあうことで世界がひとつになれるというような生温い内容を反復するに甘んじた。
そして結局は「僕とヨーコが愛し合うことで世界が平和になる」という、独善的マチズモを拠り所にしたセカイ系へと突っ走った。

いっぽうで、60年代にレノンと同じようにベトナム戦争に対する反戦ソングを出したマービン・ゲイという人がいたわな。
この人は珠玉の名曲"What's going on"や"Mercy Mercy Me"において、

Only love can conquer hate.

という、表面的には非常にレノンに似たメッセージを発しつつも、アーティストとしての業績の大半は超へテロなエロソングである。
ヒットを飛ばした有名どころでも"Sexual Healing"や"I Want You"、"Let's Get It On"など枚挙に暇がない。
かなり刹那主義的、肉食的、直接的な表現が多いエロソングをここまで量産していたということは、年がら年中ヤることしか考えていなかったに違いない。



直球なエロを求道しつづけているにも関わらずマービンが突発的に、子供たちも聴ける反戦ソングを出していたのは、穿った見方をすれば偽善的ともとれる。
しかしマルクーゼの検討を経た今、われわれはマービンのエロソングも現代文明への抵抗メッセージという意味で、一貫したアクションとして解釈することが可能な地平に立っていると言えるだろう。

2013年2月21日木曜日

ボストン2013

地味にボストンにソロ出張してきたよ。

ボストンには、母とNBAの試合を見に行ったのが最初で、それが確か2008年ですが、その後も何かとボストンには縁があり、今回は4度目の訪問でありました。
すごく快適だし、もはや勝手知ったる(ry・・・とチョーシに乗りたくもなります。
そんなボストンの地形効果もあってか(?)、むこうのエラいさんとのミーティングもうまくいきましたし、AAASの年会も楽しかったです。





今回はNBAのオールスターウィークエンドとだだかぶりだったので、残念ながらバスケットの試合は見れなかったけども、その代わりにWally's Cafeという老舗のジャズハウスに行ってきた。
(アメリカに行くと必ずジャズを聴きに行き靴を買うという習性がついてしまったようだ)
Wally'sは宿泊先のSheratonから徒歩10分くらいで、バークリーにも近い。
客も演者も学生風が多く、全体的に若くてカジュアルでした(ミュージックチャージも無し。cash onでただ飲むだけ!)が、クオリティは禿げしく高かった。
ギタラとラッパをフロントに据えた、鍵盤はフェンダーローズというクインテットで、ストレートアヘッドからフュージョン、バラッドまで、幅広いイケイケサウンドを聴かせてくれました。


ジャズいぜ










「20世紀のアメリカが生んだ最高の発明はバスケットボールとビバップである」(by Flea: Red Hot Chili Peppers)


とはよく言ったもので。

ボストンは来るたびに、やっぱいいなーと思う素敵な街なので、これからも縁があることを願って止みません。
来年のAAASは@シカゴらしいが。。



ところで、ヒコーキの中ですごいいっぱい映画を見たのでその話をしよう。
珍しくいろいろ集中して見れたので、その中からオススメをば。


Here Comes The Boom(2012米)
もともと大学レスリングの選手だった高校教師が、勤務先の学校のオケ部の予算削減に憤怒し、ファイトマネー目当てで総合格闘技に挑戦する・・・というおハナシ。。
コメディタッチなので本来は軽く見れる映画なはずなのだが、
なぜか開始後30分くらいからずっと涙が止まらなくなってしまった。
隣にアメリカ人のニーチャンが座っていたのであまり思い切り泣けなかったのが残念。
Gleeのせいかもしれないが、「高校生が音楽をやりたいんだけど続けられん」という設定に弱くなっとるかもしれん。主演のKevin Jamesの「良い人臭」もすごい効いている。
こういうストーリーは、アメリカ全体が不況だからこそリアリティもあるしね。シウバとかブライアン・スタンとか、現実のUFCのスーパースターがチョイ役で出てくるのも良かった。国内で公開されたら、見にいくことをオヌヌメします。







Sinister(2012米)
こちらも国内未公開と思います。
Ethan Hawke演じる主人公が、とある事情で所謂いわくつき物件に引っ越し、その屋根裏で見つけた8mmフィルムにヤバいものが映っていた・・・というところから始まるガチホラー
スーパー8フィルムに映されたスナッフ映像から謎解きしていくという意味ではNicholas Cage主演「8mm」を思い起こさせるが、こっちはかなり本気でくっそ怖いですわ。消灯したヒコーキの暗がりで見るとさらに怖い。
Ethan Hawkeは、「情熱だけは人一倍なんだけどちょっと不器用」みたいな役ほんとにハマるよなー









ただ君だけ(2011韓)
重い過去を背負い人生を見失った元ボクサーと、視力を失いながらも懸命に生きる女性の心の交流を描いた純愛物語。
ようするにドベタな韓流映画だが、端的に言って最高だ!そんなに頻繁に見たいとは思わないが、韓流成分は年1回くらいは補給する必要があるかもしれん。
ソウルの代表的なタウンスケープがちらほら織り交ぜてあるのも素晴らしく、久々にソウルに行きたくなった。デスマが明けた4月あたり、行ってこようかな〜〜

2013年2月15日金曜日

non-noが普通の雑誌になっているときいて_φ(・_・

この話はすぐブログのエントリにしようしようと思っていつつ延び延びになってしまってた。

だからちと、前のことになってしまうのだが、先月、新年を広島で過ごしているときに、地元が近い大学時代の友だちようするにaraki&teraoと遊ぶ機会があった。

そのとき何となく女性誌の話をしていて、araki&teraoが「最近non-noが普通の雑誌になっとる!」と言ってたのが気になってたのな。


これは自分の目で確認したほうが良いと思い、





生まれて初めてnon-no買ったったわw


ところでここでの「普通の雑誌」という発言には当然、「non-noは従来は普通の雑誌ではなかった」というニュアンスが含まれる。

いちおう解説するとnon-noが対象とする層はほぼ女子大生ないし女子大生相当だ。
高校を卒業し、私服を着る機会が増えるもののオシャレへの関心がそれまで相対的に薄かったためなかなか化粧もファッションもどうすれば良いかわからんがしかし、大学デビューを見事果たし昇り龍へとならんとする、鯉のようなマインドを持った女子がターゲットだ。
というのは冗談で、本当はほとんどのnon-no読者にそこまでの上昇志向はなく、とりあえずガッコ行くのに恥ずかしくないカッコをしたい(←サクラップ的な押韻をしてしまった)という程度のメンタリティだろう。なんとなく2ch的表現をすれば、所謂「脱ヲタ」雑誌的な位置づけにあると言える。

逆に言えば、脱ヲタのステージを通過した女性たちにしてみれば、「ちょいダサい」領域に属する内容なのだ。
Arajin&Teraoの言葉を借りれば「素朴な感じ」が特徴(だった?)らしい。

お姉さんバージョンにあたるMOREと並ぶ集英社ラインは、どこかちょいダサな女性誌の筆頭として認知されていることはわしでも知っていたので、ぶっちゃけ今回は普通の本屋ないしコンビニで買うことはためらわれた。
amazon便利すね。






まあなぜちょいダサかというと、
脱ヲタしようと思った場合、いきなりガチで紙面がオシャレだとハードルが高すぎるので、脱ヲタwanna-beにも親しみやすい/手を出しやすいようなカッコ(i.e. いわば無難系)を推すことが有効だという理由からだろう。


しかしそんなnon-noが最近になって、佐々木希 桐谷みれい 本田翼 という3本柱を揃え、異性モテ系にシフトしているという!!





どーーーーーん






で、どれくらい「普通」になっているかというのを比較検証するには、本来は歴史をたどらねばならない。




しかし既に書いたように、私はnon-noを買うのはこれが初めてなので比較しようがないのでテキトーに書くが、全体的に、すごい甘口だなというのが正直な感想である←











春物ではじめのシーズンだというのもあろうが、パステルカラーとても多く、全体的にモヤッとしてんなーという印象さえある。
まあ良くも悪くも悪くも、女子大生って感じだな(上から目線ヵ☆)。トガってないほうの。






中には、「お前miniかよ?」(さまーず三村風)というようなコーデネートもあったりしますが







しかしnon-noは本来カジュアルで、こういう青文字っぽい感じも多かったハズなのだな。
ところがこういうのが浮くくらい今はモテ系中心の紙面作りだ








まあこういう人らよくいますよねw親しみやすいですね。





いかにも女子大生なコンテンツであるリクルートスーツ 特集もありま

 
くっそw 佐々木希かわいいぜw



ほいでたまにこういうカッコいいのもあったり↓


これは好きだなー()
おじカジの進化形て感じで。

岸本セシルさんは正直名前知りませんでしたが、インテグレート[ínṭəgrèɪt]のCMに出とった子か

 
髪長くても短くてもいいっすね(←おっさんヵ☆)



最後に、女性誌の面白さが詰まっている読み物ページを見てみよう


見えにくいかもしれないが、これは恋愛系ページだ。
同じ女子大生向け雑誌でもRayやJJがストレート・ノーチェイサーな感じのモテテク記事を組むのに対し、non-noでは"奥手"系と"受け身"系(違いがわからんがw)女子のそれぞれの彼氏が出来るまでのストーリーを追跡している。
「いつも片想いのあたしにも彼氏できるにはどうしたらいいの?」というスレてない1回生女子たちの朴訥な問いに回答している。。。かのようだが、あくまでケーススタディなので汎用性がどれほどあるかは微妙。
いずれにせよ、non-no読者には草食系が多いのだろう。


今の編集長は越崎さんという男性らしいのですが、non-noの発行部数を、50万部オーバーまで持って行った凄腕として、去年末あたりNHKのプロフェッショナルの流儀かなんかに取り上げられてましたわ。思わず見入ったわ。
ICTリテラシーの高いデジタルネイティブ世代が20代に到達し、女性ファッション誌にとっては冬の時代にあっても、ゼロ年代のCanCamに迫る50万部超えというのはすごいっすね


男性おしゃP(つまり男性でありながら女性向けの財やサービスを提案するするおしゃれプロデューサーズ)がテレビで取り上げられるのは、特に日本ではめずらしくないかい?
海外ならMarc JacobsやManolo Blahnikなどが思いつきますが。

そんな越崎サンのストラテジーというのは、個々のモデルに設定したキャラをとことん活かす・・・といったようなものだったと記憶している。うる覚えで申し訳ないが。

で、現物のnon-noを読んでみると、ここでの「キャラ設定」みたいなんが実に巧みだと思うわけで。

というのは、例えば巷の野郎どもが最近こぞって絶賛している本田翼とか、すごいキー人物だと思うわけっすわ。
私はこの子は、いかにもコミュ力低そうでメンヘラ臭がするのであんま好きじゃないんだが、まさにそこを狙っているのが、non-noなのだと考えられる。




↑「草食女子デス」なる見出しがつけられたこのページでは、本田翼本人のバレンタインデーの思い出として、男子にチョコをあげたことはなく、むしろ女子から渡されるという役割を演じていたというエピソードが語られる。
まさに典型的な奥手系であり、同族からの共感を誘う内容であることは想像に難くない。
親しみやすいですね()
このような巧みなキャラ設定戦略により、non-noは従来の読者である奥手系をガッチリ掴んだまま離さず、同時に 佐々木希や桐谷みれいなどの直球モテ系女子を揃えてモテ路線にも顧客を拡大しているということだろう。

結論としては、確かに今のnon-noは「普通」に近づいているのかもしれませんけども、いっぽうで依然として朴訥とした内容もしっかりと残していますよと。
またさらに言えば、佐々木桐谷本田のラインは他のメディアでの活躍が既に非常に大きいのでnon-noモデルのイメージが薄い。それだけに、彼女らの在籍だけで、雑誌としてのプレゼンスを、かつてのCanCam Dynastyが誇った栄華に比肩しうるレベルまでもってけるかはまだ不透明だと思います。
引き続きウオッチしていきましょう




2013年2月9日土曜日

セクロスとコミュ力

今日は代沢恋愛総研フェローとして、内藤理恵子さんブログのこの記事をシェアしたい。


性経験と社会性って関係あるの?


この記事でも取り上げられているが、最近
「コミュ力つけたいいうんじゃったら、ええけはよセクロスせぇやチンカス童貞らぁがたいぎいのぉ!!!!!!」
とおっしゃっている宮台シンジ先生(代沢恋愛総研本社aka DAIZAWA HOUSEの近くに住んでいるらしい)は元々は90年代末に、
「ヲタクもナンパ師も社会グループという意味では同等じゃね?そこに変な階層関係見出す必要なくね?」
と言った人であり、
有史以来存在したはずのリア充/非リア充のハイアラーキーを脱構築し、サブカルおよびサブカル野郎たちに光の道を示し、経●省主導の「クールJAPAN」の仕掛人ともなった大先生が、ここにきてセクースを社会性を獲得するための通過点として是々非々で推奨しているのは、考えてみれば意外だ。

セクースがコミュニケーションの、というか、誰か他の人と繋がるためのいち手段であるのは間違いないとは思う。
こいつをひっくり返すと、常に、とはいわないまでもセクースには潜在的にオルタナティヴなチャンネルが存在するということになる。あくまで機能主義的に考えるとね。

つまり、異性間でもセクースしなくても成り立つ関係だってあるじゃろういうこと。
わしだって知り合いの女性の大半とはセクース無しで関係しているわけで、あんま社会性の必須条件じゃないと思うんだが。

むしろ個人的には「いかにセクースなしで、男性性を排して女性と向き合うか?仲良くなるか」というのもチャレンジングだし、面白いと思うし、社会的に学びも多いと思う。


ただなー、まあ、逆に「セクース無しでは成り立たない」という関係があるのも事実で。。
社会学でも親密圏という非常に難しい研究領域があるわな。。。まさに機能主義に正対する。

ということで、宮台的な
「恋愛しないとコミュ力つかねーんだよバーカ」
っていうテーゼを超えて、

恋愛からしか学べないこととは何か?

というのを次の代沢恋愛総研(DLI)の研究テーマとして提案したい。


2013年2月7日木曜日

ニセモノの民意に注意(本の感想

藤沢先生がブログ人口の減少を分析しとる。
↓

金融日記:なぜブログを書く人が減ってきたのか?

なんやかや金の話に持って行っているのはいつも通り安定飛行って感じだが、SNSの台頭との因果関係は、やっぱあるだろう。

藤沢さんの記事ではいわゆるブログブームは2005年周辺ということで、それもなんとなくわかる。その頃、大学受験生ブログをつけていた同級生もいたりしたから。

ただ私の周りの人々がブログを一番やってた時期は多分2008~2010年で、感覚的にはmixiが没落し、twitterとFacebookが本格的に流行りだすまでの谷間にあたる。
いわば「繋ぎ」だったのかもしれない(アフィでの小遣い稼ぎとかとはもちろん無縁、、、だったと思う)。そのころはなんとなくブログやってる人ら同士で相互リンク貼りお互いの記事にコメントしあって、セミクローズドなSNSみたいになっていたので楽しかった。
このザツ文ブログが始まったのも2009年だ。

最近は周りにあんまコンスタントにブログを書いてる人も少なくなったが、藤沢さんも言う通り、見聞きしたことや考えたことについて一度消化してまとまった量の言葉にするプロセスで、知識やアイデアがよりリジッドに定着するのはブログ書くメリットだよなぁ、と、思いますし、読んだ本や聴いた音楽を記録していくライフログとしても価値あるよね。

ということでさっそく読書感想文書きますが。(最近すっかり読書日記化しておりますが)

大塚英志「物語消費論改」


大阪出張での長距離移動前の適当買いだった。

ご存知かもしれないが、大塚さんはあずまんや福嶋亮大や宇野ジョウカンなども引用しているポピュラーカルチャー批評の大家で、この人の一連の業績が無ければゼロ年代批評もなかっただろう、というレベルの人である。
特に東浩紀のいう「データベース消費」はこの人の「物語消費論」を批判的に継承する形で展開されている。
だから存在はずっと知っていたが、 原著を読んだことは実はなかった。


この本は大塚氏が、近年の論壇や世間一般の動向も踏まえつつ、自身が80年代後半〜90年代序盤にかけて書いていた「物語消費論」と呼ばれる一連の論考を振り返り、清算する目的で書かれたようだ。
清算、というとき、大塚氏の前提にあるのはwebの普及である。web以前にマーケティング理論として仮説された「物語消費論」は、それが可能になる環境としてのwebを当然想定していなかったが、むしろweb以降の現象を説明するときに援用が可能であるという。

物語消費論は、コンテンツの受け手の想像力を刺激する、単独では意味を完全に充足させ得ないような情報の断片を与えることで発動する。ビックリマンチョコにおまけでついていたシールやソフトバンクの犬のCMなどは、ひとつのブランドの枠内で情報の断片を受け手に与えて行く。ただ、断片をただ接合して行っても完成された全体には至れない。例えばソフトバンクのCMでは、固定キャストが演じる家族による断片的なシーケンスが、どうやら連続しているようだ、と受け手側に想像させるに足る形で与えられるが、それでも彼らが置かれた世界の設定の全体像は決して見通せない。
また、エヴァなどでも、パッケージ化されたアニメの作中に空洞や空白を生じさせておくことで、情報の断片を与える手法が採用されている。
web上に無数に存在する不確かな情報や噂は、こうした断片に相当する。

受け手はその断片にプラスして、自らの手元に既にある、いわば有り合わせの情報を加え、解釈し、世界像を構築して行く、つまり断片を補填していくのである。
検索や情報のリンクの機能をwebは極端に進化させていることから、このプロセスはweb上では、ある固有名を検索エンジンに入力すれば関係あるキーワードが勝手に表示されるように、半ば自動化されている。

コンテンツの受け手側にはコンテンツが置かれた世界像の「全体」を知りたいという欲望が生まれ、それを補完する情報の断片が与えられつづけることで、その商品を購入する欲望に転嫁させられる。
ネット上でAKB48のゴシップをかき集め、あるいはブログや2ちゃんへの書き込みで発信して行くことで、NTTやプロバイダに料金を払いつづけるのもまた、物語消費の一例であると大塚氏はいう。

このような商品セールスのマーケティングこそが、狭義の「物語消費」である。
物語消費は一定の段階に達すると、創作行為や社会的運動を擬態するケースがある。
つまりいわゆる二次創作であり、それ自体新たな情報の断片となって機能し、消費者相互の自発的な動員とでもいうべき事態が生じる。

webに置き換えればこれは「炎上」であり、フ●テレビへの反韓流デモのような社会運動と化したりもする。

大塚氏が強調するのは、現在の日本はこのような社会運動化の段階が極めて作用しやすい状況にあることである。ポピュリズムの暴走に対して右も左も、怯えているような困惑を示すが、それが従来のポピュリズムやファシズムと違うのは、民意なるものの物語消費論的自己増殖によって、独裁者が不在の、大衆自身による自己動員が合理的になされる事態が起きているからだという。

民意や公共があたかも形成されているような錯誤の中にわれわれが陥っていることは否定しようがないと大塚氏は述べる。
日本では今、物語消費論的現象として「日本」や「愛国」 という大きな物語が、ポストモダンを通過しながらもきわめて凡庸な形で復興している。





決して捉えようのない「全体」に漸近しようとする大衆の消費性向により、現代日本において擬似的な公共性が生起しているというメッセージは、以前このブログでも感想を記した小熊英二氏の著作で述べられたこととまるで逆行するようだが、個人的には大塚氏の批判を支持したい。


なぜなら、小熊チャンの標榜するような「とりあえず動こう!君が動けば社会が変わる!」というイデオロギーこそが、日本におけるエネルギー問題や領土問題をめぐる感情論を巻き起こし、一部のクレイジーピープルとマスメディアに先導される形でドミノ倒しのような衆愚化を招いていると思うからだ。

さらにweb空間における語りや思考の氾濫は、その集積によって作り上げられる集合知がひとつの公共圏、すなわち多数的なものがそこにおいて共有の諸問題に関わり得るようなひとつの政治的空間のなかに包摂されないという事態を招いている。

いかなる公的領域とも関連していない大衆の「俺はこう思う」というような自分語りが欲望のままにwebに解き放たれることにより、政治的空間でのヒエラルキーの無統制な拡散へと姿を変えているんじゃないか。

その意味で、自身が20年以上前に提唱した理論によって見事に時代診断をしてみせた大塚タソは、ドヤ顔して然るべきかもしれない。

が、が、が、が、が、限定的な文化表象だけを手がかりに、物語消費論という単一のスキームで社会経済の趨勢と大衆の欲望を一気通貫に語ってみせる姿勢こそが、大塚タソ本人がオワコン宣言しているポストモダニズムという饒舌を思い起こさせるのも事実である・・・・・・

ようは他の批評理論と同様、物語消費論も、個々のケースの分析の細部にこそ本質的な価値が宿るのではないか。
では文化批評としての物語消費論はどうかと言われると、個人的には、うーーんと唸らざるを得ない。
宇宙戦艦ヤマトや村上春樹、ジブリ映画などを「物語消費論」によって微分してみせており、こうしたコンテンツにおいて架構されたサーガ(=年代記)がだんだん脱政治化してきてまっせ!という議論は確かになるほどと思わせる説得力がある。
あるんだけど、で?っていう部分があるのも確か。で?そういうカルチャーを外側から観察して語っているオマエさんは何者なんですか?というところに答えていないのが、2012年の批評としては、少し古くてナイーブと感じられる部分かと。「外部」が無くなったのが21世紀という時代です。
こういう再帰性はジョーカンとかのほうが遥かに明確に書き手の問題として受け止めているし、逃げること無く著作の中で答えてるもんねー。
あと、マーケティング理論であるからには、コンプガチャの問題こそを扱ってほしかったというのもある。こういうカードゲーム的な商品形態って、大塚タソが好きなビックリマンチョコから、ポケモンを経てもう一段階の洗練を経てると思う。そこを大塚タソならどう切るかというのを読みたかった。

本の後半には、90年代に全盛期の大塚タソが書いた文章もいくつか載っているんだけど(編集者乙)、なんつか、なぜかこれらはいかにも大学センター試験に出題されそうな文体なんだよな。本当に出題されたりしたんだろうか。