DLIでは
恋愛からしか学べないことは何か?
という問いを立て(参照)、
エーリッヒ・フロムの『愛するということ』の検討を進めていた。
恋愛について語るとき多くの人が参照したがるクラシックだが、実際にこの本を読んで、内容に向き合ったヤツが今の日本人の中にどれだけいるのだろうか。
非常に危険なことだが、こういうカッコつきの名著は往々にして、日常に溢れる世話話の中で、そのタイトルに言及するだけで満足してしまいがちだ。つまり、プルーストの「失われた〜」などと同じく、著者とタイトルの組み合わせを知っていることに妙な価値が見出されている本のひとつだと思う。
かくいう私も今回読んでみるまでその内容について詳しくは知らなかった。
で、率直に言うと、
これってそんな名著か???という感想を抱かざるを得なかった。
この本についてなんとなく口にするヤツらはタイトルが好きなだけじゃないかという疑問が。
実際に読んでみるとわかるが、いかにもヒッピーブーム前夜・・・といいますか、ジャックケルアックないしジョンレノン臭がする本だ。
フロイトが展開した性愛と人間の行為についてのシニカルでスキャンダラスな学説を経由しつつも、結論としては、
という少し社会主義ちっくな道徳的教条に着地している。
したがって、
恋愛することの目的とは。
というわれわれのリサーチクエスチョンに対するこの本からの暫定的な回答は、まずもって 「愛する という特殊スキルを身に付け」、長期的には「人類社会に幸福と自由をもたらすため」、といったことになろう。
もちろん異論は認めるが、正直ちょっと説教臭い内容なのね。
極端かつ卑近な喩えで申し訳ないが、不運にもコンパで啓発系メンズ(人材コンサルなどにいがち(←偏見))と同席してしまい、頼んでもいないのに「成長」についての長話をきかされているかのような感じだ。
ではこのキモチワルさ(cf二村監督)の正体は何なのだろう。
ということで、この週末+代休中に読んでたのが、全共闘世代のカリスマであるハーバート先生のこの本だ。
H. マルクーゼ『エロス的文明』(原著1958)
マルクーゼ先生はこの本で、フロムを正面からディスっとる。
曰く、フロムはフロイトを誤読している。
私のざっくりした理解だと、フロムがフロイトと袂を分つことになった最大のポイントは、フロムが、人間と人間以外の動物の間に本質的なバウンダリを認めていることのように思う。
ジークムント先生によれば人間の精神には①理性的/人間的な"意識"の層と、②本能的/動物的な"無意識"があるが、文明社会で暮らすわれわれの中では、普段は①によって②が抑圧されている。
しかし幼児の行動とか、あるいは成人してからも夢の中とかエロタイムとか、時限的には②がちょいちょい現れてくるのでそれを研究することで人間の深層についてもっと知ろうとしていたのがフロイトなのでした。
つまり、人間と人間以外の動物の差を連続的なものと捉えていて、人間といっても性愛行動などは動物的な部分に大きく規定されていると考えたわけです。
いっぽうでフロムは、人間は、人間らしい部分である①を鍛えることで、動物から離れていくべき!←これが現代社会をうまいこと機能させるキーになる。ホルモンの作用と生殖本能に駆動された性的交渉(つまり②が表に出過ぎることによる、セクロスを一義に据えた男女の関係、乱交含む変態プレイ、同性愛など)はやめて人間として成熟した恋愛をしましょう。そのスキルを身につけるためにみんながんばろう。というようなことを言ってたと思うのね。
しかしマルクーゼは、それはジークムント先生の読みとしてはちょっとズレてんじゃない?と言います。
フロムのフロイト批判のひとつの論拠は、①と②の連続性が科学的に妥当な形で証明できないことでもある。
確かにフロイト派の精神分析理論は、実証的な脳神経科学の研究が進むとすぐにオワコン扱いを受けるようになってしまい、人間の心を生物学的に裏付ける試みとしては失敗と考えられている。
だけどマルクーゼによればそこの蓋然性はどうでも良くて、フロイトが言ったことで本当に一番大切なのは、人間の①意識は今もこれまでも文明社会によって不可避な形で抑圧されている!!というメッセージだという。
そこでマルクーゼは近代的自我と合理性が生んだ抑圧的な文明に対抗するためのヒントを、フロイト的に言えば②の領域に属する、根源的なエロスの探求に見出している。
マルクーゼ先生は全体を通じてマルクス主義の術語を使っていて、過剰な富の蓄積とそのいっぽうでの人間疎外、そして資本主義的な抑圧が進行するこの狂った世の中で・・・・・という現代文明批判をひとしきり行っています。
そして最後に、この文明に残されたものの中で、純粋にプラトニックな愛だけが、抑圧から切断されうるんじゃない?という提案をする。
このプラトン的な愛というのが何かについての説明はちょっと歯切れが悪くて、お茶を濁し気味なのだけれども、恋愛はこの狂った世の中に抵抗するための手段だ!というのがマルクーゼのいちおうの結論になっている。
また裏返しのようだが、抑圧的な文明の中でエロスを回復するためには反抗心が必要、とも述べています。
ようは、
「たとえ全世界を敵に回しても・・・(ry」
というやつですな。
この台詞を言うためにはいろんな社会のしがらみとか全部取り払った愛が必要なんだよ、ということです。
まとめますと↓
フロム:みんな頑張って恋愛して良い世の中にしようず。
マルクーゼ:世の中別に良くはならんけど恋愛をして抵抗することはひとつの選択肢としてアリ。
蛇足かもだけどマルクーゼの主張はある意味、「世界とは多少ズレてても、恋愛をして特定の関係に徹底的にコミットすることで「小さな父」になることができる」とゼロ年代風に読み替えることも出来ますね。
愛の普遍性が人類社会を繋ぎ、平和と幸福に導く・・・というフロムのメッセージは極めてジョン・レノン的だ。
しかしレノンの歌は(すまん今イマジンしか念頭にないが)、みんなが男も女も肌の色も宗教も関係なく自由に愛しあうことで世界がひとつになれるというような生温い内容を反復するに甘んじた。
そして結局は「僕とヨーコが愛し合うことで世界が平和になる」という、独善的マチズモを拠り所にしたセカイ系へと突っ走った。
いっぽうで、60年代にレノンと同じようにベトナム戦争に対する反戦ソングを出したマービン・ゲイという人がいたわな。
この人は珠玉の名曲"What's going on"や"Mercy Mercy Me"において、
という、表面的には非常にレノンに似たメッセージを発しつつも、アーティストとしての業績の大半は超へテロなエロソングである。
ヒットを飛ばした有名どころでも"Sexual Healing"や"I Want You"、"Let's Get It On"など枚挙に暇がない。
かなり刹那主義的、肉食的、直接的な表現が多いエロソングをここまで量産していたということは、年がら年中ヤることしか考えていなかったに違いない。
直球なエロを求道しつづけているにも関わらずマービンが突発的に、子供たちも聴ける反戦ソングを出していたのは、穿った見方をすれば偽善的ともとれる。
しかしマルクーゼの検討を経た今、われわれはマービンのエロソングも現代文明への抵抗メッセージという意味で、一貫したアクションとして解釈することが可能な地平に立っていると言えるだろう。
恋愛からしか学べないことは何か?
という問いを立て(参照)、
エーリッヒ・フロムの『愛するということ』の検討を進めていた。
恋愛について語るとき多くの人が参照したがるクラシックだが、実際にこの本を読んで、内容に向き合ったヤツが今の日本人の中にどれだけいるのだろうか。
非常に危険なことだが、こういうカッコつきの名著は往々にして、日常に溢れる世話話の中で、そのタイトルに言及するだけで満足してしまいがちだ。つまり、プルーストの「失われた〜」などと同じく、著者とタイトルの組み合わせを知っていることに妙な価値が見出されている本のひとつだと思う。
かくいう私も今回読んでみるまでその内容について詳しくは知らなかった。
で、率直に言うと、
これってそんな名著か???という感想を抱かざるを得なかった。
この本についてなんとなく口にするヤツらはタイトルが好きなだけじゃないかという疑問が。
実際に読んでみるとわかるが、いかにもヒッピーブーム前夜・・・といいますか、ジャックケルアックないしジョンレノン臭がする本だ。
フロイトが展開した性愛と人間の行為についてのシニカルでスキャンダラスな学説を経由しつつも、結論としては、
「人が人を愛するのは他者と向き合い、ひいては人類社会と向き合うため」(←宮台シンジよりももっと"社会"の粒度がでかい)
「愛は、人格の修練を通じてしか手に入らない」
「みんなが人格の修練を通じて愛することを覚えることで、社会に幸福と自由が訪れる」
という少し社会主義ちっくな道徳的教条に着地している。
したがって、
恋愛することの目的とは。
というわれわれのリサーチクエスチョンに対するこの本からの暫定的な回答は、まずもって 「愛する という特殊スキルを身に付け」、長期的には「人類社会に幸福と自由をもたらすため」、といったことになろう。
もちろん異論は認めるが、正直ちょっと説教臭い内容なのね。
極端かつ卑近な喩えで申し訳ないが、不運にもコンパで啓発系メンズ(人材コンサルなどにいがち(←偏見))と同席してしまい、頼んでもいないのに「成長」についての長話をきかされているかのような感じだ。
ではこのキモチワルさ(cf二村監督)の正体は何なのだろう。
ということで、この週末+代休中に読んでたのが、全共闘世代のカリスマであるハーバート先生のこの本だ。
H. マルクーゼ『エロス的文明』(原著1958)
マルクーゼ先生はこの本で、フロムを正面からディスっとる。
曰く、フロムはフロイトを誤読している。
私のざっくりした理解だと、フロムがフロイトと袂を分つことになった最大のポイントは、フロムが、人間と人間以外の動物の間に本質的なバウンダリを認めていることのように思う。
ジークムント先生によれば人間の精神には①理性的/人間的な"意識"の層と、②本能的/動物的な"無意識"があるが、文明社会で暮らすわれわれの中では、普段は①によって②が抑圧されている。
しかし幼児の行動とか、あるいは成人してからも夢の中とかエロタイムとか、時限的には②がちょいちょい現れてくるのでそれを研究することで人間の深層についてもっと知ろうとしていたのがフロイトなのでした。
つまり、人間と人間以外の動物の差を連続的なものと捉えていて、人間といっても性愛行動などは動物的な部分に大きく規定されていると考えたわけです。
いっぽうでフロムは、人間は、人間らしい部分である①を鍛えることで、動物から離れていくべき!←これが現代社会をうまいこと機能させるキーになる。ホルモンの作用と生殖本能に駆動された性的交渉(つまり②が表に出過ぎることによる、セクロスを一義に据えた男女の関係、乱交含む変態プレイ、同性愛など)はやめて人間として成熟した恋愛をしましょう。そのスキルを身につけるためにみんながんばろう。というようなことを言ってたと思うのね。
しかしマルクーゼは、それはジークムント先生の読みとしてはちょっとズレてんじゃない?と言います。
フロムのフロイト批判のひとつの論拠は、①と②の連続性が科学的に妥当な形で証明できないことでもある。
確かにフロイト派の精神分析理論は、実証的な脳神経科学の研究が進むとすぐにオワコン扱いを受けるようになってしまい、人間の心を生物学的に裏付ける試みとしては失敗と考えられている。
だけどマルクーゼによればそこの蓋然性はどうでも良くて、フロイトが言ったことで本当に一番大切なのは、人間の①意識は今もこれまでも文明社会によって不可避な形で抑圧されている!!というメッセージだという。
そこでマルクーゼは近代的自我と合理性が生んだ抑圧的な文明に対抗するためのヒントを、フロイト的に言えば②の領域に属する、根源的なエロスの探求に見出している。
マルクーゼ先生は全体を通じてマルクス主義の術語を使っていて、過剰な富の蓄積とそのいっぽうでの人間疎外、そして資本主義的な抑圧が進行するこの狂った世の中で・・・・・という現代文明批判をひとしきり行っています。
そして最後に、この文明に残されたものの中で、純粋にプラトニックな愛だけが、抑圧から切断されうるんじゃない?という提案をする。
このプラトン的な愛というのが何かについての説明はちょっと歯切れが悪くて、お茶を濁し気味なのだけれども、恋愛はこの狂った世の中に抵抗するための手段だ!というのがマルクーゼのいちおうの結論になっている。
また裏返しのようだが、抑圧的な文明の中でエロスを回復するためには反抗心が必要、とも述べています。
ようは、
「たとえ全世界を敵に回しても・・・(ry」
というやつですな。
この台詞を言うためにはいろんな社会のしがらみとか全部取り払った愛が必要なんだよ、ということです。
まとめますと↓
フロム:みんな頑張って恋愛して良い世の中にしようず。
マルクーゼ:世の中別に良くはならんけど恋愛をして抵抗することはひとつの選択肢としてアリ。
蛇足かもだけどマルクーゼの主張はある意味、「世界とは多少ズレてても、恋愛をして特定の関係に徹底的にコミットすることで「小さな父」になることができる」とゼロ年代風に読み替えることも出来ますね。
愛の普遍性が人類社会を繋ぎ、平和と幸福に導く・・・というフロムのメッセージは極めてジョン・レノン的だ。
しかしレノンの歌は(すまん今イマジンしか念頭にないが)、みんなが男も女も肌の色も宗教も関係なく自由に愛しあうことで世界がひとつになれるというような生温い内容を反復するに甘んじた。
そして結局は「僕とヨーコが愛し合うことで世界が平和になる」という、独善的マチズモを拠り所にしたセカイ系へと突っ走った。
いっぽうで、60年代にレノンと同じようにベトナム戦争に対する反戦ソングを出したマービン・ゲイという人がいたわな。
この人は珠玉の名曲"What's going on"や"Mercy Mercy Me"において、
Only love can conquer hate.
という、表面的には非常にレノンに似たメッセージを発しつつも、アーティストとしての業績の大半は超へテロなエロソングである。
ヒットを飛ばした有名どころでも"Sexual Healing"や"I Want You"、"Let's Get It On"など枚挙に暇がない。
かなり刹那主義的、肉食的、直接的な表現が多いエロソングをここまで量産していたということは、年がら年中ヤることしか考えていなかったに違いない。
直球なエロを求道しつづけているにも関わらずマービンが突発的に、子供たちも聴ける反戦ソングを出していたのは、穿った見方をすれば偽善的ともとれる。
しかしマルクーゼの検討を経た今、われわれはマービンのエロソングも現代文明への抵抗メッセージという意味で、一貫したアクションとして解釈することが可能な地平に立っていると言えるだろう。
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