2014年3月31日月曜日

心の穴理論の入口として(読書

『淑女のはらわた 二村ヒトシ恋愛対談集』(洋泉社 2014)

DLIでも何度かレビューした二村さんの新著。
今回は対談集ということで、7名の女性との恋愛とセックスに関する対話が収められている。

川村エミコや小明といった、いかにも恋愛に関してコンプレックスがある非モテ/こじらせ系列の人もいれば(失礼か?)、はあちゅうや荒牧佳代といったリア充/恋愛強者寄りの対談相手もバランスよく入っていて、幅広い話題に触れている。

男女関係や性生活に関するライトな読み物として十分面白いし、男向け・女向けのモテテクも随所にちりばめられているので一読の価値はあるだろう。
基本的には二村監督持ち前の「心の穴」理論を駆使して、対談相手の女性の過去や現在の経験を深堀りし、心の穴の形を理解していこうという構成だが、やはり対話モノなのでなかなかうまく行かず、少し煮え切らない部分もあるのは確かです。

心の穴理論はこの本では小出しになっていて体系的に説明されてはいないので、初見の人が十分内容を理解するためには『恋とセックスで幸せになる秘密』を読む必要がある。DLIによるレビューはこちら

二村監督の、性に対するリベラルな考え方には賛同できる人もできない人もいるだろう。私は個人的には彼独特のヤリチン理論はプラトン的で好きだが。
しかしフィロゾフィーは一貫して、自己肯定(ナルシシズムではない)が大切だということなのであり、幸福論として多くの点で参考になるでしょう。



2014年3月25日火曜日

米国における"social"の思想的背景(本の感想)

最近更新ペースが落ちてますがハァ~~~時経つのは早く、もはや年度末です。

シェアハウス引越し計画はなくなりましたが、メンバーを減らして再スタートです。新メンバーは常に募集中。。

大きな変化はなくても流されがちな日々だけに、やっぱり、新年度は生活を変えていきたいですね。
大掃除したい&軽くリノベしたい

が、その前に読書w




宇野重規『民主主義のつくりかた』(筑摩書房 2013)





著者より頂いた本(←自慢w
今年になってから本を頂くことが多いのですが・・・なかなか読めていない現実。汗

著者は東大の社会科学研究所の先生で、政治思想史がご専門。
同研究所における『希望学』プロジェクトはまさに時代が必要とする社会科学の挑戦だと思う。

本書はとても平易な言葉で書かれていてわかりやすいが、社会の問題を社会の成員が共同して解決するには?という民主主義の原点を問い返す読み応えのある内容だった。

現在、日本でもそうだが、民主主義政治はやたらとものごとを決めるのに時間がかかったり、コロコロ変わる民意に左右されたりと、デメリットが目に付き不信が唱えられるようになっている。
著者は民主主義が陥ったこの隘路の原因を、西欧近代政治思想が抱え込んだ「依存への恐怖」に見出す。

ホッブズにせよロックにせよモンテスキューにせよルソーにせよ、西欧近代の啓蒙思想家はおしなべて個人の平等と自由の実現に必要な国家による保護を訴えていた。
いっぽうで彼らの政治思想はすべて、合理的で自立(自律)した個人を前提としていた。
彼らの言い分によれば、世界の認識(ようは情報収集)や意思決定(思考)などを他者に依存すれば、カルテルやセクトが生まれ、悪を生み出す源になってしまうからだ。この後景にはもちろんヨーロッパが経験した無数の宗教対立がある。
こうして、人間が生きていくうえで欠かすことのできない、連帯や相互扶助の問題は、公共空間から「私」の領域へと追いやられた。

これはもちろんドイツ観念論以来の個人の主観に基づく世界認識を基本とする哲学に連なる発想である。
突き詰めていくと、「無知のベール」(公正な政治的判断を下すためには他者についての情報を知ってはならない)というような非現実的なルールを課すロールズ流のリベラリズムになってしまう。
しかしリベラリズムは20世紀において失敗した。リベラリズムに基づいて設計された大きな政府は官僚制度の肥大化や無数の小規模な利害集団の看過といった問題を引き起こし、70年代以降には衰退する。

また、個人の主観とロゴスへの信頼は、唯物史観に基づくマルクス主義というもうひとつの果実を生んだ。
あらゆる経済社会制度を科学的で合理的に設計できると考えたマルクス流の社会主義もまた、20世紀において失敗した西欧近代啓蒙思想の知的子孫である。

この意味で、19世紀にフランスの貴族出身の政治哲学者アレクシ・ド・トクヴィルが、米国で発見した独特なデモクラシーの発見は時代を先取りするものだった。
トクヴィルは、中央政府が持つ力が弱い米国における地方自治の形式の特徴を「アソシエーション」の形成に見出した。

トクヴィルは、上述したような西欧近代の政治哲学に基づく民主主義社会が危険なのは、個人主義と平等が徹底された結果、どうしても多数意見に従わざるを得ない民主的専制の可能性に常にさらされているからだと考えた。
この点、米国のタウンシップでは、利害集団がそれぞれ意図的にアソシエーションを作ることで個人が孤立するのを回避し、町のひとが自分自身で自分たちのことを決めていた。

このような民主主義の土壌は、20世紀になりプラグマティズムという米国哲学の潮流を生み出す。
プラグマティズムは実践主義などと訳されると誤解を生みやすいが、ウィリアム・ジェイムズ、チャールズ・サンダース・パース、ジョン・デューイなどが確立した、徹底して人間の「経験」に基づいて思考しようという知的態度である。
赤ん坊が言語や自意識の獲得に先立って世界を認識し秩序だてていくことにかんがみれば、経験は主観に先だち、人間の経験の総体こそが世界を構成しているということになる。
そしてこの「経験」は、他者や自分以外のものとのインタラクションにより成立する、本来的に社会的な様態を持つ。

こうした世界観を突き詰めると、人間の知は本質的にローカルで(=個人の経験は限定的なので、個人が知りうることには限界がある)、常に誤りうるということになる。
そのため、複数の人間と連帯(アソシエイト)し、エラーの可能性を減らしていくことが戦略的に重要になるのだ。

問題解決のためには、まずは個人では判断を誤りうる可能性を認め、利害を共にする他者と連帯すること。そして実践と経験により、方向修正をしながら少しずつ解決に向かっていくこと。
プラグマティズムの政治哲学は、民主主義に対するこうした希望的な含意を持つ。そしてこれは西欧哲学の伝統が陥った隘路から脱するひとつのチャンネルであろうと筆者は述べる。

最初から合意形成を作ることをがむしゃらに目指すのではなく、偶然に支配された社会のカオスの中から秩序が生成していくプロセスを明らかにすることが重視される。この「偶然から生成される秩序」は、「習慣」と呼ばれ、世の中を変えていく大きな力として、プラグマティズムでは価値が置かれる。


興味深いのが、こうした米国の知的土壌はウェブ登場以降のソーシャルビジネスの興隆の思想的背景となっていると指摘している点である。

今日では、共通の関心を持った個人が、SNSやブログを介して、地理的な隔たりを瞬間的に越えて小集団を作り、価値を創出していっている。
まさにアソシエーションの形成であろうし、これを可能にするプラットフォームであるGoogleやFacebook、Amazon等等・・を作ったのはアメリカ人だ。
というわけで、近年のバズワードの筆頭である「ソーシャル」の源流にはプラグマティズムの思想があるのかもしれない。

筆者はもちろん「ソーシャル」は日本でも形を変えて受容されており、震災後の復興への取り組みなどに現れていると述べる。

私が思ったのは、この「形を変えて」という部分がある意味危ういのではないかというところだ。

ひとつには、この「ソーシャル」が単に導入されただけで、日本で米国のような圧倒的イノベーションが起きるかどうか、という疑問だ。

90年代以降の日本では、公共政策全体の新自由主義化(中央・地方政府による行政を、企業経営的行政に転換することで、政府行政組織の効率化を計る方向性への転換)により、供給重視の経済政策・労働市場の柔軟化と不完全雇用・社会保障の縮小と市場化を目指す、シュムペーター型競争国家が、政府、企業、サードセクターの協力によって目指されるようになる。
すなわちそれまで「大きな政府」的政策からの逃走の回路であり「傍流」であったはずの「市場への参加と徹底した市場原理の活用による自己実現」が、いわば社会の「主流」になってしまい、カウンター言説としての機能を弱めた。

そこで、現代にあっては「市場取引関係」を用いて「市場がもたらす利益・価値」の実現を目指すのではなく、それとは別の「社会関係」を用いて新しい「社会的価値」の実現を求める実践こそが、マスの学歴社会や大企業型のハイアラーキーを相対化することに繋がると信じられている。

事実、今日、例えば社会的責任(CSR)経営、BOPビジネス、社会的起業などの実践と、それに関わる非営利市民団体の実践を合わせて、優れた「ソーシャル・イノベーション」、社会革新・変革だとする理解が強まっている。

したがって起業家たちが最終的に創出を目指すのはもはや自由競争市場における価値ではない。
彼らの多くはむしろ、市場とは区別された「社会関係」の中における価値を求めているといえる。


もうひとつは、日本におけるSNSの受容が、むしろトクヴィルが警告したような多数的専制に繋がっていくのではないかという懸念である。

鈴木謙介が『ウェブ社会のゆくえ』(NHKブックス 2013)で指摘しているように、一見日本語圏におけるウェブ上のコミュニケーションはいいね!やスタンプの送信などで言語機能を代替する方向に向かっており、言語に基づいた近代的合理性から次のステージへ移行しつつある。

いっぽうでこの移行が進んでいる結果、震災後の飛語・流言や首相官邸前デモ、最近では小保方事件にも現れていると思うが、、、タイムラインに流れてくるハイパーリンクだけをリンク先も見ずに共有する類の行為が簡単に繰り返される結果、世論が一部の意識高い系()の言動に導かれ、きわめて衆愚政治化しやすくなっているのではないか・・・という疑問が浮かぶ。

日本におけるソーシャルと米国におけるソーシャルの違いを把握し、この違いをどう制度設計に活用していくか、引き続き議論を深めていくことが必要だろう。



トクヴィルとかプラグマティズムの説明は入門編的には本当にわかりやすくて胸にすっと入ってきてさすがでした。

2014年3月13日木曜日

Extremely Loud & Incredibly Close (読書

「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」というタイトルの、9.11同時多発テロをテーマにした映画が2011年に出ているのでそちらを知っている人も多いだろうが、その原作である。ちなみに私は映画は見ていない。英語ペイパーバッカーの高木さんから借りた。高木さんにはPerks of Being a Wallflowerを貸した。

まずもって、ユダヤな感性のひねくれユーモアが好きな人には圧倒的におススメできる。ウディ・アレン的センスといいますか。
9歳にして既に重度の厨二病患者(あと、たぶんアスペ?)であり、語りの主体である主人公オスカーの、極めてロジカルだが少しズレた、世の中に対するまなざしが終始笑える。
読み物としての面白さには、冒頭から一気に引き込まれる。

物語は9.11で父親を亡くしたニューヨーク在住の少年オスカーが、父の遺品の中から見つけた鍵について知っている人物を探す冒険を中心に展開する。
彼はニューヨークの5 boroughsを股にかけ、行く先々で個性的な人々と出会っていく。
このプロセス自体が極めてグリム童話的であり、ネバーエンディングストーリ―的であり、指輪物語的でもあり、幼き日の読書体験を思い出させる大人向けファンタジーとも言えるだろう。



作中にはオスカーの祖父母(亡くなったオスカーの父親の両親)が息子にあてた書簡も差し挟まれ、ふたりが第二次世界大戦中、ドレスデンで経験した空爆の悲劇が描かれる。当然この回想は9.11と重ねられており、物語は重層的に進行する。

(9.11の同時多発テロは民間人への無差別な暴力として批判されたが、第2次大戦中の原爆も空襲も、ある意味テロリズムというか、非戦闘員の虐殺なんだよな。。。ていうメッセージには共感した。)

人生はあまりにも辛く、孤独で、悲しみに満ちている。
それでも生きる意味とは、、、

要約するとこういう重い問いが全体を覆っているけれども同時に、繰り返しになるが、これは皮肉が利いたエンターテイニングな作品でもある。
ただ、私は笑いながらもさまざまな感情を掻き立てられた。この感情のもつれ合いはとても複雑で、私の文章力を超え出ている。

オスカーはじめメインの登場人物は特殊な境遇におかれ、特殊な体験をする。また、オスカーが冒険の中で出会っていく人たちも変わっていて、なかなか私たち一般ピープルが日常生活で出会うような類の人ではない。

それでも読み手は、オスカーたちに共感し、深く情動を揺さぶられるだろう。
きわめて優れた文学作品だなーと思う。


映画にしてもそうだが、状況やストーリーが特殊でありつつも、共感を呼ぶ普遍性を備えていることが、優れた作品の条件なのではないか、と最近考えている。
(そうです。『そして父になる』のことなんです。)

映画版も見てみたいですワ。