ハロウィンが終わったと思ったら感謝祭も終わり、いよいよ今年も待降節ですねー。
僕たちの青春ゼロ年代もあと1ヶ月というわけです。
東京での住まいも決まり、来年1月末、卒論の口頭諮問が終わったら京都から引っ越すことを決めました。
残された時間の少なさにときどき発狂したくなる衝動に駆られますが、祈り、アルコールを摂取することで心を落ち着けています。
皆さん楽しみましょうね。
そういえば、
もう数日前のことですし、知ってる人は知っていると思うのですが、ナイナイの岡村・・・じゃなくてアレン・アイバーソンが、NBAからの引退を表明したらしいです。
僕が本格的にNBAを追跡しだした2000年のプレイオフファイナルでプレーしていたのがアイバーソン率いるフィラデルフィア76ersでした。コービー&シャックを要する無敵のLA王国に対して満身創痍で挑み、数々の名勝負を演出する姿はバスケ少年だった僕の胸を熱くしました。
登録選手の平均身長が6-8(203cmくらい?)を超えるといわれるNBAにおいて、わずか183cmと小兵ながら、果敢にインサイドにドライブして得点を稼ぎだすスタイルで、日本では特に人気がありましたね。
しかしオフコートでは、銃や麻薬の不法所持とかDVで捕まったり、挑発的発言を連発してリーグから罰金を喰らったりと、キャラがギャングスタラッパーそのものでしたし、玉離れが悪いプレイスタイルだったりで個人的には実はあまり好きな選手ではなかったのですが、でも間違いなく2000年代を代表するスーパースターだと思うし、コービーやガーネットと並ぶ、我々の世代のバスケットアイコンだと思う。
そんな彼が引退してしまうなんて、一時代の終わりを感じるじゃありませんか。
彼のスーパープレイ集はたくさん出回っていますが、僕は彼の動画の中でこのCMが一番良いと思います。リーボックのスニーカーとか全然好きじゃないけど、このCMのかっこよさはガチや!やっぱフツーにドリブルついてるだけでサマになるのがほんまに巧い人だと思うわ。
ありがとーおかむらさ・・じゃなくてアイバーソン!
2009年11月29日日曜日
2009年11月27日金曜日
on tourism②
昨日は立命にアルバイト行ったら事業仕分けでCOE系の予算もわりと削られるのが決まったらしくて先生たちはけっこう「ざわ・・・ざわ・・・」ってました。
バイト自体はひさびさにまったりと作業して、とちゅう京大の院生の人が地震計を取りにきて、それを運ぶのを手伝ったりしました(クソ重かったです)。
で、たまたま午後に印刷屋が持ってきたポスターを発見しまして、なんか水曜日のエントリで書いたこととタイムリーでかぶった内容の催しが今度上野の国立博物館であるみたいです。
文化遺産国際協力コンソーシアム シンポジウム
「観光は文化遺産を救えるか:国際協力の新たな展開」
●日 程:2009年12月13日 (日)
●時 間:14:00~17:00(開場13:00)
●場 所:東京国立博物館平成館 大講堂
●参加費:無料
≪プログラム≫
14:00-14:10 挨拶:文化庁/外務省
14:10-14:15 挨拶:石澤 良昭 (文化遺産国際協力コンソーシアム副会長・上智大学学長)
14:15-14:25 文化遺産国際協力コンソーシアムの紹介:清水 真一 (東京文化財研究所 文化遺産国際協力センター長)
<基調講演>
14:25-14:55 世界遺産保護と観光マネージメント:未来の挑戦
フェン・ジン (ユネスコ 世界遺産センター プログラムスペシャリスト)
14:55-15:15 ツーリズムの視点から見た文化遺産国際協力の展望と課題
西山 徳明 (九州大学大学院 教授)
15:15-15:35 文化遺産と社会開発:ペルー北高地神殿遺跡のケース
関 雄二 (国立民族学博物館研究戦略センター 教授)
15:35-15:50 休憩
15:50-16:10 私が見た観光と文化遺産
浜島 直子 (モデル)
16:10-16:40 文化遺産と観光開発への支援―JICAの事例から
国際協力機構
16:40-16:55 総合討議
司会:西山 徳明 (九州大学大学院 教授)
16:55-17:00 閉会挨拶
おもしろそう。駆り出されることに期待。
とにかく、この数日で、観光事業論についてもちょっと勉強してみたいという気が起きてきました。
ばんばん宣伝してがんがん訪問者数稼いだらそりゃもうかるけど、文化財の保存は難しくなるし安売りってことになりかねない。
あと、それらは単純にトレードオフの関係にあるわけでもないと思うし、両立できる道もあるのかなとは思う。
そのへんは京都の寺社とかはさすがっていう面もあって、季節限定の特別拝観とかが好例。寺社同士が連携して同じ時期にやったりして、プロモーションも巧みだし、素晴らしい。
やっぱ日本の文化財はマネジメントの面では比較的ちゃんとしてるからこういうこともできるけど、難しい状況の国もあるだろう。
インドに行った時は寺院のほったらかしぶりに愕然としたし、観光資源を財源にしていかなければならない途上国ほど、管理されてないところが多いのだとは思う。難しいよな。
まあこんなこと考えたり本読んだりしてる場合では明らかにない!のですが。
院試が終わってからというもの、僕は勉強から完全に遠ざかり、パーになってしまいました。
音楽の歴史の本ばっか読んで、たまにドゥボール読んで・・・みたいな読書生活だったからな!
冒頭で触れた民主党の事業仕分けで科学技術関連の予算がごっそり無くなった話にしても、かなりSTSに関わりの深い話題なのですが、まったく何の感想も抱けませんな。
あーやだやだ。
修士でなにやるんだったっけ?
とりあえず言えることは、STSコミュニティから10人政策秘書を送り込んだら日本の科学技術政策はめっちゃ良くなるし科学技術創造立国も夢じゃないだろうということです。
これはまじで。
しかしこのパーな状態で、卒論を書かなきゃーなのです。ぎゃー
親しい何名かはすでに知っていると思うのですが、僕の卒論は完全に容量オーバーでして、2週間くらい前からがんばってダイエットさせて、70kまで減らしたんすけど、そこからスタックして1文字も減らなくなったんで、いっそ最初から書き直すことにしますたorz
そりゃ70k→20kより0→20kのほうが楽でしょう。
これは良い決断だと信じてます。
しかし別の懸念事項はゲームを始めてしまったことです。
今更GTA4。
ほんまハマるわ。開始後一週間で達成度46.9%らしい。うーんまだまだだ!
ストーリーは「スカーフェイス」みたいな感じ。ちょっと違うけど。主人公の東欧なまりの英語もかわゆいw
GTAシリーズはGrand Theft Auto 3、Grand Theft Auto Vice City、Grand Theft Auto San Andreasと、歴代やってきてるんですが、この4はさすがにPS3だけあってグラが半端ないし、街の描き込まれ方も前作の比じゃないです。
サンアンドレアスはマップ広すぎやりこみ要素多すぎだった感もあったけど、今回はわりとシステムもシンプルですこぶる良い!
とにかく卒論は核。
全然"on tourism"な話じゃなくなっちゃいましたね。
今日はいつもより駄文でした。
Lutherの声ヤバいノ(´д`)
バイト自体はひさびさにまったりと作業して、とちゅう京大の院生の人が地震計を取りにきて、それを運ぶのを手伝ったりしました(クソ重かったです)。
で、たまたま午後に印刷屋が持ってきたポスターを発見しまして、なんか水曜日のエントリで書いたこととタイムリーでかぶった内容の催しが今度上野の国立博物館であるみたいです。
文化遺産国際協力コンソーシアム シンポジウム
「観光は文化遺産を救えるか:国際協力の新たな展開」
●日 程:2009年12月13日 (日)
●時 間:14:00~17:00(開場13:00)
●場 所:東京国立博物館平成館 大講堂
●参加費:無料
≪プログラム≫
14:00-14:10 挨拶:文化庁/外務省
14:10-14:15 挨拶:石澤 良昭 (文化遺産国際協力コンソーシアム副会長・上智大学学長)
14:15-14:25 文化遺産国際協力コンソーシアムの紹介:清水 真一 (東京文化財研究所 文化遺産国際協力センター長)
<基調講演>
14:25-14:55 世界遺産保護と観光マネージメント:未来の挑戦
フェン・ジン (ユネスコ 世界遺産センター プログラムスペシャリスト)
14:55-15:15 ツーリズムの視点から見た文化遺産国際協力の展望と課題
西山 徳明 (九州大学大学院 教授)
15:15-15:35 文化遺産と社会開発:ペルー北高地神殿遺跡のケース
関 雄二 (国立民族学博物館研究戦略センター 教授)
15:35-15:50 休憩
15:50-16:10 私が見た観光と文化遺産
浜島 直子 (モデル)
16:10-16:40 文化遺産と観光開発への支援―JICAの事例から
国際協力機構
16:40-16:55 総合討議
司会:西山 徳明 (九州大学大学院 教授)
16:55-17:00 閉会挨拶
おもしろそう。駆り出されることに期待。
とにかく、この数日で、観光事業論についてもちょっと勉強してみたいという気が起きてきました。
ばんばん宣伝してがんがん訪問者数稼いだらそりゃもうかるけど、文化財の保存は難しくなるし安売りってことになりかねない。
あと、それらは単純にトレードオフの関係にあるわけでもないと思うし、両立できる道もあるのかなとは思う。
そのへんは京都の寺社とかはさすがっていう面もあって、季節限定の特別拝観とかが好例。寺社同士が連携して同じ時期にやったりして、プロモーションも巧みだし、素晴らしい。
やっぱ日本の文化財はマネジメントの面では比較的ちゃんとしてるからこういうこともできるけど、難しい状況の国もあるだろう。
インドに行った時は寺院のほったらかしぶりに愕然としたし、観光資源を財源にしていかなければならない途上国ほど、管理されてないところが多いのだとは思う。難しいよな。
まあこんなこと考えたり本読んだりしてる場合では明らかにない!のですが。
院試が終わってからというもの、僕は勉強から完全に遠ざかり、パーになってしまいました。
音楽の歴史の本ばっか読んで、たまにドゥボール読んで・・・みたいな読書生活だったからな!
冒頭で触れた民主党の事業仕分けで科学技術関連の予算がごっそり無くなった話にしても、かなりSTSに関わりの深い話題なのですが、まったく何の感想も抱けませんな。
あーやだやだ。
修士でなにやるんだったっけ?
とりあえず言えることは、STSコミュニティから10人政策秘書を送り込んだら日本の科学技術政策はめっちゃ良くなるし科学技術創造立国も夢じゃないだろうということです。
これはまじで。
しかしこのパーな状態で、卒論を書かなきゃーなのです。ぎゃー
親しい何名かはすでに知っていると思うのですが、僕の卒論は完全に容量オーバーでして、2週間くらい前からがんばってダイエットさせて、70kまで減らしたんすけど、そこからスタックして1文字も減らなくなったんで、いっそ最初から書き直すことにしますたorz
そりゃ70k→20kより0→20kのほうが楽でしょう。
これは良い決断だと信じてます。
しかし別の懸念事項はゲームを始めてしまったことです。
今更GTA4。
ほんまハマるわ。開始後一週間で達成度46.9%らしい。うーんまだまだだ!
ストーリーは「スカーフェイス」みたいな感じ。ちょっと違うけど。主人公の東欧なまりの英語もかわゆいw
GTAシリーズはGrand Theft Auto 3、Grand Theft Auto Vice City、Grand Theft Auto San Andreasと、歴代やってきてるんですが、この4はさすがにPS3だけあってグラが半端ないし、街の描き込まれ方も前作の比じゃないです。
サンアンドレアスはマップ広すぎやりこみ要素多すぎだった感もあったけど、今回はわりとシステムもシンプルですこぶる良い!
とにかく卒論は核。
全然"on tourism"な話じゃなくなっちゃいましたね。
今日はいつもより駄文でした。
Lutherの声ヤバいノ(´д`)
2009年11月25日水曜日
on tourism
・・・
なんかカウンターが止まった。絶対アクセス伸びてるけど。
まっ、いっか。3182ってなんか呪いの数字なんかもしれん。
えっ、Lostの見すぎだって?なんか普段と文体違うって?
・・・
今日は京都駅の臨時観光案内所でアルバイトでした。
紅葉シーズンのこの時期限定で京都市や京都コンベンションビューローがやっているサービスで、僕が一回生だったときにスタートしたものです。
僕が所属するサークル、グッドサマリタンクラブからは外国人対応要員として毎年人員が派遣されており、僕も去年はやらなかったんですが、1、2回生のときはやらしてもらってました。今日は突然都合が悪くなってシフトに入れなくなった友達の代わりに入りました。
今日だけで外国人日本人合わせて1000人以上が臨時観光案内所を利用し、京都の観光ビジネスの市場の大きさを実感しました。
毎年このバイトやると京都の交通機関に精通してしまうわ。
もう今年はいろいろきかれてもパッパと答えられるし、「わしも京都に詳しくなったよのぉー」と思いました。
日本の人口が1人減っても、外国からの観光客が7人増えれば同じだけの経済効果を得られるという試算があるという話をある人物から聞いたことがあります。
これからhyper depopulationの時代に入る脱産業日本にとって、ツーリズムはとても重要な意味を持ってくるし、様々な形で外国人が訪れやすい環境を作っていく必要があると思う。
しかしどうして外国人は日本ないし京都を訪れるのだろう?何を求めて彼らは来るのだろう?といつも思います。
彼らが見たい日本とはなんなのでしょうか。
その形はさまざまであり、必ずしも実際の日本(京都)の現状とは一致しないと思います。
単純なエキゾチズムの需要に迎合してはならないと思うし(これは実際ネパールなどの途上国の観光業界では起こりつつある深刻な現象です)、ビジネス的な側面と文化財(tangible & intangible)保存を両立しなければならないと思います。
観光業は、常にあるひとつの問いを潜在させていると思う。それは「本当の○○とは何か?」という問いです。
僕はグッドサマリタンクラブに所属し4年近く京都で通訳ガイド活動を行い、その技術を発達させ自らに浸透させていく中で、自分のガイドによる媒介のオーセンティシティ(真正性)への問いかけを、いっそう拡大させ、それまで自明であった「オーセンティック」の前提をどこまでも掘り崩してきました。それはこれからも同じだとおもいます。
かつて、「本物」は単一でした。しかし、観光業の発達により、あたかも本物の京都の断片的な鏡像として、複数のオーセンティシティが生み出されてしまっているように感じます。
旅行会社、ツアコン、地方自治体、宗教法人などから構成される京都の観光ビジネス市場は、現実の単一性をフィクションに替え、ツーリストはすでにオーセンティシティの多層的なレイヤーで構成された世界を旅しているかのようです。
何を言っているかわからないと思いますが笑
例えば、友達と喋っているとき、話す内容の真偽は問われうるとしても(はいはい、僕のことですね)、友達の存在とか、キャラまでは疑いようがないですね。
しかし、極東の異国、日本を訪れ、その文化に触れる外国人旅行者にとって、対象たる「日本」の「真正性」はきわめて不確かだとはいえないでしょうか。これは僕が海外旅行に行ったときに得る感覚でもあります。とはいえ、訪れる国が自分の中で不確かだからこそ、その単一の真正性を保証するものが何もないからこそ、スリリングだとも言えるでしょう。私見ですが、「異国情緒」「旅情」といったものの正体は端的に言ってこの不確定性なのではないかと考えています。
さてこの不確かさを踏まえて、観光を考えてみます。
まず、多くの外国人観光客がツアーやガイドを利用するのはなぜか。ここではおそらく、旅行会社のツアーガイドによって提供される情報が「日本」の真正性を代替しているのでしょう。言ってみれば、「ツーリスト-ガイド」という人間関係における文脈的リアリティとでも呼ばれるべきものですね。
そして、半ばは論理的な必然として、日本はそれを媒介する「観光」の形式に従って変化する、という確信がもたらされます。
穏当に言い換えるなら、観光はオーセンティシティの文脈を部分的に決定する、ということになります。同じ情報であっても、それがガイドブックにかいてあることなのか、ガイドの言葉で語られたことなのかによって、まったく異なった意味に受け取られうるという事実。
観光業とはつまり「コンテクストを与えるもの」にほかならないわけです。
観光ビジネスは、「意味」を伝達するためのインターフェイスを提供することによって対価を得ています。したがってサービスにおいては、内容と媒介手段とがきわめて緊密に結びつくことになります。したがって観光業の限界について検証することは、すなわち観光ビジネス市場が消えてもオーセンティックな日本を伝えうるかという問いを批判的に検討することにつながります。
(観光論については多くの研究書があり、不勉強な僕が語るのもはばかられるのですが、)
観光業論には大きく分けてふたつの形式があると考えられます。ひとつは、歴史都市京都についての情報が伝達され蓄積され共有されることの効果を中心とするものです。これはかなり現実的な議論であって、その重要性については疑問の余地はないですね。問題は、観光業の発展そのものが外国人観光客に及ぼす影響について、それのみに限定した議論を試みることです。
観光業の発展が持つインパクトは、それが剥き出しの日本を伝達可能な形に変換するだと考えるなら明らかでしょう。
卑近な例をあげると、ガイド技術でもっとも重要なものに「通訳」があります。一般的には寺社のあちこちにある掲示を英語にして読み上げたり、ランチしに入った飲食店でメニューを英語で説明したりすることを指すのですが、最も広義には、「ある言語を別の言語に変換する」こと全般を意味しますね笑
この意味では、なぜ禅寺の廊下は鴬張りなのかを説明したり、舞妓体験をしている人を指差して「あれは本物ではない」と言ったりすることも通訳に含まれます。つまり、ツーリストが見るもの聴くもの感じるものの意味を理解可能な形にする、言い換えるなら、人間の視覚聴覚触覚嗅覚味覚に適合させるための技術なのであります。ガイドの意義はここに束ねられていますし、ツーリズム全般に拡張してみても結局は同じです。
僕の考えでは、観光業は、循環する貨幣の欲望に縛られたリビドー経済の中で、究極的には、どれだけオーセンティックなイメージを独自に生成しうるかという課題を担わされています。そしてその「オーセンティック」が、外国人が求めるものの最大公約数に近ければ近いほど良い。
もし観光ビジネスが隆盛を極めて、ツアコンや旅行会社が独自に、どんなに詳細なガイドブックよりも有益な情報を伝達しうることに成功したらどうなるでしょーか。
業者がオーセンティシティを伝達するのではなく、業者がオーセンティシティを生成すると言う事態は何を意味するのでしょうか。
もしそれが可能であるなら、「観光」の意義全体が、大きな転回を強いられることになります。少なくとも観光にまつわる議論は、その存在論的な地位の正当性を獲得するでしょう。しかし、さしあたりそれは不可能ですわ。さらに言えば、今後ともずっと不可能でしょう。
伝えるべき内容、「日本」を尊重しないわけではないですが、広く展開された観光業に多くのツーリストが依存せざるをえないということは、そこに過剰な「オーセンティシティ」が宿っているということでしょう。
既に述べたように、独自の真正性の生成ができないことは自明です。どんな「オーセンティック」も、観光のうえでは、訪問地たる「日本」とは切り離しえないわけです。
ここのところをしっかり意識しないと、ただただYokoso!Japanとか叫んでいるだけでは、良くないことになるでしょう。
どういう風に良くないかは、ちょっと、わからないですが・・・
生物多様性保存とかと一緒で、伝統文化保存とか文化財保存て、その意義を説明しろと言われたら弱いんよな。
その辺の話を、日舞とか茶道とかやってる人と語りたいなーー笑
みたいなことを、京都検定1級取得者のおじさんたちとずっと話してました。
さぼってはないです。
なんかカウンターが止まった。絶対アクセス伸びてるけど。
まっ、いっか。3182ってなんか呪いの数字なんかもしれん。
えっ、Lostの見すぎだって?なんか普段と文体違うって?
・・・
今日は京都駅の臨時観光案内所でアルバイトでした。
紅葉シーズンのこの時期限定で京都市や京都コンベンションビューローがやっているサービスで、僕が一回生だったときにスタートしたものです。
僕が所属するサークル、グッドサマリタンクラブからは外国人対応要員として毎年人員が派遣されており、僕も去年はやらなかったんですが、1、2回生のときはやらしてもらってました。今日は突然都合が悪くなってシフトに入れなくなった友達の代わりに入りました。
今日だけで外国人日本人合わせて1000人以上が臨時観光案内所を利用し、京都の観光ビジネスの市場の大きさを実感しました。
毎年このバイトやると京都の交通機関に精通してしまうわ。
もう今年はいろいろきかれてもパッパと答えられるし、「わしも京都に詳しくなったよのぉー」と思いました。
日本の人口が1人減っても、外国からの観光客が7人増えれば同じだけの経済効果を得られるという試算があるという話をある人物から聞いたことがあります。
これからhyper depopulationの時代に入る脱産業日本にとって、ツーリズムはとても重要な意味を持ってくるし、様々な形で外国人が訪れやすい環境を作っていく必要があると思う。
しかしどうして外国人は日本ないし京都を訪れるのだろう?何を求めて彼らは来るのだろう?といつも思います。
彼らが見たい日本とはなんなのでしょうか。
その形はさまざまであり、必ずしも実際の日本(京都)の現状とは一致しないと思います。
単純なエキゾチズムの需要に迎合してはならないと思うし(これは実際ネパールなどの途上国の観光業界では起こりつつある深刻な現象です)、ビジネス的な側面と文化財(tangible & intangible)保存を両立しなければならないと思います。
観光業は、常にあるひとつの問いを潜在させていると思う。それは「本当の○○とは何か?」という問いです。
僕はグッドサマリタンクラブに所属し4年近く京都で通訳ガイド活動を行い、その技術を発達させ自らに浸透させていく中で、自分のガイドによる媒介のオーセンティシティ(真正性)への問いかけを、いっそう拡大させ、それまで自明であった「オーセンティック」の前提をどこまでも掘り崩してきました。それはこれからも同じだとおもいます。
かつて、「本物」は単一でした。しかし、観光業の発達により、あたかも本物の京都の断片的な鏡像として、複数のオーセンティシティが生み出されてしまっているように感じます。
旅行会社、ツアコン、地方自治体、宗教法人などから構成される京都の観光ビジネス市場は、現実の単一性をフィクションに替え、ツーリストはすでにオーセンティシティの多層的なレイヤーで構成された世界を旅しているかのようです。
何を言っているかわからないと思いますが笑
例えば、友達と喋っているとき、話す内容の真偽は問われうるとしても(はいはい、僕のことですね)、友達の存在とか、キャラまでは疑いようがないですね。
しかし、極東の異国、日本を訪れ、その文化に触れる外国人旅行者にとって、対象たる「日本」の「真正性」はきわめて不確かだとはいえないでしょうか。これは僕が海外旅行に行ったときに得る感覚でもあります。とはいえ、訪れる国が自分の中で不確かだからこそ、その単一の真正性を保証するものが何もないからこそ、スリリングだとも言えるでしょう。私見ですが、「異国情緒」「旅情」といったものの正体は端的に言ってこの不確定性なのではないかと考えています。
さてこの不確かさを踏まえて、観光を考えてみます。
まず、多くの外国人観光客がツアーやガイドを利用するのはなぜか。ここではおそらく、旅行会社のツアーガイドによって提供される情報が「日本」の真正性を代替しているのでしょう。言ってみれば、「ツーリスト-ガイド」という人間関係における文脈的リアリティとでも呼ばれるべきものですね。
そして、半ばは論理的な必然として、日本はそれを媒介する「観光」の形式に従って変化する、という確信がもたらされます。
穏当に言い換えるなら、観光はオーセンティシティの文脈を部分的に決定する、ということになります。同じ情報であっても、それがガイドブックにかいてあることなのか、ガイドの言葉で語られたことなのかによって、まったく異なった意味に受け取られうるという事実。
観光業とはつまり「コンテクストを与えるもの」にほかならないわけです。
観光ビジネスは、「意味」を伝達するためのインターフェイスを提供することによって対価を得ています。したがってサービスにおいては、内容と媒介手段とがきわめて緊密に結びつくことになります。したがって観光業の限界について検証することは、すなわち観光ビジネス市場が消えてもオーセンティックな日本を伝えうるかという問いを批判的に検討することにつながります。
(観光論については多くの研究書があり、不勉強な僕が語るのもはばかられるのですが、)
観光業論には大きく分けてふたつの形式があると考えられます。ひとつは、歴史都市京都についての情報が伝達され蓄積され共有されることの効果を中心とするものです。これはかなり現実的な議論であって、その重要性については疑問の余地はないですね。問題は、観光業の発展そのものが外国人観光客に及ぼす影響について、それのみに限定した議論を試みることです。
観光業の発展が持つインパクトは、それが剥き出しの日本を伝達可能な形に変換するだと考えるなら明らかでしょう。
卑近な例をあげると、ガイド技術でもっとも重要なものに「通訳」があります。一般的には寺社のあちこちにある掲示を英語にして読み上げたり、ランチしに入った飲食店でメニューを英語で説明したりすることを指すのですが、最も広義には、「ある言語を別の言語に変換する」こと全般を意味しますね笑
この意味では、なぜ禅寺の廊下は鴬張りなのかを説明したり、舞妓体験をしている人を指差して「あれは本物ではない」と言ったりすることも通訳に含まれます。つまり、ツーリストが見るもの聴くもの感じるものの意味を理解可能な形にする、言い換えるなら、人間の視覚聴覚触覚嗅覚味覚に適合させるための技術なのであります。ガイドの意義はここに束ねられていますし、ツーリズム全般に拡張してみても結局は同じです。
僕の考えでは、観光業は、循環する貨幣の欲望に縛られたリビドー経済の中で、究極的には、どれだけオーセンティックなイメージを独自に生成しうるかという課題を担わされています。そしてその「オーセンティック」が、外国人が求めるものの最大公約数に近ければ近いほど良い。
もし観光ビジネスが隆盛を極めて、ツアコンや旅行会社が独自に、どんなに詳細なガイドブックよりも有益な情報を伝達しうることに成功したらどうなるでしょーか。
業者がオーセンティシティを伝達するのではなく、業者がオーセンティシティを生成すると言う事態は何を意味するのでしょうか。
もしそれが可能であるなら、「観光」の意義全体が、大きな転回を強いられることになります。少なくとも観光にまつわる議論は、その存在論的な地位の正当性を獲得するでしょう。しかし、さしあたりそれは不可能ですわ。さらに言えば、今後ともずっと不可能でしょう。
伝えるべき内容、「日本」を尊重しないわけではないですが、広く展開された観光業に多くのツーリストが依存せざるをえないということは、そこに過剰な「オーセンティシティ」が宿っているということでしょう。
既に述べたように、独自の真正性の生成ができないことは自明です。どんな「オーセンティック」も、観光のうえでは、訪問地たる「日本」とは切り離しえないわけです。
ここのところをしっかり意識しないと、ただただYokoso!Japanとか叫んでいるだけでは、良くないことになるでしょう。
どういう風に良くないかは、ちょっと、わからないですが・・・
生物多様性保存とかと一緒で、伝統文化保存とか文化財保存て、その意義を説明しろと言われたら弱いんよな。
その辺の話を、日舞とか茶道とかやってる人と語りたいなーー笑
みたいなことを、京都検定1級取得者のおじさんたちとずっと話してました。
さぼってはないです。
2009年11月24日火曜日
play da bass 4 u.
人生最後のNFが終わった。
いろいろあったけど、ひとことで言って、サイコーに濃厚で楽しい11月祭でした。
残念だったのは、ピン芸のとき時間が足りなくて予定していた曲を演奏できなくなったことと、Fam FairのMCでSuemitsuの名前を二回も間違えたことです(Suemitsuごめん!)。
軽音茶屋のステージって、なんかお気楽な面もありつつも他のライブと違う特別な感じがします。
ひとえに西部講堂という場のせいなのかもしれないですが。
もう来年は無いのかと思うと感慨もひとしおでした。
とりあえず、一緒に演奏して、音楽への愛と才能をシェアしてくれたみなさんに感謝してます。
もちろん自分以外のバンドもすごくカッコいいのがいっぱいあったし、懐かしい面々が集結した飲み会も楽しかった。
あと、裏方でいろいろやってくれた後輩たちや幹部のみんなとかありがとうでしたまじで。
今年は軽音茶屋×3とパモジャステージ×1で合計4コしかコンボなかったんですが、それだけに自分が本当に好きな人とばかり出来て、密度の濃い幸せな時間を過ごせました。
前にも書いたけど、才能ある人々と一緒にいろいろチャレンジしていく過程って素晴らしいと思います。
なんかジャズ系/軽音で良い仲間に出会えて本当に良かったと思う。
そんで、それが音楽をハブにした出会いだったというのが特に良かった。
僕は大学に入るまではひとりで楽器をやっていた人だったので、まったく人と合わせる楽しさとかを知らなかったのですが、ジャズ系に入って、最初にkimataさんとかに誘ってもらったバンドとか、あるいは一回生セッションとかで「せーの」でみんなで一緒に音を出した瞬間は今でも忘れられない感動を与えてくれました。本当に、当時の僕はニヤけちゃっておりました。
で、今改めてその初期の喜びを思い出したというか、10月にP.Waveの練習をしていたときくらいから、だんだん「みんなで音をだしている」という状況だけで楽しいと感じるようになってきてですね、いよいよ音楽が面白いと思ってきておりまして。
だからちょっとループステーションは卒業しようかな・・・とも思ってます。
違う楽器と音をぶつけ合うことでしか生みだせない、ハーモニーとかグルーブというものを一緒にずっと作ってきた人間同士というのはなかなか普通の人間関係とは異なる距離の近さを持っていると思うし、こう感じるのは僕だけかもしれないけれども、音楽を通じて知り合った先輩後輩同回の皆さんには独特のintimacyを抱いてしまいます。
(フルバンやったらカポーがごぼ②できるというのもある意味では当然なのかも)
Jazz系には、というか軽音には、プレイヤーとしても人間としてもカッコ良い人がたくさんいるし、そういう人たちと音楽ができて本当に恵まれていると思う。楽器やっててよかったわー
本当に後少ししかみんなでJAMできる時間はないけれども、まだまだ僕もカッコ良くなって、みんなの付き合いに報いれたら、、と思います。
最後に一応記録&クレジットとしてバンドメンバーとセトリ残しときます(今までのNFのセトリも残しとけば良かったなー・・・)。
みんなありがとうございましたーー!!
——Hashimoto Hashimotoーー
(Seitaro Hashimoto, Shota Ito, Chihiro Kawano, Hirokazu Koi, Kyoko Kuno, Ayako Maruyama, Louis Matsuba, ISSEI Suemitsu, Shunsuke Takagaki)
1. Sir Duke (Stevie Wonder)
2. I Got You (James Brown)
3. ABC (The Jackson 5)
4. Land of 1000 Dances (Wilson Picket)
5. Hold On, I'm Coming (Sam & Dave)
6. Stubborn Kind of Fellow (Marvin Gaye)
ーーCo:Illmaticーー
(Hirokazu Koi)
1. Klaviersonate Nr. 8 c-Moll "Grande Sonate pathétique" (Ludwig Van Beethoven)
2. BMJ (Kenji Hino)
3. We Belong Together (Mariah Carey)
4. Blast! (Marcus Miller)
*5. It Doesn't Mean Anything (Alicia Keys)
ーーU-Pentagonーー
(Kei Akita, Hirokazu Koi, Yu Naiki)
1. Whippersnapper (Wayne Krantz)
2. It Is Written (John Scofield)
3. Upper Manhattan Medical Group (Billy Strayhorn/Duke Ellington)
4. Shirts Off (Wayne Krantz)
ーーKOI & FAMILY FAIRーー
(Hirokazu Koi, TetsuWo Miyazawa, ISSEI Suemitsu, Natsuki Takeda)
1. L.V. (Re-trick)
2. The Best Is Yet To Come (urb)
3. In All My Wildest Dreams (Joe Sample)
4. 3 Deuces (Marcus Miller)
(*印の曲は実際には演奏されず)
いろいろあったけど、ひとことで言って、サイコーに濃厚で楽しい11月祭でした。
残念だったのは、ピン芸のとき時間が足りなくて予定していた曲を演奏できなくなったことと、Fam FairのMCでSuemitsuの名前を二回も間違えたことです(Suemitsuごめん!)。
軽音茶屋のステージって、なんかお気楽な面もありつつも他のライブと違う特別な感じがします。
ひとえに西部講堂という場のせいなのかもしれないですが。
もう来年は無いのかと思うと感慨もひとしおでした。
とりあえず、一緒に演奏して、音楽への愛と才能をシェアしてくれたみなさんに感謝してます。
もちろん自分以外のバンドもすごくカッコいいのがいっぱいあったし、懐かしい面々が集結した飲み会も楽しかった。
あと、裏方でいろいろやってくれた後輩たちや幹部のみんなとかありがとうでしたまじで。
今年は軽音茶屋×3とパモジャステージ×1で合計4コしかコンボなかったんですが、それだけに自分が本当に好きな人とばかり出来て、密度の濃い幸せな時間を過ごせました。
前にも書いたけど、才能ある人々と一緒にいろいろチャレンジしていく過程って素晴らしいと思います。
なんかジャズ系/軽音で良い仲間に出会えて本当に良かったと思う。
そんで、それが音楽をハブにした出会いだったというのが特に良かった。
僕は大学に入るまではひとりで楽器をやっていた人だったので、まったく人と合わせる楽しさとかを知らなかったのですが、ジャズ系に入って、最初にkimataさんとかに誘ってもらったバンドとか、あるいは一回生セッションとかで「せーの」でみんなで一緒に音を出した瞬間は今でも忘れられない感動を与えてくれました。本当に、当時の僕はニヤけちゃっておりました。
で、今改めてその初期の喜びを思い出したというか、10月にP.Waveの練習をしていたときくらいから、だんだん「みんなで音をだしている」という状況だけで楽しいと感じるようになってきてですね、いよいよ音楽が面白いと思ってきておりまして。
だからちょっとループステーションは卒業しようかな・・・とも思ってます。
違う楽器と音をぶつけ合うことでしか生みだせない、ハーモニーとかグルーブというものを一緒にずっと作ってきた人間同士というのはなかなか普通の人間関係とは異なる距離の近さを持っていると思うし、こう感じるのは僕だけかもしれないけれども、音楽を通じて知り合った先輩後輩同回の皆さんには独特のintimacyを抱いてしまいます。
(フルバンやったらカポーがごぼ②できるというのもある意味では当然なのかも)
Jazz系には、というか軽音には、プレイヤーとしても人間としてもカッコ良い人がたくさんいるし、そういう人たちと音楽ができて本当に恵まれていると思う。楽器やっててよかったわー
本当に後少ししかみんなでJAMできる時間はないけれども、まだまだ僕もカッコ良くなって、みんなの付き合いに報いれたら、、と思います。
最後に一応記録&クレジットとしてバンドメンバーとセトリ残しときます(今までのNFのセトリも残しとけば良かったなー・・・)。
みんなありがとうございましたーー!!
——Hashimoto Hashimotoーー
(Seitaro Hashimoto, Shota Ito, Chihiro Kawano, Hirokazu Koi, Kyoko Kuno, Ayako Maruyama, Louis Matsuba, ISSEI Suemitsu, Shunsuke Takagaki)
1. Sir Duke (Stevie Wonder)
2. I Got You (James Brown)
3. ABC (The Jackson 5)
4. Land of 1000 Dances (Wilson Picket)
5. Hold On, I'm Coming (Sam & Dave)
6. Stubborn Kind of Fellow (Marvin Gaye)
ーーCo:Illmaticーー
(Hirokazu Koi)
1. Klaviersonate Nr. 8 c-Moll "Grande Sonate pathétique" (Ludwig Van Beethoven)
2. BMJ (Kenji Hino)
3. We Belong Together (Mariah Carey)
4. Blast! (Marcus Miller)
*5. It Doesn't Mean Anything (Alicia Keys)
ーーU-Pentagonーー
(Kei Akita, Hirokazu Koi, Yu Naiki)
1. Whippersnapper (Wayne Krantz)
2. It Is Written (John Scofield)
3. Upper Manhattan Medical Group (Billy Strayhorn/Duke Ellington)
4. Shirts Off (Wayne Krantz)
ーーKOI & FAMILY FAIRーー
(Hirokazu Koi, TetsuWo Miyazawa, ISSEI Suemitsu, Natsuki Takeda)
1. L.V. (Re-trick)
2. The Best Is Yet To Come (urb)
3. In All My Wildest Dreams (Joe Sample)
4. 3 Deuces (Marcus Miller)
(*印の曲は実際には演奏されず)
2009年11月17日火曜日
My Favs④
菊池さんのトークで印象に残ったことの一つが、社会における「変形したミソジニー(女性嫌悪)の表出」を彼がたびたび強調していたことである。
日本にしろアメリカにしろ、世界の主要各国ではWWⅡ以降大々的な、表立った国家間戦争は起きていない。リビドー経済の資本環流チャネルが絶え、国内で、性別同士が慢性的な内戦状態に陥っているのだという。
男は女を、女は男を嫌悪していると。
その結果日本では一部でオタク化が進み、結婚問題少子高齢化問題も発生。
また、男が集団で若い女性を惨殺するような事件が相次いでいるのは、社会に蔓延するミソジニーの表出だという。
ミソジニーそのものは古い歴史を持ち、魔女狩りをはじめとして常に社会に時代ごとにさまざまな姿で現出してきた。
文化表象においても同様で、菊池さんがひいた例では悪女成敗もののアメリカの西部劇などその典型であるという。
現代ではそれが変形し、屈折した形で現われてきている。
タランティーノの最新作("Inglorious Bastards")とかものっそいミソジニー映画なんだって。
実はメルボルンで見たんだけど、確かに、GIがフランスで女ナチ党員を狩る物語である。
女性に対する暴力描写もかなり凄惨。
とにかく、異性間での交流が無くなると、ローカルな単位ではホモソーシャルな社会構成になるため、必然的に他者(=異性)への排他意識が生まれ、ひいては嫌悪が生じてしまうのだそうな。
また、内戦とはいいつつ、女による男殺しのベクトルが生じていないことを菊池さんは指摘していた。内戦状態ならそれなりに男殺し方向の社会現象なり文化表象なりが生まれてもよいはずだが、結局はミソジニーのトラディションに全員の思考回路が縛られており、その結果、男による女殺しだけが極端化しているのだと。
面白いthought provoking な議論でした。
さて、ミソジニー文化ときいて僕が真っ先に連想したのが、そう、米国産ギャングスタラップの世界である。
ヒップホップは異性愛男性の「男らしさ」が支配する言説の空間である。僕の整理したところでは、ひたすらにナイトクラブでのナンパ(アルコール&ドラッグinvolved)とその後の情事の描写を追求する「パーティアニマリズム」、金持ちで羽振りが良く常に女性にモテモテであることを強調する「ビッグダディイズム」などさまざまな分派があるのだが、中でも女性嫌悪の方向に「男らしさ」を振り向けているのが「ギャングスタイズム」の世界だと思うのだ。
ご存じのとおりギャングスタラップの歌詞では"ho"あるいは"b**ch"といった差別用語は頻出だし、「殺せ」「○ッチどもを○ァックしろ」などといった耳を覆いたくなるような表現も散見される。ファルスは当然銃である。
一貫して女性を嫌悪の対象、忌避すべきものとして扱っており、描かれる女性像も、意のままにならない悪女といった感じのことが多い。
しかしラップのテクストが面白いのは、それが対話的な性格を持っていて、発言や主張に対する「応答」が生じるところだ。つまり、「逆」=ミサンドリーである。
90年代のソルト・ン・ぺパ、ロクサーヌ・シャンテといった女性ラッパーが歌っていたのは、男性による性的支配からの解放、女性の自由、暴力的な男性に対する非難といった主題だった。
「クラブで悪い男にだまされるな」「暴力をふるう男から逃げて自由に生きろ」といったメッセージをシスターたちに呼びかけていたのである。
しかしこうしたリリックも、ミサンドリーと言い切ってしまうには十分に暴力的であるとは言えず、広義での「女性らしさ」が現れたものになっているとも思う。結局ラップの世界は、ヘテロセクシャルの恋愛関係に縛られており、そのへんが限界なのかな。
とにかく繰り返しになるが、この「対話性」こそ文化表象としてのラップの最大の特徴であり特長だと思う。
そのようなヒップホップ空間におけるセクシャリティにまつわる言説のやりとりの歴史は、21世紀に入り、ギャングスタイズムに片足を突っ込みつつも独特のジェントルさとクレバーさとを発揮し、ミソジニーへのリビドーを内省的叡智へと昇華したラッパーを出現させた。
Nasir Jones (aka Nas)である。
たとえば彼のリリックにはこんな箇所がある。
"...dressed in a white tee, looking for wifee, a thug girl who flies and talk so nicely. Put her in a coup so she can feel the nice breeze.
We can drive thru da city no doubt, but don't say my car's topless, say the titties are out."(Made You Look)
イカした車に乗って街をドライブし、オネーチャンを引っ掛けるといったシーンだが、ここで強調すべきなのは、描写されている理想の女性が、「頭もキレて品の良い話し方をする」サグガールだということだ。
さらに彼女を車に乗せて良い匂いを嗅がせてやれよと言っている。これは、単に女性を性欲の対象として描写したり、頭の悪い雌として蔑むだけだった従来のギャングスタイズムからの大きな進歩ではないか?
引用した部分の後半では、「オープンカーのことを”トップレス”」と言っちゃダメだよ。という箇所もありますね。
Nas様は下ネタNGのジェントルマンなんです。
また同じ曲の終り近くにはこんな箇所も登場。
"Ladies looking for athletes or rappers, whatever you choose whatever you do, make sure he a thug and intelligent, too, like a real thoroughbred is. Show me love. Let me feel how the head is. A female who's the sexiest is always the nastiest."
ここではなんと(スポーツ選手やラッパーと関係を持とうとする)肉食系女子たちに向けて、「本当にクールで頭が良いやつと付き合えよ」と呼びかけている(!!)
これは本来女流ラッパーがシスターたちに向けて訴えてきたメッセージではなかったか?
まるでジェンダーの交換である。
そしてその裏返しとして、ナズは「面食いは馬鹿を見るぜ」とブラザーたちにも呼びかけている。
「性」にまつわるナズのリリックは極めて理知的で、他と一線を画す。
こんな例もある。
"..If you don't wanna be my age and can't read and write, begging different women for a place to sleep at night, smart boys, turn to men and do whatever..."(I Can)
これはフッドの若い子供たちに人生論を説いた曲の一節ですが、「毎晩違う女性の部屋に頼んで泊まりたくないだろ?」みたいな感じで硬派でして、ピンピズム(pimp-ism)から距離を置く発言な訳ですね。これもある意味で女性的な発言と言えます。
まあとにかく、例をあげると尽きないんですけども、Nasはラップが持つこの「対話による議論の深化」という特長を常に意識していると考えられましてですね、いつもラップ空間の最前線にあるメッセージを発しているわけなんであります。
リリシズム
そして当然、Nasのようなメジャーリーグクラスのラッパーはストリートの代弁者であり、その発言や行動は社会に対し非常に大きな影響力を持っています。
これは深読みし過ぎかもしれないんですが、90年代に異性のラッパー同士で起きた貶しの応酬を見たNasはいち早く男女間の内戦状態に気づき、ここであえてトランスジェンダーなメッセージを打ち出すことで休戦を呼びかけたんではないかと思うのです。買いかぶり過ぎかな?
誰か「ラップミュージックから読み解くアメリカでのジェンダー間内戦の実際」とかいうタイトルで卒論書かないかな。
菊池さんの話聴いてたらそんなのも良いかもと思えてきた。
で、以上あげた曲が聴けるのは、

Nasir Jones "God's Son" (2002)であります。
Nasir Jones名義で発表されたNasの6thアルバムであり、文句無く僕が一番好きなラップアルバムですね。
皆さんもご存知かもしれませんが、Nasの1stのIllmatic(cf. Ko-illmatic)は、今でも、どんなブラックミュージック誌でも、90年代最高のヒップホップアルバムとして必ずあげられる超超超・超名盤なのですが、ある意味それが傑作すぎて、Nasの90年代のキャリアはIllmaticの幻影を振り払う歴史だったような気もするのです。これはあくまで私見ですが。
そして新世紀を迎え、NasはNasir Jonesに名義を変えて、このアルバムではおそらく完全にその呪縛から解き放たれてフロウを冴え渡らせています。
実は僕はこのアルバムを聴くまではラップに免疫がありませんでした。
ラップミュージックには「うるさい」「頭悪そう」「ハーコーな人たちの音楽」というイメージが常にありました。
しかしここで聴かれるのは、高く香るインテリジェンスとすべてのビーフを超越した崇高なリリシズムです。
完全にやられてしまい、僕は虜になりました。
滑舌もよくて歌詞も聴き取りやすいし、独特の粘りつくようなリズム感はNas特有のもので、本当に洗練されたスタイルが聴けます。
また、現在では盤石の体制となった感すらあるサラーム・レミ、スウィズ・ビーツといったプロデューサー陣も抜群の仕事をしており、当時の時流だった「オールドスクール回帰」がわかりやすく聴ける作品でもあります。
"Made You Look"では定番ブレイク”Apache"が、"Get Down"ではジェームズ・ブラウンの"The Boss"、"I Can"でも定番ブレイク"Impeach The President"が使われているなど、ヒップホップ入門にもうってつけのサンプリングネタの宝庫な訳ですよ。
後に結婚することになるKelis、"New York State Of Mind"のリメイクにまで発展する縁となるAlicia Keysといった客演陣の人選も実に的を得ており、その意味でも現在のNasにつながる傑作アルバムと言えます。
というかNasのアルバムは全部カッコいいから聴きましょう。
言ってくれたら焼きますよ。
現代のジェンダー論については難しいので僕も斉藤環の本とか買って勉強を始めました。
同じ生物学的違いでも、人種間の差異とかはならされる方向にあるとしても、男女差って、なぜか確然とそこにあるものとして扱われていると思うので。
すごく特殊な社会カテゴリだと思うのですね。
ま、また勉強したら感想を書くかもしれません。
日本にしろアメリカにしろ、世界の主要各国ではWWⅡ以降大々的な、表立った国家間戦争は起きていない。リビドー経済の資本環流チャネルが絶え、国内で、性別同士が慢性的な内戦状態に陥っているのだという。
男は女を、女は男を嫌悪していると。
その結果日本では一部でオタク化が進み、結婚問題少子高齢化問題も発生。
また、男が集団で若い女性を惨殺するような事件が相次いでいるのは、社会に蔓延するミソジニーの表出だという。
ミソジニーそのものは古い歴史を持ち、魔女狩りをはじめとして常に社会に時代ごとにさまざまな姿で現出してきた。
文化表象においても同様で、菊池さんがひいた例では悪女成敗もののアメリカの西部劇などその典型であるという。
現代ではそれが変形し、屈折した形で現われてきている。
タランティーノの最新作("Inglorious Bastards")とかものっそいミソジニー映画なんだって。
実はメルボルンで見たんだけど、確かに、GIがフランスで女ナチ党員を狩る物語である。
女性に対する暴力描写もかなり凄惨。
とにかく、異性間での交流が無くなると、ローカルな単位ではホモソーシャルな社会構成になるため、必然的に他者(=異性)への排他意識が生まれ、ひいては嫌悪が生じてしまうのだそうな。
また、内戦とはいいつつ、女による男殺しのベクトルが生じていないことを菊池さんは指摘していた。内戦状態ならそれなりに男殺し方向の社会現象なり文化表象なりが生まれてもよいはずだが、結局はミソジニーのトラディションに全員の思考回路が縛られており、その結果、男による女殺しだけが極端化しているのだと。
面白いthought provoking な議論でした。
さて、ミソジニー文化ときいて僕が真っ先に連想したのが、そう、米国産ギャングスタラップの世界である。
ヒップホップは異性愛男性の「男らしさ」が支配する言説の空間である。僕の整理したところでは、ひたすらにナイトクラブでのナンパ(アルコール&ドラッグinvolved)とその後の情事の描写を追求する「パーティアニマリズム」、金持ちで羽振りが良く常に女性にモテモテであることを強調する「ビッグダディイズム」などさまざまな分派があるのだが、中でも女性嫌悪の方向に「男らしさ」を振り向けているのが「ギャングスタイズム」の世界だと思うのだ。
ご存じのとおりギャングスタラップの歌詞では"ho"あるいは"b**ch"といった差別用語は頻出だし、「殺せ」「○ッチどもを○ァックしろ」などといった耳を覆いたくなるような表現も散見される。ファルスは当然銃である。
一貫して女性を嫌悪の対象、忌避すべきものとして扱っており、描かれる女性像も、意のままにならない悪女といった感じのことが多い。
しかしラップのテクストが面白いのは、それが対話的な性格を持っていて、発言や主張に対する「応答」が生じるところだ。つまり、「逆」=ミサンドリーである。
90年代のソルト・ン・ぺパ、ロクサーヌ・シャンテといった女性ラッパーが歌っていたのは、男性による性的支配からの解放、女性の自由、暴力的な男性に対する非難といった主題だった。
「クラブで悪い男にだまされるな」「暴力をふるう男から逃げて自由に生きろ」といったメッセージをシスターたちに呼びかけていたのである。
しかしこうしたリリックも、ミサンドリーと言い切ってしまうには十分に暴力的であるとは言えず、広義での「女性らしさ」が現れたものになっているとも思う。結局ラップの世界は、ヘテロセクシャルの恋愛関係に縛られており、そのへんが限界なのかな。
とにかく繰り返しになるが、この「対話性」こそ文化表象としてのラップの最大の特徴であり特長だと思う。
そのようなヒップホップ空間におけるセクシャリティにまつわる言説のやりとりの歴史は、21世紀に入り、ギャングスタイズムに片足を突っ込みつつも独特のジェントルさとクレバーさとを発揮し、ミソジニーへのリビドーを内省的叡智へと昇華したラッパーを出現させた。
Nasir Jones (aka Nas)である。
たとえば彼のリリックにはこんな箇所がある。
"...dressed in a white tee, looking for wifee, a thug girl who flies and talk so nicely. Put her in a coup so she can feel the nice breeze.
We can drive thru da city no doubt, but don't say my car's topless, say the titties are out."(Made You Look)
イカした車に乗って街をドライブし、オネーチャンを引っ掛けるといったシーンだが、ここで強調すべきなのは、描写されている理想の女性が、「頭もキレて品の良い話し方をする」サグガールだということだ。
さらに彼女を車に乗せて良い匂いを嗅がせてやれよと言っている。これは、単に女性を性欲の対象として描写したり、頭の悪い雌として蔑むだけだった従来のギャングスタイズムからの大きな進歩ではないか?
引用した部分の後半では、「オープンカーのことを”トップレス”」と言っちゃダメだよ。という箇所もありますね。
Nas様は下ネタNGのジェントルマンなんです。
また同じ曲の終り近くにはこんな箇所も登場。
"Ladies looking for athletes or rappers, whatever you choose whatever you do, make sure he a thug and intelligent, too, like a real thoroughbred is. Show me love. Let me feel how the head is. A female who's the sexiest is always the nastiest."
ここではなんと(スポーツ選手やラッパーと関係を持とうとする)肉食系女子たちに向けて、「本当にクールで頭が良いやつと付き合えよ」と呼びかけている(!!)
これは本来女流ラッパーがシスターたちに向けて訴えてきたメッセージではなかったか?
まるでジェンダーの交換である。
そしてその裏返しとして、ナズは「面食いは馬鹿を見るぜ」とブラザーたちにも呼びかけている。
「性」にまつわるナズのリリックは極めて理知的で、他と一線を画す。
こんな例もある。
"..If you don't wanna be my age and can't read and write, begging different women for a place to sleep at night, smart boys, turn to men and do whatever..."(I Can)
これはフッドの若い子供たちに人生論を説いた曲の一節ですが、「毎晩違う女性の部屋に頼んで泊まりたくないだろ?」みたいな感じで硬派でして、ピンピズム(pimp-ism)から距離を置く発言な訳ですね。これもある意味で女性的な発言と言えます。
まあとにかく、例をあげると尽きないんですけども、Nasはラップが持つこの「対話による議論の深化」という特長を常に意識していると考えられましてですね、いつもラップ空間の最前線にあるメッセージを発しているわけなんであります。
リリシズム
そして当然、Nasのようなメジャーリーグクラスのラッパーはストリートの代弁者であり、その発言や行動は社会に対し非常に大きな影響力を持っています。
これは深読みし過ぎかもしれないんですが、90年代に異性のラッパー同士で起きた貶しの応酬を見たNasはいち早く男女間の内戦状態に気づき、ここであえてトランスジェンダーなメッセージを打ち出すことで休戦を呼びかけたんではないかと思うのです。買いかぶり過ぎかな?
誰か「ラップミュージックから読み解くアメリカでのジェンダー間内戦の実際」とかいうタイトルで卒論書かないかな。
菊池さんの話聴いてたらそんなのも良いかもと思えてきた。
で、以上あげた曲が聴けるのは、

Nasir Jones "God's Son" (2002)であります。
Nasir Jones名義で発表されたNasの6thアルバムであり、文句無く僕が一番好きなラップアルバムですね。
皆さんもご存知かもしれませんが、Nasの1stのIllmatic(cf. Ko-illmatic)は、今でも、どんなブラックミュージック誌でも、90年代最高のヒップホップアルバムとして必ずあげられる超超超・超名盤なのですが、ある意味それが傑作すぎて、Nasの90年代のキャリアはIllmaticの幻影を振り払う歴史だったような気もするのです。これはあくまで私見ですが。
そして新世紀を迎え、NasはNasir Jonesに名義を変えて、このアルバムではおそらく完全にその呪縛から解き放たれてフロウを冴え渡らせています。
実は僕はこのアルバムを聴くまではラップに免疫がありませんでした。
ラップミュージックには「うるさい」「頭悪そう」「ハーコーな人たちの音楽」というイメージが常にありました。
しかしここで聴かれるのは、高く香るインテリジェンスとすべてのビーフを超越した崇高なリリシズムです。
完全にやられてしまい、僕は虜になりました。
滑舌もよくて歌詞も聴き取りやすいし、独特の粘りつくようなリズム感はNas特有のもので、本当に洗練されたスタイルが聴けます。
また、現在では盤石の体制となった感すらあるサラーム・レミ、スウィズ・ビーツといったプロデューサー陣も抜群の仕事をしており、当時の時流だった「オールドスクール回帰」がわかりやすく聴ける作品でもあります。
"Made You Look"では定番ブレイク”Apache"が、"Get Down"ではジェームズ・ブラウンの"The Boss"、"I Can"でも定番ブレイク"Impeach The President"が使われているなど、ヒップホップ入門にもうってつけのサンプリングネタの宝庫な訳ですよ。
後に結婚することになるKelis、"New York State Of Mind"のリメイクにまで発展する縁となるAlicia Keysといった客演陣の人選も実に的を得ており、その意味でも現在のNasにつながる傑作アルバムと言えます。
というかNasのアルバムは全部カッコいいから聴きましょう。
言ってくれたら焼きますよ。
現代のジェンダー論については難しいので僕も斉藤環の本とか買って勉強を始めました。
同じ生物学的違いでも、人種間の差異とかはならされる方向にあるとしても、男女差って、なぜか確然とそこにあるものとして扱われていると思うので。
すごく特殊な社会カテゴリだと思うのですね。
ま、また勉強したら感想を書くかもしれません。
2009年11月15日日曜日
To be, to be, ten made to be.
今日は人環主催のシンポでバイト〜メトロで菊池さんトークショー
という流れでした。
シンポはバイトだし、期待してなかったんだけど意外とおもろかった。
気候変動問題の話で、またかよって感じだったけど、登壇者は経済学者中心でいろいろ新鮮でした。
やっぱり環境政策はいろいろコストがかかるから、いまリーマンショックでボロボロの先進国は限界費用下がってるし、途上国に負担をふるべきなのかどうか・・・みたいな話とか。おもしろーい。
でも、とりあえずみんな「CO2排出量削減」ていうマクロフレームは疑わないんだね。
そもそも「地球温暖化」自体が科学仮説にすぎないのに。。
恐るべき京都議定書レジーム。
まあそれはよしとしよう。少なくともそういう突っ込みを入れるのは経済学プロパーの人たちの仕事じゃねーや。
ただ、IPCCがやってる排出量推計は相当複雑な計算モデルに基づいているから、そこにさらに不確実な経済学のモデルを導入して算出された排出量削減量対コストの予想グラフなどはだいぶ胡散くせーなと思った。この辺はコンピュータシミュレーション・パラダイムの陥穽と言わざるを得ない。
それらをもとにそれらしく語っているプレゼンはよけい胡散臭い。未来のことなんてわからないはずなのだが。
Stern Reportにしてもそうだけど、偉い人がキャプション書いてきれいなグラフにして綴ってあったら説得力を持ってしまうから、イメージ(図)とオーソリティの共犯関係というやつはすごい。それだけでロジックになっちゃうという。
気候変動問題は厳密には人間全員がステークホルダーとなる問題であると思うから、「インデペンデンスデイ」じゃないけど、その解決は、グローバルな目標設定としては悪くないと思う。潜在的に人類みんなが一致団結する可能性をはらんでいるというか。
しかし現実には、各国に負担をどうやって分配するかでモメているわけで。ならば、モメごとがフェアに解決される仕組みを作らなければならないと思いますよ。
不確実な予想は政策を作るうえでの見立てとしては意味があるものだろうけれど、今のIPCCのやり方では分配された負担がちゃんと消化されているかどうかさえ不透明にならざるを得ないので、それが問題だと思います。
IPCCでは各国から推薦された科学者たちが文献レビューに基づいてジャッジメントして、排出係数のデフォルト値を決定していますが、たとえば農業分野の排出係数について専門家ジャッジとそのリファレンスを比較分析した結果、不透明なデータ操作や根拠を明示せずに下した直感的判断が、リファレンスに示された全論文のデータを超えるほどの大きさとなって結論に影響を及ぼしているという報告もあります。
アメリカと中国が大きく温室効果ガス排出量削減の負担をしなければならないことがよく話題にあがりますが、このシステムではデータの地域代表性とか、不確実な場合「安全性」をどちらにとるか(産業活動からの排出量を検討する場合、温暖化防止の観点からは、あえて排出量を大きめに計上するように排出係数を設定することが安全側となる。翻って産業界から見れば、排出量は少なめに計上されるように設定することが安全側)とかの政策的判断を科学者が無意識に下す可能性も生じますわな。もちろん「意識的」に下す可能性も。
温室効果ガス排出吸収インベントリは、もうピア・レビューできないレベルまで細分化していて、当事者以外は全員シロートみたいな状況ではらちがあきませんね。
インベントリは本来、社会の発意に基づいて、最新の知見を用いて作成される境界オブジェクトであるはず(Dilemma of boundaries!!!!)。
そもそも、「地球環境」という究極のザ・コモンズを扱うのに、所有権を人格に分配することに気を狂わせていた近代の産物である「国家」という単位をベースに考えていること自体に、ちょっとしたずれを感じる。
とにかく、コモンズを扱うのにnation 2 nationの考え方は不向きなんだと思う。やっぱこれからはgalaxy 2 galaxyで考えていかないと笑
とまではいかないものの、アカデミアと政治を架橋した広範な議論に基づいて形成された社会的合理性に基づいて、政策決定者が判断を下していくべきでしょうね。
眠いので菊池さんについてはまた後日Zzz
という流れでした。
シンポはバイトだし、期待してなかったんだけど意外とおもろかった。
気候変動問題の話で、またかよって感じだったけど、登壇者は経済学者中心でいろいろ新鮮でした。
やっぱり環境政策はいろいろコストがかかるから、いまリーマンショックでボロボロの先進国は限界費用下がってるし、途上国に負担をふるべきなのかどうか・・・みたいな話とか。おもしろーい。
でも、とりあえずみんな「CO2排出量削減」ていうマクロフレームは疑わないんだね。
そもそも「地球温暖化」自体が科学仮説にすぎないのに。。
恐るべき京都議定書レジーム。
まあそれはよしとしよう。少なくともそういう突っ込みを入れるのは経済学プロパーの人たちの仕事じゃねーや。
ただ、IPCCがやってる排出量推計は相当複雑な計算モデルに基づいているから、そこにさらに不確実な経済学のモデルを導入して算出された排出量削減量対コストの予想グラフなどはだいぶ胡散くせーなと思った。この辺はコンピュータシミュレーション・パラダイムの陥穽と言わざるを得ない。
それらをもとにそれらしく語っているプレゼンはよけい胡散臭い。未来のことなんてわからないはずなのだが。
Stern Reportにしてもそうだけど、偉い人がキャプション書いてきれいなグラフにして綴ってあったら説得力を持ってしまうから、イメージ(図)とオーソリティの共犯関係というやつはすごい。それだけでロジックになっちゃうという。
気候変動問題は厳密には人間全員がステークホルダーとなる問題であると思うから、「インデペンデンスデイ」じゃないけど、その解決は、グローバルな目標設定としては悪くないと思う。潜在的に人類みんなが一致団結する可能性をはらんでいるというか。
しかし現実には、各国に負担をどうやって分配するかでモメているわけで。ならば、モメごとがフェアに解決される仕組みを作らなければならないと思いますよ。
不確実な予想は政策を作るうえでの見立てとしては意味があるものだろうけれど、今のIPCCのやり方では分配された負担がちゃんと消化されているかどうかさえ不透明にならざるを得ないので、それが問題だと思います。
IPCCでは各国から推薦された科学者たちが文献レビューに基づいてジャッジメントして、排出係数のデフォルト値を決定していますが、たとえば農業分野の排出係数について専門家ジャッジとそのリファレンスを比較分析した結果、不透明なデータ操作や根拠を明示せずに下した直感的判断が、リファレンスに示された全論文のデータを超えるほどの大きさとなって結論に影響を及ぼしているという報告もあります。
アメリカと中国が大きく温室効果ガス排出量削減の負担をしなければならないことがよく話題にあがりますが、このシステムではデータの地域代表性とか、不確実な場合「安全性」をどちらにとるか(産業活動からの排出量を検討する場合、温暖化防止の観点からは、あえて排出量を大きめに計上するように排出係数を設定することが安全側となる。翻って産業界から見れば、排出量は少なめに計上されるように設定することが安全側)とかの政策的判断を科学者が無意識に下す可能性も生じますわな。もちろん「意識的」に下す可能性も。
温室効果ガス排出吸収インベントリは、もうピア・レビューできないレベルまで細分化していて、当事者以外は全員シロートみたいな状況ではらちがあきませんね。
インベントリは本来、社会の発意に基づいて、最新の知見を用いて作成される境界オブジェクトであるはず(Dilemma of boundaries!!!!)。
そもそも、「地球環境」という究極のザ・コモンズを扱うのに、所有権を人格に分配することに気を狂わせていた近代の産物である「国家」という単位をベースに考えていること自体に、ちょっとしたずれを感じる。
とにかく、コモンズを扱うのにnation 2 nationの考え方は不向きなんだと思う。やっぱこれからはgalaxy 2 galaxyで考えていかないと笑
とまではいかないものの、アカデミアと政治を架橋した広範な議論に基づいて形成された社会的合理性に基づいて、政策決定者が判断を下していくべきでしょうね。
眠いので菊池さんについてはまた後日Zzz
2009年11月10日火曜日
My Favs③
風邪っぽい。。。が、すぐ治るだろう。
こういうときはあえて(寝る。チキンスープを作る。などの)風邪っぽい行動をとらず、何気なくactiveにenergeticに生活していれば体がだまされて本格的な風邪になどならないものである。多分。
今風邪ひいたら、いろんな人に迷惑がかかるなぁ。。。
だからモダンタイムスに行ってビールでも飲もう。
はい。前エントリーでさんざんテクノをあげておいたわりには、今日はヒップホップの名盤の紹介です。

Pete Rock & C.L. Smooth "Mecca and the Soul Brother" (1992)
です。
うーーーん。ジャケからして格好良すぎですね。
これは知る人ぞ知る、「ジャズ・ヒップホップ(not ジャジー・ヒップホップ!!)」のあり方を決定づけた超名盤でして、まさにクラシックと呼ぶにふさわしい作品です!
17年も前にもうこんなかっこ良い音楽が出来ていたというのが驚きです。ジャジーとかメロウとかいう言葉は今でこそ流行ですが、正しく「ジャズ」というものを取り入れたスタイルはこの時代のNY産ならではです。ヒップホップの世界がぐっと広がる一枚です。
NYのヒップホップは、サンプリングの時代がやってきた後、88年頃にはファンキー一色になります。また、88年にはカリフォルニアからNWAの『Straight Outta Compton』も登場、ウェストコーストのファンク・スタイルが全米に広まり始めてもいました。さらにこの80年代〜90年代初頭は大ダンス・ブームが巻き起こっていた時でもあります。そんななか、自分たちの出番を窺っていた新たな世代の面々が、ファンキーでアッパーなものに代わる「俺たちのスタイル」のよりどころとしたのが「ジャズ」でした。
NYはジャズの街です。NasやDJプレミアの親がジャズの演奏家であることからも窺えるように、ニューヨーカーにとってはジャズは身近なもの(らしい?)。そして90年前後は、ピート・ロックらがネタ使いしたジャズ・ファンク、クロスオーヴァーもののレコードが安かったのです。この作品でも、1ドル以下で手に入れたというフレディ・ハバードの『Polar AC』が使われているというのは有名な逸話です。
しかし「100円のレコードが、最高のビートに生まれ変わる」というのも、ヒップホップ的な価値観ではカッチョよいことなのです。こうして新たな世代は「ジャズのクール」を武器に、ファンキーな先輩たちを押しのけて世代交代を果たしていきます。
で、なぜこの"Mecca and the Soul Brother" がジャズ・ヒップホップの指標となったのかを考えてみます。
ピート・ロックは最初、Untouchablesという職人プロデューサー集団の一員でした。それもあって彼のビートは、よく整理された機能的なものになっていったのだと思います。で、その特性は自らのユニットの1stアルバムである本作で全面的に発揮されたわけですが、ジャズの要素を「ホーンのトバし」に代表されるようにシステマティックに表した本作のビートは、一言でいうとマネしやすいものだったのでしょう。同時代にいたジャズ系トラックメイカーとしてはDJ PremierやQ Tipがいますが、彼らが聴かせた「ジャズ」はきわめて複雑で高尚で(それでもかっこいいんだけど)、誰にでもマネできるものではなかったのだと思われます。
それに対し、実はこの作品はリリース当時イージーリスニングだとコンサバなリスナーに揶揄されもしたほど、誰の耳にもジャジーに響くわかりやすいものだったのです。
もちろんヒップホップ・ミュージックはパーティーから生まれた音楽ですが、僕にとっては同時にお洒落でリラクシンな音楽でもあります。ほとんどのブラックミュージック愛好家の方も同様の受け取り方をしているのではないでしょうか。
ただ現在は「ジャジー」という言葉だけが一人歩きした結果、ジャズ・ヒップホップの流儀といったものが曖昧になり、スカイ・ハイ・サウンドにEW&Fやメロウ・フュージョンなどをサンプリングした曲までもがジャジー・ヒップホップのカテゴリに括られるようになってきています。
原点に立ち返れば、ジャズとヒップホップのおいしい関係はそんなものではなかったはずなのです。それはこれを聴けばわかる。
ヒップホップにおけるメロウネスブームの源流となり、同時に最高傑作でもあるこのアルバム、ブラック・ミュージックプロパーの観照者ならずとも必聴です!
モダンタイムス行こ。
こういうときはあえて(寝る。チキンスープを作る。などの)風邪っぽい行動をとらず、何気なくactiveにenergeticに生活していれば体がだまされて本格的な風邪になどならないものである。多分。
今風邪ひいたら、いろんな人に迷惑がかかるなぁ。。。
だからモダンタイムスに行ってビールでも飲もう。
はい。前エントリーでさんざんテクノをあげておいたわりには、今日はヒップホップの名盤の紹介です。

Pete Rock & C.L. Smooth "Mecca and the Soul Brother" (1992)
です。
うーーーん。ジャケからして格好良すぎですね。
これは知る人ぞ知る、「ジャズ・ヒップホップ(not ジャジー・ヒップホップ!!)」のあり方を決定づけた超名盤でして、まさにクラシックと呼ぶにふさわしい作品です!
17年も前にもうこんなかっこ良い音楽が出来ていたというのが驚きです。ジャジーとかメロウとかいう言葉は今でこそ流行ですが、正しく「ジャズ」というものを取り入れたスタイルはこの時代のNY産ならではです。ヒップホップの世界がぐっと広がる一枚です。
NYのヒップホップは、サンプリングの時代がやってきた後、88年頃にはファンキー一色になります。また、88年にはカリフォルニアからNWAの『Straight Outta Compton』も登場、ウェストコーストのファンク・スタイルが全米に広まり始めてもいました。さらにこの80年代〜90年代初頭は大ダンス・ブームが巻き起こっていた時でもあります。そんななか、自分たちの出番を窺っていた新たな世代の面々が、ファンキーでアッパーなものに代わる「俺たちのスタイル」のよりどころとしたのが「ジャズ」でした。
NYはジャズの街です。NasやDJプレミアの親がジャズの演奏家であることからも窺えるように、ニューヨーカーにとってはジャズは身近なもの(らしい?)。そして90年前後は、ピート・ロックらがネタ使いしたジャズ・ファンク、クロスオーヴァーもののレコードが安かったのです。この作品でも、1ドル以下で手に入れたというフレディ・ハバードの『Polar AC』が使われているというのは有名な逸話です。
しかし「100円のレコードが、最高のビートに生まれ変わる」というのも、ヒップホップ的な価値観ではカッチョよいことなのです。こうして新たな世代は「ジャズのクール」を武器に、ファンキーな先輩たちを押しのけて世代交代を果たしていきます。
で、なぜこの"Mecca and the Soul Brother" がジャズ・ヒップホップの指標となったのかを考えてみます。
ピート・ロックは最初、Untouchablesという職人プロデューサー集団の一員でした。それもあって彼のビートは、よく整理された機能的なものになっていったのだと思います。で、その特性は自らのユニットの1stアルバムである本作で全面的に発揮されたわけですが、ジャズの要素を「ホーンのトバし」に代表されるようにシステマティックに表した本作のビートは、一言でいうとマネしやすいものだったのでしょう。同時代にいたジャズ系トラックメイカーとしてはDJ PremierやQ Tipがいますが、彼らが聴かせた「ジャズ」はきわめて複雑で高尚で(それでもかっこいいんだけど)、誰にでもマネできるものではなかったのだと思われます。
それに対し、実はこの作品はリリース当時イージーリスニングだとコンサバなリスナーに揶揄されもしたほど、誰の耳にもジャジーに響くわかりやすいものだったのです。
もちろんヒップホップ・ミュージックはパーティーから生まれた音楽ですが、僕にとっては同時にお洒落でリラクシンな音楽でもあります。ほとんどのブラックミュージック愛好家の方も同様の受け取り方をしているのではないでしょうか。
ただ現在は「ジャジー」という言葉だけが一人歩きした結果、ジャズ・ヒップホップの流儀といったものが曖昧になり、スカイ・ハイ・サウンドにEW&Fやメロウ・フュージョンなどをサンプリングした曲までもがジャジー・ヒップホップのカテゴリに括られるようになってきています。
原点に立ち返れば、ジャズとヒップホップのおいしい関係はそんなものではなかったはずなのです。それはこれを聴けばわかる。
ヒップホップにおけるメロウネスブームの源流となり、同時に最高傑作でもあるこのアルバム、ブラック・ミュージックプロパーの観照者ならずとも必聴です!
モダンタイムス行こ。
2009年11月6日金曜日
My Favs②
・・・
来週末の予定が決まらん。
metroであるなるよしの講演会に行くつもりでいたが、早稲田でSTS学会があることをすっかり忘れていた!!
まあ東京にいく金もないし(が、東京に行ったついでに東京駅にできたという松岡正剛と丸善のコラボ書店をいち早くチェックしておきたいという誘因もある)なるよしだろ。。。と思っていたら、修士の指導教官から飲み会だけでも来いとのメールが・・・どうしよーどうしよー飲み会楽しいのかな・・・「顎足つきなら行きます」とか言ってみようか。入学許可取り消されそう。
悩みはつきません。
さて、僕が一番すきなジャズ・ベーシストが祖国チェコ共和国で 大統領栄誉賞 を授与されたそうです。
すばらしい。
そこで今日はこのジョージ・ムラーツ氏参加のおすすめCDを紹介したいと思います。

Tommy Flanagan Trio "Eclypso"(1977)
であります。
名サイドマンとして知られるトミフラ(p)が、ジョージ・ムラーツ(b)、エルヴィン・ジョーンズ(dr)と組んだトリオで録音したものです。
基本的にはスタンダードの演奏が中心なのですが、アレンジ的に目新しいところがあるわけでもなく、少し今の感覚からするとピアノトリオとしてはやや、色彩感に欠けるかもしれません。
こんな言い方はあれですが、なんとなくトミー・フラナガンは、「ジャイステを弾けてなかった人」というイメージがあるせいか、あるいは枕詞のようについて回る「サイドマン」「名傍役」というキャッチのせいか、バンドリーダーとしてはやや力不足という先入観を払拭するのは聴き手にとっても難しいのかもしれません。まさに僕がその困難を抱えているように。マッコイ・タイナーやケニー・バロンといった同世代のジャズ・ピアニストと比べても何となく迫力を欠く印象です。
が、このCDでも、やはりよく聴けばバド・パウエル派としての名に恥じない気合いのはいったバッピーなアドリブをかましていますし、トランスクライブの素材としてはなかなか良いCDかとは思いますが。
で、まあなぜこの一聴して平凡なCDが特別に好きかというとですね、ひとえにジョージ・ムラーツが素晴らしいからです。
ジャズ・ベーシストというと、大概ちょっと走ったままずっといく系か、超変態グニャグニャ系かどちらかに大別されると思うのですが、その両方の特徴をバランスよく併せ持っているのがムラーツさんだと思うのです。
アンサンブルの中で上の方の音域にもガツガツ食い込みつつ、ここまでリズムの芯がしっかりしているのはジョージ・ムラーツとエディ・ゴメスくらいですね。
特にジョージ・ムラーツの歌心はすごいです。なにげないウォーキングラインであっても極めてメロディアスで、4分音符が歌っているという。
さらになんと言ってもこのCDのハイライトは最後に収録されたConfirmationのベースソロであります。たった2コーラスなのですが、完成度が神がかっています。僕は一時期この曲を聴くと興奮して部屋のモノをいろいろ壊してしまっていました。
基本に忠実にバッピーに弾き倒すところとメロディックに行く箇所の使い分けが素晴らしく、また、ひとつひとつのフレーズがシームレスにつながっており、流れるようです。しかし決してラファロのようにモーダルなアプローチではありません。ここが逆に渋いです。そしてなんと言っても歌心に溢れ、グルーヴしている!
彼のベースは非常に音程が聴き取りやすく、耳コピもしやすいです。ウッベで弾くにはsurgicalなlevelのtechnical proficiencyが必要ですがT_T
もともとクラシックの演奏家であり、シマンドル奏法を駆使し、弓弾きの名手であることでも知られるムラーツさんなのですが、さすがにピッチの良さが半端無いです。弦高はベタベタに低いと思われ、若干エレベライクな音色なのですが、それでもウッドベースという楽器の魅力を最大限引き出す弾き方を心得ておられますね。この辺は僕の主観ですが、ムラーツのベースは甘すぎず、それでいてクリスピーすぎない最高の音だと思います。
あーあとこの人、イケメンなんですよ。笑
もう60歳をすぎられたようですが、最近はサイラス・チェスナット(p)とルイス・ナッシュ(dr)とのトリオで、Manhattan Trinity名義でコンスタントに作品を発表しており、それらもおすすめです。
おすすめジャズベーシストの話でした。
来週末の予定が決まらん。
metroであるなるよしの講演会に行くつもりでいたが、早稲田でSTS学会があることをすっかり忘れていた!!
まあ東京にいく金もないし(が、東京に行ったついでに東京駅にできたという松岡正剛と丸善のコラボ書店をいち早くチェックしておきたいという誘因もある)なるよしだろ。。。と思っていたら、修士の指導教官から飲み会だけでも来いとのメールが・・・どうしよーどうしよー飲み会楽しいのかな・・・「顎足つきなら行きます」とか言ってみようか。入学許可取り消されそう。
悩みはつきません。
さて、僕が一番すきなジャズ・ベーシストが祖国チェコ共和国で 大統領栄誉賞 を授与されたそうです。
すばらしい。
そこで今日はこのジョージ・ムラーツ氏参加のおすすめCDを紹介したいと思います。

Tommy Flanagan Trio "Eclypso"(1977)
であります。
名サイドマンとして知られるトミフラ(p)が、ジョージ・ムラーツ(b)、エルヴィン・ジョーンズ(dr)と組んだトリオで録音したものです。
基本的にはスタンダードの演奏が中心なのですが、アレンジ的に目新しいところがあるわけでもなく、少し今の感覚からするとピアノトリオとしてはやや、色彩感に欠けるかもしれません。
こんな言い方はあれですが、なんとなくトミー・フラナガンは、「ジャイステを弾けてなかった人」というイメージがあるせいか、あるいは枕詞のようについて回る「サイドマン」「名傍役」というキャッチのせいか、バンドリーダーとしてはやや力不足という先入観を払拭するのは聴き手にとっても難しいのかもしれません。まさに僕がその困難を抱えているように。マッコイ・タイナーやケニー・バロンといった同世代のジャズ・ピアニストと比べても何となく迫力を欠く印象です。
が、このCDでも、やはりよく聴けばバド・パウエル派としての名に恥じない気合いのはいったバッピーなアドリブをかましていますし、トランスクライブの素材としてはなかなか良いCDかとは思いますが。
で、まあなぜこの一聴して平凡なCDが特別に好きかというとですね、ひとえにジョージ・ムラーツが素晴らしいからです。
ジャズ・ベーシストというと、大概ちょっと走ったままずっといく系か、超変態グニャグニャ系かどちらかに大別されると思うのですが、その両方の特徴をバランスよく併せ持っているのがムラーツさんだと思うのです。
アンサンブルの中で上の方の音域にもガツガツ食い込みつつ、ここまでリズムの芯がしっかりしているのはジョージ・ムラーツとエディ・ゴメスくらいですね。
特にジョージ・ムラーツの歌心はすごいです。なにげないウォーキングラインであっても極めてメロディアスで、4分音符が歌っているという。
さらになんと言ってもこのCDのハイライトは最後に収録されたConfirmationのベースソロであります。たった2コーラスなのですが、完成度が神がかっています。僕は一時期この曲を聴くと興奮して部屋のモノをいろいろ壊してしまっていました。
基本に忠実にバッピーに弾き倒すところとメロディックに行く箇所の使い分けが素晴らしく、また、ひとつひとつのフレーズがシームレスにつながっており、流れるようです。しかし決してラファロのようにモーダルなアプローチではありません。ここが逆に渋いです。そしてなんと言っても歌心に溢れ、グルーヴしている!
彼のベースは非常に音程が聴き取りやすく、耳コピもしやすいです。ウッベで弾くにはsurgicalなlevelのtechnical proficiencyが必要ですがT_T
もともとクラシックの演奏家であり、シマンドル奏法を駆使し、弓弾きの名手であることでも知られるムラーツさんなのですが、さすがにピッチの良さが半端無いです。弦高はベタベタに低いと思われ、若干エレベライクな音色なのですが、それでもウッドベースという楽器の魅力を最大限引き出す弾き方を心得ておられますね。この辺は僕の主観ですが、ムラーツのベースは甘すぎず、それでいてクリスピーすぎない最高の音だと思います。
あーあとこの人、イケメンなんですよ。笑
もう60歳をすぎられたようですが、最近はサイラス・チェスナット(p)とルイス・ナッシュ(dr)とのトリオで、Manhattan Trinity名義でコンスタントに作品を発表しており、それらもおすすめです。
おすすめジャズベーシストの話でした。
2009年11月4日水曜日
If this is the cross that I have to bear,,,
「呼吸の仕方もわからなくなるんじゃないかってくらい、もう私あした死んでる、死んでなきゃおかしい
くらい苦しくて。だけど、朝起きたら生きてるんだよ。で、なんで生きてるのって思うけど、生きていけちゃうんだよ。いなくなったら、もう生きていけないと思ってたのに、いなくても生きてけるんだよ。」via momo
クロード・レヴィ=ストロース氏が亡くなったようだ。
つい先日、友人たちと、未だ存命であったことを驚きあったばかりだったのだが。
御年100歳。さすがに最近は知識生産の第一線からは退いていたようだが、それでも私たちがまたひとつ、大きな知の灯台を失ったということには違いないだろう。
現在、誰もジミヘンの影響を受けずにギターを弾くことができないように、あるいは、ジャコの影響なくしてエレクトリックベースを弾くことができないのと同じように、現代のあらゆる人文社会思想をめぐる語りにおいて、レヴィ=ストロースと無関係でいることはできない。
心からご冥福をお祈りします。
で、己斐のパソコンも死にました。クロードさんと同じ命日
そんでこの際思い切ってMacbookに乗り換えることにした。
ついに脱Windowsや。さようならビルゲイツこんにちはスティーブジョブズ
お金を貯めてほかに買おうと思っていたものは買えなくなったけれども(かめらとか・・)、まあ、そんなもんやろ。
今日納品です。wktk
マッカーの皆さんはよろしく
とりあえず今はOfficeの入手ルートを検討中。こんにちはビルゲイツagainあと、Adobe製品とかは入ってるのかしら。
くらい苦しくて。だけど、朝起きたら生きてるんだよ。で、なんで生きてるのって思うけど、生きていけちゃうんだよ。いなくなったら、もう生きていけないと思ってたのに、いなくても生きてけるんだよ。」via momo
クロード・レヴィ=ストロース氏が亡くなったようだ。
つい先日、友人たちと、未だ存命であったことを驚きあったばかりだったのだが。
御年100歳。さすがに最近は知識生産の第一線からは退いていたようだが、それでも私たちがまたひとつ、大きな知の灯台を失ったということには違いないだろう。
現在、誰もジミヘンの影響を受けずにギターを弾くことができないように、あるいは、ジャコの影響なくしてエレクトリックベースを弾くことができないのと同じように、現代のあらゆる人文社会思想をめぐる語りにおいて、レヴィ=ストロースと無関係でいることはできない。
心からご冥福をお祈りします。
で、己斐のパソコンも死にました。クロードさんと同じ命日
そんでこの際思い切ってMacbookに乗り換えることにした。
ついに脱Windowsや。さようならビルゲイツこんにちはスティーブジョブズ
お金を貯めてほかに買おうと思っていたものは買えなくなったけれども(かめらとか・・)、まあ、そんなもんやろ。
今日納品です。wktk
マッカーの皆さんはよろしく
とりあえず今はOfficeの入手ルートを検討中。こんにちはビルゲイツagainあと、Adobe製品とかは入ってるのかしら。
2009年11月1日日曜日
My Favs①
11月ハジマタ
ナンテコッタイ/(^o^)\
とりあえず今月中に卒論の第一稿完成を目指します!
今日から再開じゃ。
なんかダークの人たちがホムペでCD紹介をしているようなので僕もお勧めCDをレコ評していくシリーズを始めたいと思います。
エリントンのCDのレビューはしません。
で、第一弾はこれ。

Marcus Miller『M2~Power and Grace~』(2001)
であります
マーカスさんが2001年に発表したソロ作で、彼のグラミー初受賞となった作品らしいです。(Best Contemporary Jazz Album部門だったけか?)
僕が多分高2くらいのときに買ったCDで、それはもう大好きでした。今はもうあまり聴きませんが、マーカスのソロ作の中で一番良い作品だと思います。
このCDではですね、もちろんマーカスのハイパーなベースプレイが炸裂してます。
トレードマークのギラ②スラッピングをはじめとして、流麗なフレットレスでの演奏からシンセベース、バスクラ(笑)まで狼藉三昧です。
しかしそれらすべてが極めて音楽的でして、普通のベーシストのソロアルバムのように、ただバカテクを駆使して弾きまくるだけでなく、スタイリッシュな音楽に完璧に昇華しているのが素晴らしいです。
だからベーシストじゃなくても楽しめます。
このへんは本当に、マーカスが名プロデューサーであることの証左だとおもいます。
非常に豪華なゲストミュージシャンたちの持ち味も最大に引き出されていて、ベース以外にも聴きどころ満載です。
ケニー・ギャレット、ブランフォード・マーサリス、ウェイン・ショーター、ジェームズ・カーター、ハービー・ハンコック、オマー・ハキム、ラファエル・サディーク(!)といった面々が参加しているのですが、この人たちのクレジットを見て、これ以降僕はJazzのCDを買うようになり、音楽の幅が広がるきっかけにもなりました。
ジャコも言っているように、ベースはハーモニーとリズムを架橋する役割を果たす楽器であり、ベーシストはアンサンブルのすべてを把握していなくてはいけません。メンバーの個性を理解し、それを最大限に生かすべく作曲し、アレンジし、ベースプレイで即興をインスパイアしていく。そのすべてを高次元で実現しているという意味において、このCDはまぎれもない「ベース」のアルバムだと言えるでしょう。
マーカスの音楽は、CD屋ではたいてい「ジャズ/フュージョン」に並んでいるんだけど、気に入っているのは、それが独特のクラブミュージックテイストをまとっているところ。それもハウスとかテクノではなくて、ヒップホップやR&Bといったいわゆる「アーバン」と呼ばれるジャンルの香りがするところが良いのです。
だから、ラファエル・サディークやTake6、コリーヌ・ベイリー・レイといったソウル/R&B系の客演陣とも絡みが抜群によいのも納得ですね。
多分、この『M2』において、「ビバップ+アーバン」という公式のもとに成立すると思われるマーカススタイルはひとつの完成形を見ています。
レゲエ風のフィールを帯びた打ち込みトラックの上でドタマから渾身のスラッピングテクニックを炸裂させる“Power”、コルトレーンへの溢れる憧憬と敬意を示しつつもクラブミュージック世代ならではの新解釈を施した”Lonnie's Lament”、愛娘ニッキーに捧げたハートウォーミングな小品“Nikki's Groove”、ハービー・ハンコックと激渋の掛け合いを聴かせる”Goodbye Porkpie Hat”、そして「チュニジアの夜」の進行をファンクビートに乗せたクールなトラックの上でジェームズ・カーターがフリークトーンを爆発させる“3Deuces”まで、どこを切ってもギラギラした魅力に溢れた名盤です。
ぜひ一度聴いてみてください。
ナンテコッタイ/(^o^)\
とりあえず今月中に卒論の第一稿完成を目指します!
今日から再開じゃ。
なんかダークの人たちがホムペでCD紹介をしているようなので僕もお勧めCDをレコ評していくシリーズを始めたいと思います。
エリントンのCDのレビューはしません。
で、第一弾はこれ。
Marcus Miller『M2~Power and Grace~』(2001)
であります
マーカスさんが2001年に発表したソロ作で、彼のグラミー初受賞となった作品らしいです。(Best Contemporary Jazz Album部門だったけか?)
僕が多分高2くらいのときに買ったCDで、それはもう大好きでした。今はもうあまり聴きませんが、マーカスのソロ作の中で一番良い作品だと思います。
このCDではですね、もちろんマーカスのハイパーなベースプレイが炸裂してます。
トレードマークのギラ②スラッピングをはじめとして、流麗なフレットレスでの演奏からシンセベース、バスクラ(笑)まで狼藉三昧です。
しかしそれらすべてが極めて音楽的でして、普通のベーシストのソロアルバムのように、ただバカテクを駆使して弾きまくるだけでなく、スタイリッシュな音楽に完璧に昇華しているのが素晴らしいです。
だからベーシストじゃなくても楽しめます。
このへんは本当に、マーカスが名プロデューサーであることの証左だとおもいます。
非常に豪華なゲストミュージシャンたちの持ち味も最大に引き出されていて、ベース以外にも聴きどころ満載です。
ケニー・ギャレット、ブランフォード・マーサリス、ウェイン・ショーター、ジェームズ・カーター、ハービー・ハンコック、オマー・ハキム、ラファエル・サディーク(!)といった面々が参加しているのですが、この人たちのクレジットを見て、これ以降僕はJazzのCDを買うようになり、音楽の幅が広がるきっかけにもなりました。
ジャコも言っているように、ベースはハーモニーとリズムを架橋する役割を果たす楽器であり、ベーシストはアンサンブルのすべてを把握していなくてはいけません。メンバーの個性を理解し、それを最大限に生かすべく作曲し、アレンジし、ベースプレイで即興をインスパイアしていく。そのすべてを高次元で実現しているという意味において、このCDはまぎれもない「ベース」のアルバムだと言えるでしょう。
マーカスの音楽は、CD屋ではたいてい「ジャズ/フュージョン」に並んでいるんだけど、気に入っているのは、それが独特のクラブミュージックテイストをまとっているところ。それもハウスとかテクノではなくて、ヒップホップやR&Bといったいわゆる「アーバン」と呼ばれるジャンルの香りがするところが良いのです。
だから、ラファエル・サディークやTake6、コリーヌ・ベイリー・レイといったソウル/R&B系の客演陣とも絡みが抜群によいのも納得ですね。
多分、この『M2』において、「ビバップ+アーバン」という公式のもとに成立すると思われるマーカススタイルはひとつの完成形を見ています。
レゲエ風のフィールを帯びた打ち込みトラックの上でドタマから渾身のスラッピングテクニックを炸裂させる“Power”、コルトレーンへの溢れる憧憬と敬意を示しつつもクラブミュージック世代ならではの新解釈を施した”Lonnie's Lament”、愛娘ニッキーに捧げたハートウォーミングな小品“Nikki's Groove”、ハービー・ハンコックと激渋の掛け合いを聴かせる”Goodbye Porkpie Hat”、そして「チュニジアの夜」の進行をファンクビートに乗せたクールなトラックの上でジェームズ・カーターがフリークトーンを爆発させる“3Deuces”まで、どこを切ってもギラギラした魅力に溢れた名盤です。
ぜひ一度聴いてみてください。
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