なんつか、勢いだけど、ひとつ宇多田ヒカルが米のラジオ番組に出た時の映像をトランスクライブしてみた。
おまいらの英会話の勉強のために2カ国語字幕にしてやったよ
にしても字幕つけるってけっこう大変なんだな。
敢えて言うが、宇多田の英語は、うまい。水嶋ヒロの10倍うまい。
まあネイティブやしうまいもクソもないわけだが。
けどなんでか知らんけど「日本人の英語」感が抜けきらん、って某帰国子女が昔話してたことがある。
今日のポイントは、
"to kick ーー to a curve"
「追い払う」「なかったことにする」という意味のスラングです。
2:47~くらいから宇多田の離婚に言及する文脈で出てきます。
あともうひとつ!
"a notch on your belt"
「成功のために踏む段階」「中期の達成課題」みたいな意味です。
6:13でおっさんが言ってるね。
ENJOY!
これからまた気が向いたらいろいろな動画に字幕つけていこうと思う。
リクエストも(ないやろけど)受け付けるかもしれません。
2010年10月17日日曜日
えーご⑧
うんちく、たれたれ、の続き。
前回はクレオールについてだらだらと書いてしまったが、具体的にはどんな言語なのかイメージはつきにくいかもしれぬ。
世界には本当に多くのクレオール言語が存在するから、とても紹介しきれない。
ただ、すべてのクレオールに共通するのはなんといっても単純化、そして簡略化である。
たとえば、格を表す語尾変化が消滅したり、単数と複数の区別がなくなったり。
具体的に挙げていこう。
英語系のクレオールであれば、「三人称単数現在のsの省略」「be動詞の省略や単純化」「文章内での位置によって同じ単語が様々な品詞として用いられること」といった特徴などがある。
これらの特徴から、連想するものはないだらうか。。。
そう、Ebonicsだ。also known as BVE (Black Vernacular English)。
つまり、アフリカ系のアメリカ人たちが話している種類の英語だ。
おそらくわれわれ(←「あなた」を含む(!))も、エディーマーフィーやクリスロックの映画で、多少ナリとも耳にしたことはあるはずの。
ジャマイカで英語基盤のクレオールが誕生した経緯については前回書いた。
そして、同様にアフリカから多数の奴隷を運び込んでいたアメリカ合衆国でも、ジャマイカと同じことが起こったのである。
ただし、全人口に対するアフリカ系の比率がジャマイカに比べるとだいぶ低かったからか、そこで生まれた黒人クレオールは、「標準米語」とそれほど極端な差のないものだった。
とはいえ、明確な特徴はあり、それは現代にも残っている。
まず、「三人称単数現在のsの省略」なぞは日常茶飯事なので、説明は割愛!
さて、「be動詞の省略や単純化」も、みなさんは必ず目撃しているはずだ。
たとえば、amやareの代わりに原形のbeを使ったり、なぜかisで統一してしまうケース。
リュダクリスの決め台詞"I be the nxxga named Luda!"を思い出されたい。
あるいはこの簡略化をさらに進めたケースとしては、先日マルーン5も新譜でカバーしていたアリシア・キーズの超名曲"If I ain't got you"を例にとってもよかろ。
ain'tというのは標準的な口語英語においても、"am not"、"is not"、"are not"の代わりに、be動詞現在の否定として広く使えるが(確か?)、さらにEbonicsにおいては、"don't"や"haven't"、"didn't"の代わりとしてなんでもいけてしまうのである。
つまりこの場合、原題をオーセンティックな英語としてグラマティカリー・コレクトに変換すると、"If I have not got(ten) you"だと思われる。
(アダム・レヴィーンは本当に歌うまい)
さらに、同曲のサビの一節を見てみると、
"Some people want it all, but I don't want nothing at all〜"
という部分が。
これも文法的に破格なのはおわかりだろうか。
つまり教科書で習う英語ならば、"I don't want anything at all"となるはずだ。
否定詞の反復もEbonicsの大きな特徴のひとつである。
これはアフリカ系アメリカ人の日常会話において、注意していると非常に頻繁にきくことができる。
音楽ネタで例をあげると、マービン・ゲイとタミ・テレルの名デュエット曲、"Ain't No Mountain High Enough"だってそうだし、ザ・ルーツの"Don't Say Nuthin'"だってそうだ。
カッコいい曲やが、PVにポルシェの黒歴史カイエン(なぜかCG)が出てくるのが玉にキズか
前回はクレオールについてだらだらと書いてしまったが、具体的にはどんな言語なのかイメージはつきにくいかもしれぬ。
世界には本当に多くのクレオール言語が存在するから、とても紹介しきれない。
ただ、すべてのクレオールに共通するのはなんといっても単純化、そして簡略化である。
たとえば、格を表す語尾変化が消滅したり、単数と複数の区別がなくなったり。
具体的に挙げていこう。
英語系のクレオールであれば、「三人称単数現在のsの省略」「be動詞の省略や単純化」「文章内での位置によって同じ単語が様々な品詞として用いられること」といった特徴などがある。
これらの特徴から、連想するものはないだらうか。。。
そう、Ebonicsだ。also known as BVE (Black Vernacular English)。
つまり、アフリカ系のアメリカ人たちが話している種類の英語だ。
おそらくわれわれ(←「あなた」を含む(!))も、エディーマーフィーやクリスロックの映画で、多少ナリとも耳にしたことはあるはずの。
ジャマイカで英語基盤のクレオールが誕生した経緯については前回書いた。
そして、同様にアフリカから多数の奴隷を運び込んでいたアメリカ合衆国でも、ジャマイカと同じことが起こったのである。
ただし、全人口に対するアフリカ系の比率がジャマイカに比べるとだいぶ低かったからか、そこで生まれた黒人クレオールは、「標準米語」とそれほど極端な差のないものだった。
とはいえ、明確な特徴はあり、それは現代にも残っている。
まず、「三人称単数現在のsの省略」なぞは日常茶飯事なので、説明は割愛!
さて、「be動詞の省略や単純化」も、みなさんは必ず目撃しているはずだ。
たとえば、amやareの代わりに原形のbeを使ったり、なぜかisで統一してしまうケース。
リュダクリスの決め台詞"I be the nxxga named Luda!"を思い出されたい。
あるいはこの簡略化をさらに進めたケースとしては、先日マルーン5も新譜でカバーしていたアリシア・キーズの超名曲"If I ain't got you"を例にとってもよかろ。
ain'tというのは標準的な口語英語においても、"am not"、"is not"、"are not"の代わりに、be動詞現在の否定として広く使えるが(確か?)、さらにEbonicsにおいては、"don't"や"haven't"、"didn't"の代わりとしてなんでもいけてしまうのである。
つまりこの場合、原題をオーセンティックな英語としてグラマティカリー・コレクトに変換すると、"If I have not got(ten) you"だと思われる。
(アダム・レヴィーンは本当に歌うまい)
さらに、同曲のサビの一節を見てみると、
"Some people want it all, but I don't want nothing at all〜"
という部分が。
これも文法的に破格なのはおわかりだろうか。
つまり教科書で習う英語ならば、"I don't want anything at all"となるはずだ。
否定詞の反復もEbonicsの大きな特徴のひとつである。
これはアフリカ系アメリカ人の日常会話において、注意していると非常に頻繁にきくことができる。
音楽ネタで例をあげると、マービン・ゲイとタミ・テレルの名デュエット曲、"Ain't No Mountain High Enough"だってそうだし、ザ・ルーツの"Don't Say Nuthin'"だってそうだ。
カッコいい曲やが、PVにポルシェの黒歴史カイエン(なぜかCG)が出てくるのが玉にキズか
2010年6月14日月曜日
えーご⑦
具体と抽象についてのスキルは,英語カルチャーの教養だ。
"It is a pen."という文。
前回述べたとおり、Itで指示されるペンは,誰が見てもペンだ。
この文は客観的に事実を表現している。
観察者を離れて,事実は客観として成立する。
これは科学哲学では,アインシュタイン/ハイゼンベルグ以前の古い近代のパラダイムの立場である。
客観的事実が、原因となり,結果を決定する。
近代医学,心理学,社会科学は,この立場に立つことで発展,展開した。
身体的・心理的な病気は,原因を特定することによって,治療が可能になる。
社会科学では,社会現象に対して定量的なアプローチが可能になる。
近代パラダイムは,社会についても言語表現についても,客観的決定論をもって完成するかのように思われていた。
20世紀はパラダイム転換の時代だった。
アインシュタインの相対性理論と量子論は,互いにせめぎあいながら20世紀前半に展開した。
20世紀の後半,ポストモダン文芸運動は,人間の認識をテーマとして展開した。
転換の中心は,ニュートン力学の客観主義から,アインシュタインの相対主義への移行であった。
焦点は,観察者の位置づけにある。
ここで否定されるのは,客観の「自明性」である。
ヒラリー・ローソンは、「これはペンです」のかわりに、「わたしはうそつきです」という文章を分析した。
第一に正直者は,「わたしはうそつきです」とは言わないはずだ。
うそつきが「わたしはうそつきです」と発話したら,発話者はうそつきだろうか、正直者だろうか。
ローソンは正解を求めなかった。
パラドックスを明らかにしようとしただけだ。
発話者がうそつきか、正直者かは,文自体には含まれていない。
この文の事実性は,文と発話者の関係のなかにある。
文は,発話者を離れては成立しないのだ。
文の事実性は,言われていることと言っている人(発話者)の間の構造のなかにしか,求めることはできない。
この文は,客観的自明性を欠いているばかりでなく、何事をも決定することはない。
しかもここでローソンは,文と発話者の間にある構造は,文がどのようなものであっても、実は存在すると考える。
つまり、「これはペンです」の場合も,発話者を除外することはできないとローソンは考える。
発話者は,社会的・文化的な存在であり,認識の主体である。
社会,文化,主観,認識,主体のどれについても、客観でもなければ,自明でもありえない。
「これはペンです」という文は,これらの要素を含むことで,言われていることと言っている人との関係を表現するのである。
ポスト近代では,客観はどこにいったのか。
古い近代のパラダイムでは,文はそれ自体,客観的に成立する。
しかし新しいパラダイムでは,文は発話者を離れては成立しないと考える。
"It is a pen."
も
"I'm a goddamn liar."
も、同じように主観的である。
では、客観は消滅したのか。
前述したように,ポスト近代の客観は,観察者の主観を通じて相対化される。
観察者なしには観察できないのだから,出発点が主観であり,相対的である。
そうだとしても、ここにおいても客観は,観察者の観察対象としては,やはり存在する「はず」である。
この存在する「はず」の客観を、ポストモダンの現代思想は仮説として探求した。
客観の「自明性」は、認識者の主観によって相対化される。
だから、客観の認識の有効性は,認識の仕方にかかっている。
とすれば、理論とは、客観的事実と主観的認識の関係を定義づけることである。
理論構築の焦点は,「自明性」から「定義づけ」へと変わる。
この立場に立てば,パラダイムとは客観と主観の構造だと言える。
ポストモダンの試みとは,古い近代によって構築されたこの二者間の構造を、意図的に解体することによって,新しいパラダイムに導こうとする運動だった。
だからこそ、それは認識論を扱うものであって,文芸運動として,哲学と言語学を中心に展開した。
とにかく、アメリカを典型として,ポストモダンの試行錯誤を経験した社会は,すでに個を単位としている。
「個」とは、客観の認識を仮説とする,認識の主体である。
この個は,ポストモダンである。
これが社会単位なのだ。
このポストモダンの人間集団は,いつでも個に分解可能であり,またいつでも組織を構成することが出来る。
生態学的な社会システム論の考え方では,ネットワークは個(ノード)が組織の主体で,個と個の関係は相互のコミュニケーションにより決定される。
人間が先で,関係があとだ。
(環境/システムの区別がはじめから存在するのではなく,コミュニケーションを契機として「複雑性の縮減」がなされる)
ところがたとえば日本の縦型組織では,関係が先にシステムとしてできあがっている。
人間を所与の関係が規定しており、人間(ノード)は与えられた関係に適応することしか許されない。
適応が,社会倫理であり、適応できなければ脱落する。
登校拒否や引きこもりは,脱落者に許された社会空間である。
この許された空間さえも拒否すれば,自殺や心中となる。
これに対して西欧のネットワーク社会は,運動するシステムであり、社会組織は、いつでも個に分解する。
その実現のために、カウンターカルチャーなどの社会運動にまで発展した,「ポストモダン」という高い対価をすでに支払っている。
たとえば1980年代アメリカ東海岸のDigital Equipmentや,もっと最近の例で言えば,ドイツのSteinweissなどが、事例として有名だ。
制度でありながら運動体である,開放系でありながら閉鎖系である、という意味で,ネットワーク社会は、近代の常識からは外れている。
ありえないものが存在しているという意味で,本質的にパラドキシカルだ。
そしてこのパラドクスはすでに実現している。
これが現代。可塑性の高いアーキテクチャによる緩やかな統合を特徴とする組織のスタイルだ。
ネットワーク組織は柔構造を持つ運動体である。
ネットワークでは,中心は作ることもできるし、必要ないかもしれない。
中心も周辺も変更が可能であり,組織は常に変容している。
日本も含めた非西欧社会の近代には,ローカルな伝統と融合という問題がついて廻る。
これは西欧とは別の近代の試みなのだから,古い発想に閉じ込めることなく,新しい理論の構築が必要である。
そうなってはじめて,西欧との関係も論ずることが出来る。
自然科学のパラダイムそのものではなく、自然科学のパラダイム転換に伴う社会変容を、説明できる理論の登場が待たれる。
日本の周辺部(典型的には、ベンチャーキャピタル)では,伝統とネットワークの融合は,すでにトレンド化している。
そこでは90年代から,さまざまな試行錯誤が継続しているが,理論が出来なければ,また概念が用語として定着しなければ,試行錯誤は一過性のままに留まる。
ソフトバンク,光通信,ライブドアなど、周辺独自の可能性と困難は目に見えている。
テンポの速いグローバル化時代に,さまざまな意味でリスクとチャンスを見てとり,対応できるのは周辺部だろう。
周辺部が,西欧社会のポストモダンの成果を何処まで吸収できるか,が、実は近道であるように思う。
しかし、その際に最大のバリアとなっているのが,具体から抽象へ、つまり端的には理論化/概念化という英語の教養的スキルだと、わしには思われるのだ。
物事を特定するとき,日本語では具体に返る。
英語では抽象に進む。
一般化によって個別のペンは「ペン」として抽象化され、共通に特定された。
抽象・一般化によって物事を特定するのが,英語の論理である。
この論理は,サイエンティフィックだ。
天動説から地動説への移行はまさしく、この具体・個別から抽象的思考への移行ではなかったか。
この移行が構造的に組み込まれた英語では,日常会話でも、つねに具体・個別から抽象へと,話者は進む。
一般化による共通認識が成立しなければ,"it"へは移行せず、"this"と"that"にとどまることになる。
物事の抽象的な特定の例としては,南極点や北極点,あるいは、「国境」などが挙げられよう。
これらは緯度・経度(僕はいつもLongitudeとLatitude、どっちがどっちだったか忘れてしまうんですが,みんなはどうですか?)という抽象的な線引きがあって、はじめて特定可能になる。
抽象的にしか特定できない。
あるいはもっと身近な例でいうと,時間がある。
だから英語では時間には抽象の"it"を使う。
言語は決して論理的に作り出されるものではないが,論理を含み込んでおり、話者はその論理に縛られる。
日本語では、抽象的論理を表出することは可能でも,その論理で話者を縛ることはしない。
英語の抽象について語りはじめた出発点は,極めて抽象度の高い「上の英語」を認知したことにあった。
おそらくこの「上の英語」は、大学に行って学ぶものだろう。
抽象能力のチャンピオンは「考える」作業のチャンピオンだ。
グローバル社会でのネゴシエーションでは,こういうヤツらが相手になる。
わしもそろそろえーかげんに、アメリカの大学に行かなければならないのである・・・!!
「具体から抽象へ」を、日本の学校の英語教育の初頭に教えることはできるだろうか。
もし可能なら,日本語にも良いインパクトがもたらされるのではないか。
つまり豊かな論理性だ。
このプロセスを野放しにせず,コントロールできる力を日本の英語教育法が獲得することが出来れば,日本ももっと変わることができるかもしれないなどと言ってみる。
グローバル社会のネゴシエーションで大切なのは陳腐なヒューリスティクスなどではないだろう。
具体から抽象へという心の動きは,民主主義社会の根底にあるものだ(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』)。
日常的な抽象の駆使があってこそ、ポストモダンの試みも意味を持つと思う。
"It is a pen."という文。
前回述べたとおり、Itで指示されるペンは,誰が見てもペンだ。
この文は客観的に事実を表現している。
観察者を離れて,事実は客観として成立する。
これは科学哲学では,アインシュタイン/ハイゼンベルグ以前の古い近代のパラダイムの立場である。
客観的事実が、原因となり,結果を決定する。
近代医学,心理学,社会科学は,この立場に立つことで発展,展開した。
身体的・心理的な病気は,原因を特定することによって,治療が可能になる。
社会科学では,社会現象に対して定量的なアプローチが可能になる。
近代パラダイムは,社会についても言語表現についても,客観的決定論をもって完成するかのように思われていた。
20世紀はパラダイム転換の時代だった。
アインシュタインの相対性理論と量子論は,互いにせめぎあいながら20世紀前半に展開した。
20世紀の後半,ポストモダン文芸運動は,人間の認識をテーマとして展開した。
転換の中心は,ニュートン力学の客観主義から,アインシュタインの相対主義への移行であった。
焦点は,観察者の位置づけにある。
ここで否定されるのは,客観の「自明性」である。
ヒラリー・ローソンは、「これはペンです」のかわりに、「わたしはうそつきです」という文章を分析した。
第一に正直者は,「わたしはうそつきです」とは言わないはずだ。
うそつきが「わたしはうそつきです」と発話したら,発話者はうそつきだろうか、正直者だろうか。
ローソンは正解を求めなかった。
パラドックスを明らかにしようとしただけだ。
発話者がうそつきか、正直者かは,文自体には含まれていない。
この文の事実性は,文と発話者の関係のなかにある。
文は,発話者を離れては成立しないのだ。
文の事実性は,言われていることと言っている人(発話者)の間の構造のなかにしか,求めることはできない。
この文は,客観的自明性を欠いているばかりでなく、何事をも決定することはない。
しかもここでローソンは,文と発話者の間にある構造は,文がどのようなものであっても、実は存在すると考える。
つまり、「これはペンです」の場合も,発話者を除外することはできないとローソンは考える。
発話者は,社会的・文化的な存在であり,認識の主体である。
社会,文化,主観,認識,主体のどれについても、客観でもなければ,自明でもありえない。
「これはペンです」という文は,これらの要素を含むことで,言われていることと言っている人との関係を表現するのである。
ポスト近代では,客観はどこにいったのか。
古い近代のパラダイムでは,文はそれ自体,客観的に成立する。
しかし新しいパラダイムでは,文は発話者を離れては成立しないと考える。
"It is a pen."
も
"I'm a goddamn liar."
も、同じように主観的である。
では、客観は消滅したのか。
前述したように,ポスト近代の客観は,観察者の主観を通じて相対化される。
観察者なしには観察できないのだから,出発点が主観であり,相対的である。
そうだとしても、ここにおいても客観は,観察者の観察対象としては,やはり存在する「はず」である。
この存在する「はず」の客観を、ポストモダンの現代思想は仮説として探求した。
客観の「自明性」は、認識者の主観によって相対化される。
だから、客観の認識の有効性は,認識の仕方にかかっている。
とすれば、理論とは、客観的事実と主観的認識の関係を定義づけることである。
理論構築の焦点は,「自明性」から「定義づけ」へと変わる。
この立場に立てば,パラダイムとは客観と主観の構造だと言える。
ポストモダンの試みとは,古い近代によって構築されたこの二者間の構造を、意図的に解体することによって,新しいパラダイムに導こうとする運動だった。
だからこそ、それは認識論を扱うものであって,文芸運動として,哲学と言語学を中心に展開した。
とにかく、アメリカを典型として,ポストモダンの試行錯誤を経験した社会は,すでに個を単位としている。
「個」とは、客観の認識を仮説とする,認識の主体である。
この個は,ポストモダンである。
これが社会単位なのだ。
このポストモダンの人間集団は,いつでも個に分解可能であり,またいつでも組織を構成することが出来る。
生態学的な社会システム論の考え方では,ネットワークは個(ノード)が組織の主体で,個と個の関係は相互のコミュニケーションにより決定される。
人間が先で,関係があとだ。
(環境/システムの区別がはじめから存在するのではなく,コミュニケーションを契機として「複雑性の縮減」がなされる)
ところがたとえば日本の縦型組織では,関係が先にシステムとしてできあがっている。
人間を所与の関係が規定しており、人間(ノード)は与えられた関係に適応することしか許されない。
適応が,社会倫理であり、適応できなければ脱落する。
登校拒否や引きこもりは,脱落者に許された社会空間である。
この許された空間さえも拒否すれば,自殺や心中となる。
これに対して西欧のネットワーク社会は,運動するシステムであり、社会組織は、いつでも個に分解する。
その実現のために、カウンターカルチャーなどの社会運動にまで発展した,「ポストモダン」という高い対価をすでに支払っている。
たとえば1980年代アメリカ東海岸のDigital Equipmentや,もっと最近の例で言えば,ドイツのSteinweissなどが、事例として有名だ。
制度でありながら運動体である,開放系でありながら閉鎖系である、という意味で,ネットワーク社会は、近代の常識からは外れている。
ありえないものが存在しているという意味で,本質的にパラドキシカルだ。
そしてこのパラドクスはすでに実現している。
これが現代。可塑性の高いアーキテクチャによる緩やかな統合を特徴とする組織のスタイルだ。
ネットワーク組織は柔構造を持つ運動体である。
ネットワークでは,中心は作ることもできるし、必要ないかもしれない。
中心も周辺も変更が可能であり,組織は常に変容している。
日本も含めた非西欧社会の近代には,ローカルな伝統と融合という問題がついて廻る。
これは西欧とは別の近代の試みなのだから,古い発想に閉じ込めることなく,新しい理論の構築が必要である。
そうなってはじめて,西欧との関係も論ずることが出来る。
自然科学のパラダイムそのものではなく、自然科学のパラダイム転換に伴う社会変容を、説明できる理論の登場が待たれる。
日本の周辺部(典型的には、ベンチャーキャピタル)では,伝統とネットワークの融合は,すでにトレンド化している。
そこでは90年代から,さまざまな試行錯誤が継続しているが,理論が出来なければ,また概念が用語として定着しなければ,試行錯誤は一過性のままに留まる。
ソフトバンク,光通信,ライブドアなど、周辺独自の可能性と困難は目に見えている。
テンポの速いグローバル化時代に,さまざまな意味でリスクとチャンスを見てとり,対応できるのは周辺部だろう。
周辺部が,西欧社会のポストモダンの成果を何処まで吸収できるか,が、実は近道であるように思う。
しかし、その際に最大のバリアとなっているのが,具体から抽象へ、つまり端的には理論化/概念化という英語の教養的スキルだと、わしには思われるのだ。
物事を特定するとき,日本語では具体に返る。
英語では抽象に進む。
一般化によって個別のペンは「ペン」として抽象化され、共通に特定された。
抽象・一般化によって物事を特定するのが,英語の論理である。
この論理は,サイエンティフィックだ。
天動説から地動説への移行はまさしく、この具体・個別から抽象的思考への移行ではなかったか。
この移行が構造的に組み込まれた英語では,日常会話でも、つねに具体・個別から抽象へと,話者は進む。
一般化による共通認識が成立しなければ,"it"へは移行せず、"this"と"that"にとどまることになる。
物事の抽象的な特定の例としては,南極点や北極点,あるいは、「国境」などが挙げられよう。
これらは緯度・経度(僕はいつもLongitudeとLatitude、どっちがどっちだったか忘れてしまうんですが,みんなはどうですか?)という抽象的な線引きがあって、はじめて特定可能になる。
抽象的にしか特定できない。
あるいはもっと身近な例でいうと,時間がある。
だから英語では時間には抽象の"it"を使う。
言語は決して論理的に作り出されるものではないが,論理を含み込んでおり、話者はその論理に縛られる。
日本語では、抽象的論理を表出することは可能でも,その論理で話者を縛ることはしない。
英語の抽象について語りはじめた出発点は,極めて抽象度の高い「上の英語」を認知したことにあった。
おそらくこの「上の英語」は、大学に行って学ぶものだろう。
抽象能力のチャンピオンは「考える」作業のチャンピオンだ。
グローバル社会でのネゴシエーションでは,こういうヤツらが相手になる。
わしもそろそろえーかげんに、アメリカの大学に行かなければならないのである・・・!!
「具体から抽象へ」を、日本の学校の英語教育の初頭に教えることはできるだろうか。
もし可能なら,日本語にも良いインパクトがもたらされるのではないか。
つまり豊かな論理性だ。
このプロセスを野放しにせず,コントロールできる力を日本の英語教育法が獲得することが出来れば,日本ももっと変わることができるかもしれないなどと言ってみる。
グローバル社会のネゴシエーションで大切なのは陳腐なヒューリスティクスなどではないだろう。
具体から抽象へという心の動きは,民主主義社会の根底にあるものだ(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』)。
日常的な抽象の駆使があってこそ、ポストモダンの試みも意味を持つと思う。
2010年3月4日木曜日
えいご③
旅行で米国に滞在するとき一番面白いと思うのが市井の人々の会話である。
僕はけっこう地獄耳なので、関係ない人々の会話内容がかなりの割合で耳に入ってくる(日本でも)。
電車の中で、酒場で、ストリートで、あるいはホテルのロビーで。。
今回は滞在中に
「I'ma bust'a up his ass!!」(あいつのケツにイッパツかましたるわボゲェ!)
なんてのを初めて生で耳にしたりしたよ。
古式ゆかしい街ボストンにもギャングスタ・ビアッチはいるのね。
まあそんなサグいセリフじゃなくても、特にジョークの類いはおもろい。
たとえば今回聴いたのが
"Why did the fried chicken cross the road?"
"It saw a fork up ahead."(ぎゃはは)
というもの。
これはもちろん
"Why did the chicken cross the road?"
"To get to the other side."
というスーパークラシックの変奏だが、それを知っていなければなんのこっちゃだろう。
アメリカンジョークはただのすべり笑い芸ではなく、無い機知をムリヤリひねり出しつつ過去の傑作にも敬意を払う愛すべきカルチュアだと思うのだが、どうか。
ゆーて実際は、道を歩いていて冗談を耳にする率がそんなに高いわけじゃ、そんなわけはないんですけども。
でもそういうの聴いてニヤニヤしてたからあーあーキモイ東洋人がいるわって思われたかもね。
すべての差異を呑み込むブラザーフッドの国だけど、やあっぱアジア系はちょっと蔑視されてると思うのね。
Mad TVでも、アバクロンビー&フィッチの店で最初は「俺たちはイケメンの白人しか雇わねーんだよー」って黒人差別してたんだけど、結局黒人は文化的にも政治的にも強い社会集団だから雇わざるを得なくなって、みんな迎合して黒人みたいな喋り方になって、最終的にはアジア系を差別するようになるというオチのエピソードがあったし。
「パンダエキスプレス(米大手中華料理チェーン)にでもいっとけや〜〜」ってね。
そうだそうだ全部PRCが悪いんだ。とか言っちゃダメだよ。
でも、アメリカでもオーストラリアでもシンガポールでもそうだけど、現地の中国系の人々に中国語で話しかけられる瞬間は少し「イラー」とくるイラッモーメントですよ。
オイラ日本人なんですけども。
もっとイラッとくるのは、中国語を話せる中国系以外に中国語で来られた時ね。
向こうは気を使ってるんだろうし、まあPRCには全地球の20%の人口がいるわけだから確率的には合理的な行動かもだけどよ。
失礼やろがー!と、不思議にも不寛容な自分に気付く瞬間でもありますな。
この辺が、多民族国家でアジア系同士がイマイチ連帯できない理由なのかしら。。わかんないすけどね。
米ではユダヤ人もヒスパニックもアフリカ系もみんな仲良く協力して暮らしてるのに。。
閑話休題。
僕の今回の旅行の第一の目的は一応NBAの試合を観ることで(いつもの如く!)、まあばっちりTDバンクノースガーデンていうアリーナで地元のセルティックスの試合を3コ観てきたんだけども、実際アリーナに行くと、試合始まってしばらくすると船漕ぎ始めるおじーちゃんとかいるわけですよ。
ダフ屋経由で入手した年間チケットホルダーの放出品でクラブシートとってたから、割と定価は高めの席なので、ベテラン・バスケット・ファン風のおじいさんたちも周りには結構おられたのです(凄く年期入った渋ーーーいチームアパレル製品とか着てたり)。
で、まあその人たちはどうせ年間チケットで来てるから目の前で繰り広げられているスーパープレイもjust one of those thingsって感じで、うたた寝タイムに入っちゃったのかもしれないですけどもね、日本からはるばる来ている身としては、「もったいなくね???!!」という感想を抱かざるを得なかった。
そんな人がタイムアウト中にオーロラビジョンに映されて失笑を買ったりとかしたりしてそれはそれで面白いんだけど、うーん、やっぱMOTTAINAIと思った。
しかしですね、まあある程度はうなずける話なのですよ。
冒頭のジョークにも登場したフライド・チキンやBBQチキン、フレンチ・フライド・ポテト、ピザ!、ステーキ・サブなどなど、アリーナで売っている食事には脂っこい強力なアメリカ的食品が多い。
もっとも、メキシコ料理というややヘルシーな(それでも日本食に比べたら・・・という感じだが)逃げ道も残されてはいるのではありますが。
で、そういうグリーシーなソウルフード系のものを食べると発生する眠気のことをズバリ言い表すスラングに
ITIS
というのがありまして。
お腹いっぱいご飯を食べたあとって、
「あーこのまま寝かせてー」と思うくらい、体もいい感じにポワワーンとして眠くなりますよね。
そういう状態をitisと呼ぶのです。
僕がこの単語を初めて知ったのは、確かDave Chapelle's Showのいちエピソード。
バーベキューソースに浸かったスペアリブが薬の容器の中に入っている映像が登場し、
「RIBSは、アメリカでナンバーワンの睡眠薬」
という、インチキながらも的を得たコマーシャルのスキットで同語が出てきました。
「ひとたび消化されると、RIBSのバーベキューソースと油ギッシュな豚肉が胃の中に広がり・・・creating an age-old condition called the ITIS(昔からあるアイタスと呼ばれる状態を作り出します)。体がだるくなり、すぐに眠りにつけるでしょう。」
と、アメリカの薬のCMにありがちな囁き声系の女声ナレーションが説明していました。
つまりこのITISとは、消化器に負担のかかる脂っこい食事をとることにより、胃に血液が集中して脳の血流量が相対的に下がり、眠くなってしまう現象を指すわけであります。
これをよりダイレクトに表現したfood comaも、itisの同義語(こちらもスランギー)。
こんな表現がわざわざあるくらいだから、TDガーデンのおじいさんの居眠りも、まあ仕方ないかということになりますかね。
彼がソウルフードを食べていたのかどうかは定かではないけども。
また、たびたびこのブログでも参照してきているアニメ "Boondocks"にも、"The ITIS"というエピソードがありましたな。
ここでノンカットの映像を見ることができます。
これは、グランダッド(おじいちゃん)がソウルフード・レストラン『The Itis』をオープンし、それが数々の問題(肥満、怠慢、etc.)を引き起こす・・・というお話。
余談になりますが、『The Itis』の看板メニューは「The Luther」という特大のベーコンチーズ・バーガー。
普通のベーコンチーズバーガーとの違いは、パンのかわりにKrispy Kremeのドーナツを使っているところ(!!!)。
しかしこのLuther Burger、ただのジョークかと思っていたら、、、
なんと実在しました(笑
調べてみるとジョージア州ディケイターのミリガンズというバーで発祥したもののよう。
さすがデブ超大国。バカすぎるw
油分&糖分&塩分の三冠王!なこのバーガー、食べたらすぐにダルくなって爆睡(pass out)確実ですな。
さて、このitisですが、実際に使う時は、
I got the itis(お腹いっぱいで眠い).
というように、必ず"the"をつけるようです。
けっこうみんな使ってる言葉だと思うし知っていると便利な表現ではあるよね。
しかし日本人が使う時は気をつけなければならないのであーる。
僕も今回旅行中にアフロセントリックな友達に"itis"の使用をたしなめられました。
ははは
僕は英語を話していると、普段よりさらに輪をかけて失言が増えるのですわ。
でもね、英語の場合は失言しても、
"Was it that loud?"
と、フレンズのチャンドラー風に切り抜けれるからokよね。もちろんokじゃないときもありそうだけどもやで。
実はitisは、その昔はNワードと組み合わせてN-----itisというように使われていたそうで、
「黒人は怠け者」
といったような人種差別的意味も含まれていたらしいです。
"~~itis"というのは、
meningitis(髄膜炎)
appendicitis(虫垂炎)
tonsillitis(扁桃腺炎)
といったように、「炎症」を表す接尾辞です。
つまりNワードにitisをつけることで病名らしさを演出し、
「たらふく食べたあとで眠くなる黒人の病気(人種に関係なく眠くなりますが)」
という意味で、ブラック・ピープル同士が自虐的なジョークとして使ってきたものなのだそうな。
今では非ブラックの人が使っても(without the N-word of course!!!)差別としては見なされないようですし、友人の中には「全然問題ないじゃん!」という人もいます。
しかし件の彼のようにいやがる人もいるので、意味だけ知っておけば十分なのかなー
たまに反省
でもなんて楽しい
英会話
(字余りしまくり)
僕はけっこう地獄耳なので、関係ない人々の会話内容がかなりの割合で耳に入ってくる(日本でも)。
電車の中で、酒場で、ストリートで、あるいはホテルのロビーで。。
今回は滞在中に
「I'ma bust'a up his ass!!」(あいつのケツにイッパツかましたるわボゲェ!)
なんてのを初めて生で耳にしたりしたよ。
古式ゆかしい街ボストンにもギャングスタ・ビアッチはいるのね。
まあそんなサグいセリフじゃなくても、特にジョークの類いはおもろい。
たとえば今回聴いたのが
"Why did the fried chicken cross the road?"
"It saw a fork up ahead."(ぎゃはは)
というもの。
これはもちろん
"Why did the chicken cross the road?"
"To get to the other side."
というスーパークラシックの変奏だが、それを知っていなければなんのこっちゃだろう。
アメリカンジョークはただのすべり笑い芸ではなく、無い機知をムリヤリひねり出しつつ過去の傑作にも敬意を払う愛すべきカルチュアだと思うのだが、どうか。
ゆーて実際は、道を歩いていて冗談を耳にする率がそんなに高いわけじゃ、そんなわけはないんですけども。
でもそういうの聴いてニヤニヤしてたからあーあーキモイ東洋人がいるわって思われたかもね。
すべての差異を呑み込むブラザーフッドの国だけど、やあっぱアジア系はちょっと蔑視されてると思うのね。
Mad TVでも、アバクロンビー&フィッチの店で最初は「俺たちはイケメンの白人しか雇わねーんだよー」って黒人差別してたんだけど、結局黒人は文化的にも政治的にも強い社会集団だから雇わざるを得なくなって、みんな迎合して黒人みたいな喋り方になって、最終的にはアジア系を差別するようになるというオチのエピソードがあったし。
「パンダエキスプレス(米大手中華料理チェーン)にでもいっとけや〜〜」ってね。
そうだそうだ全部PRCが悪いんだ。とか言っちゃダメだよ。
でも、アメリカでもオーストラリアでもシンガポールでもそうだけど、現地の中国系の人々に中国語で話しかけられる瞬間は少し「イラー」とくるイラッモーメントですよ。
オイラ日本人なんですけども。
もっとイラッとくるのは、中国語を話せる中国系以外に中国語で来られた時ね。
向こうは気を使ってるんだろうし、まあPRCには全地球の20%の人口がいるわけだから確率的には合理的な行動かもだけどよ。
失礼やろがー!と、不思議にも不寛容な自分に気付く瞬間でもありますな。
この辺が、多民族国家でアジア系同士がイマイチ連帯できない理由なのかしら。。わかんないすけどね。
米ではユダヤ人もヒスパニックもアフリカ系もみんな仲良く協力して暮らしてるのに。。
閑話休題。
僕の今回の旅行の第一の目的は一応NBAの試合を観ることで(いつもの如く!)、まあばっちりTDバンクノースガーデンていうアリーナで地元のセルティックスの試合を3コ観てきたんだけども、実際アリーナに行くと、試合始まってしばらくすると船漕ぎ始めるおじーちゃんとかいるわけですよ。
ダフ屋経由で入手した年間チケットホルダーの放出品でクラブシートとってたから、割と定価は高めの席なので、ベテラン・バスケット・ファン風のおじいさんたちも周りには結構おられたのです(凄く年期入った渋ーーーいチームアパレル製品とか着てたり)。
で、まあその人たちはどうせ年間チケットで来てるから目の前で繰り広げられているスーパープレイもjust one of those thingsって感じで、うたた寝タイムに入っちゃったのかもしれないですけどもね、日本からはるばる来ている身としては、「もったいなくね???!!」という感想を抱かざるを得なかった。
そんな人がタイムアウト中にオーロラビジョンに映されて失笑を買ったりとかしたりしてそれはそれで面白いんだけど、うーん、やっぱMOTTAINAIと思った。
しかしですね、まあある程度はうなずける話なのですよ。
冒頭のジョークにも登場したフライド・チキンやBBQチキン、フレンチ・フライド・ポテト、ピザ!、ステーキ・サブなどなど、アリーナで売っている食事には脂っこい強力なアメリカ的食品が多い。
もっとも、メキシコ料理というややヘルシーな(それでも日本食に比べたら・・・という感じだが)逃げ道も残されてはいるのではありますが。
で、そういうグリーシーなソウルフード系のものを食べると発生する眠気のことをズバリ言い表すスラングに
ITIS
というのがありまして。
お腹いっぱいご飯を食べたあとって、
「あーこのまま寝かせてー」と思うくらい、体もいい感じにポワワーンとして眠くなりますよね。
そういう状態をitisと呼ぶのです。
僕がこの単語を初めて知ったのは、確かDave Chapelle's Showのいちエピソード。
バーベキューソースに浸かったスペアリブが薬の容器の中に入っている映像が登場し、
「RIBSは、アメリカでナンバーワンの睡眠薬」
という、インチキながらも的を得たコマーシャルのスキットで同語が出てきました。
「ひとたび消化されると、RIBSのバーベキューソースと油ギッシュな豚肉が胃の中に広がり・・・creating an age-old condition called the ITIS(昔からあるアイタスと呼ばれる状態を作り出します)。体がだるくなり、すぐに眠りにつけるでしょう。」
と、アメリカの薬のCMにありがちな囁き声系の女声ナレーションが説明していました。
つまりこのITISとは、消化器に負担のかかる脂っこい食事をとることにより、胃に血液が集中して脳の血流量が相対的に下がり、眠くなってしまう現象を指すわけであります。
これをよりダイレクトに表現したfood comaも、itisの同義語(こちらもスランギー)。
こんな表現がわざわざあるくらいだから、TDガーデンのおじいさんの居眠りも、まあ仕方ないかということになりますかね。
彼がソウルフードを食べていたのかどうかは定かではないけども。
また、たびたびこのブログでも参照してきているアニメ "Boondocks"にも、"The ITIS"というエピソードがありましたな。
ここでノンカットの映像を見ることができます。
これは、グランダッド(おじいちゃん)がソウルフード・レストラン『The Itis』をオープンし、それが数々の問題(肥満、怠慢、etc.)を引き起こす・・・というお話。
余談になりますが、『The Itis』の看板メニューは「The Luther」という特大のベーコンチーズ・バーガー。
普通のベーコンチーズバーガーとの違いは、パンのかわりにKrispy Kremeのドーナツを使っているところ(!!!)。
しかしこのLuther Burger、ただのジョークかと思っていたら、、、
なんと実在しました(笑
調べてみるとジョージア州ディケイターのミリガンズというバーで発祥したもののよう。
さすがデブ超大国。バカすぎるw
油分&糖分&塩分の三冠王!なこのバーガー、食べたらすぐにダルくなって爆睡(pass out)確実ですな。
さて、このitisですが、実際に使う時は、
I got the itis(お腹いっぱいで眠い).
というように、必ず"the"をつけるようです。
けっこうみんな使ってる言葉だと思うし知っていると便利な表現ではあるよね。
しかし日本人が使う時は気をつけなければならないのであーる。
僕も今回旅行中にアフロセントリックな友達に"itis"の使用をたしなめられました。
ははは
僕は英語を話していると、普段よりさらに輪をかけて失言が増えるのですわ。
でもね、英語の場合は失言しても、
"Was it that loud?"
と、フレンズのチャンドラー風に切り抜けれるからokよね。もちろんokじゃないときもありそうだけどもやで。
実はitisは、その昔はNワードと組み合わせてN-----itisというように使われていたそうで、
「黒人は怠け者」
といったような人種差別的意味も含まれていたらしいです。
"~~itis"というのは、
meningitis(髄膜炎)
appendicitis(虫垂炎)
tonsillitis(扁桃腺炎)
といったように、「炎症」を表す接尾辞です。
つまりNワードにitisをつけることで病名らしさを演出し、
「たらふく食べたあとで眠くなる黒人の病気(人種に関係なく眠くなりますが)」
という意味で、ブラック・ピープル同士が自虐的なジョークとして使ってきたものなのだそうな。
今では非ブラックの人が使っても(without the N-word of course!!!)差別としては見なされないようですし、友人の中には「全然問題ないじゃん!」という人もいます。
しかし件の彼のようにいやがる人もいるので、意味だけ知っておけば十分なのかなー
たまに反省
でもなんて楽しい
英会話
(字余りしまくり)
2009年10月4日日曜日
旅行中考えたこと2
駄文が続いた気がするので今日くらいはまともなエントリーを書けたらよいと思う。
言語学者のソシュールは、「パロールは個人的なものでラングは社会的なものだ」と言っていて、これがおそらく一応言語学をかじったことがある人8割がたの通念だろう。なにも根拠はないが。
ソシュール先生には申し訳なく、わりと突拍子もなくてさらに申し訳ないのだが、
「ラング(文法)は個人的で、
パロール(発話)こそ社会的なものである」
という実感を得る瞬間が9月の旅行中に多々あった。
先月はシンガポールとオーストラリア(とネパール)という英語圏ないし準英語圏の国々をめぐったのだが、これらの国々では、きわめて異なるアクセントや特有の言い回しを携えた英語が話されている。
特にシンガポールではマレーやマンダリンの語彙をふんだんに借用した悪名高いSinglish、オーストラリアでは日本語で言う北関東弁のような田舎言葉(イメージです。。むしろIrishとかがそっちに相当するのか?Aussieは結構かわいいからね。広島弁?)Aussie Englishが話されている。
さらに、そこに飛び込んでいった僕が「話す」英語はどちらにも属しておらず、おそらく日本語的なラングを基本としてそれを補う形で構成された文法の上に、きわめてアメリカ的要素が強い語彙とアクセントを携えていると思われる。一応努力目標としているのはカナダ人の英語である。しかし周辺にいる何人かのネイティブによるとたまにシンガポール人のような訛りが出ているらしい。
例えば「コーヒー飲まない?」という単純な提案を行う場合、
シンガポール人なら「Join me for Kopi?」というであろうし、
オーストラリア人なら「Would you like a cuppa?」となるであろう。
ちなみに僕なら普通に「You wanna grab some coffee?」と言う気がする。
純正のアメリカ人なら「Hey let's hit a starbucks dude!」というところだろう。
(すごくわかりにくい例だし、十分じゃない)
とにかく、この劇的なSinglish~Aussie環境の転換を経て感じたのは、それでもコミュニケーションが成立するということは、一見ばらばらな個々人の発話は周囲の集団の中での社会的なプロセスを経て(きわめていい加減かつどうとでも解釈できる表現で申し訳ない)「英語のパロール」というレンジへと一種「翻訳」されているからではないかという可能性である。
つまり、世界中の英語話者全員が、ある普遍的で厳密な文法=ラングを共有しているからコミュニケーションが成立しているのではなく、コミュニケーションを担保しているのは言葉の使い方の緩やかで可変的な「同型性」なのではないかということだ。
文法というのは個人が、言語の生得的な能力をもとにしながら、他の人と言葉をつかってコミュニケートしながら作り上げるものだ。そのときには誰も文法なんて教えてはくれないし、自分の中で個人が自分なりに作り上げるしかない。僕自身もよく、まわりの人の話し方に影響を受けるのを感じるし、個人の中ですら固まっていないものだと思う。
ただ、ソシュール先生も言ったように、言語構造はとりあえず恣意的なのだが、世間にある程度フィットする形でしか作れないので、世間で流通しているコードにある程度合わせていくことになる。(僕もシンガポールで「Fair dinkum」などとは言わないし、オーストラリア人の男友達に対して「Dude!」と呼びかけることもない)
だが、それが自分の周囲でのコードに完全にあっているかどうかはわからない。というより、「これがAussie!」「これがSinglish!」という厳密なコードがあること自体が幻想であろ。
個人によって文法が少しずつ違うというのはそういう意味である。
しかしあまりにもめちゃくちゃな言語構造だと、言葉が通じなくなるので、修整せざるを得ない。それで少なくとも上に述べた「同型性」に関してはだんだん収斂していくことになるだろう。
そんで、ラングというのは自分の頭の中にあるだけでは何の役にも立たないので、必ず発話することになる。そこでコミュニケーションできなければパロールは成り立たないから、パロールは社会的なものだと思う。
うまく説明できたかな。
自分の文章の下手さ加減にほとほと嫌になるぜぃ。
ちなみに、僕は「社会的Social」という言葉があまり好きではないということは断っておこう。
修士でのボスは大好きなのだが。
言語学者のソシュールは、「パロールは個人的なものでラングは社会的なものだ」と言っていて、これがおそらく一応言語学をかじったことがある人8割がたの通念だろう。なにも根拠はないが。
ソシュール先生には申し訳なく、わりと突拍子もなくてさらに申し訳ないのだが、
「ラング(文法)は個人的で、
パロール(発話)こそ社会的なものである」
という実感を得る瞬間が9月の旅行中に多々あった。
先月はシンガポールとオーストラリア(とネパール)という英語圏ないし準英語圏の国々をめぐったのだが、これらの国々では、きわめて異なるアクセントや特有の言い回しを携えた英語が話されている。
特にシンガポールではマレーやマンダリンの語彙をふんだんに借用した悪名高いSinglish、オーストラリアでは日本語で言う北関東弁のような田舎言葉(イメージです。。むしろIrishとかがそっちに相当するのか?Aussieは結構かわいいからね。広島弁?)Aussie Englishが話されている。
さらに、そこに飛び込んでいった僕が「話す」英語はどちらにも属しておらず、おそらく日本語的なラングを基本としてそれを補う形で構成された文法の上に、きわめてアメリカ的要素が強い語彙とアクセントを携えていると思われる。一応努力目標としているのはカナダ人の英語である。しかし周辺にいる何人かのネイティブによるとたまにシンガポール人のような訛りが出ているらしい。
例えば「コーヒー飲まない?」という単純な提案を行う場合、
シンガポール人なら「Join me for Kopi?」というであろうし、
オーストラリア人なら「Would you like a cuppa?」となるであろう。
ちなみに僕なら普通に「You wanna grab some coffee?」と言う気がする。
純正のアメリカ人なら「Hey let's hit a starbucks dude!」というところだろう。
(すごくわかりにくい例だし、十分じゃない)
とにかく、この劇的なSinglish~Aussie環境の転換を経て感じたのは、それでもコミュニケーションが成立するということは、一見ばらばらな個々人の発話は周囲の集団の中での社会的なプロセスを経て(きわめていい加減かつどうとでも解釈できる表現で申し訳ない)「英語のパロール」というレンジへと一種「翻訳」されているからではないかという可能性である。
つまり、世界中の英語話者全員が、ある普遍的で厳密な文法=ラングを共有しているからコミュニケーションが成立しているのではなく、コミュニケーションを担保しているのは言葉の使い方の緩やかで可変的な「同型性」なのではないかということだ。
文法というのは個人が、言語の生得的な能力をもとにしながら、他の人と言葉をつかってコミュニケートしながら作り上げるものだ。そのときには誰も文法なんて教えてはくれないし、自分の中で個人が自分なりに作り上げるしかない。僕自身もよく、まわりの人の話し方に影響を受けるのを感じるし、個人の中ですら固まっていないものだと思う。
ただ、ソシュール先生も言ったように、言語構造はとりあえず恣意的なのだが、世間にある程度フィットする形でしか作れないので、世間で流通しているコードにある程度合わせていくことになる。(僕もシンガポールで「Fair dinkum」などとは言わないし、オーストラリア人の男友達に対して「Dude!」と呼びかけることもない)
だが、それが自分の周囲でのコードに完全にあっているかどうかはわからない。というより、「これがAussie!」「これがSinglish!」という厳密なコードがあること自体が幻想であろ。
個人によって文法が少しずつ違うというのはそういう意味である。
しかしあまりにもめちゃくちゃな言語構造だと、言葉が通じなくなるので、修整せざるを得ない。それで少なくとも上に述べた「同型性」に関してはだんだん収斂していくことになるだろう。
そんで、ラングというのは自分の頭の中にあるだけでは何の役にも立たないので、必ず発話することになる。そこでコミュニケーションできなければパロールは成り立たないから、パロールは社会的なものだと思う。
うまく説明できたかな。
自分の文章の下手さ加減にほとほと嫌になるぜぃ。
ちなみに、僕は「社会的Social」という言葉があまり好きではないということは断っておこう。
修士でのボスは大好きなのだが。
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