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なんかカウンターが止まった。絶対アクセス伸びてるけど。
まっ、いっか。3182ってなんか呪いの数字なんかもしれん。
えっ、Lostの見すぎだって?なんか普段と文体違うって?
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今日は京都駅の臨時観光案内所でアルバイトでした。
紅葉シーズンのこの時期限定で京都市や京都コンベンションビューローがやっているサービスで、僕が一回生だったときにスタートしたものです。
僕が所属するサークル、グッドサマリタンクラブからは外国人対応要員として毎年人員が派遣されており、僕も去年はやらなかったんですが、1、2回生のときはやらしてもらってました。今日は突然都合が悪くなってシフトに入れなくなった友達の代わりに入りました。
今日だけで外国人日本人合わせて1000人以上が臨時観光案内所を利用し、京都の観光ビジネスの市場の大きさを実感しました。
毎年このバイトやると京都の交通機関に精通してしまうわ。
もう今年はいろいろきかれてもパッパと答えられるし、「わしも京都に詳しくなったよのぉー」と思いました。
日本の人口が1人減っても、外国からの観光客が7人増えれば同じだけの経済効果を得られるという試算があるという話をある人物から聞いたことがあります。
これからhyper depopulationの時代に入る脱産業日本にとって、ツーリズムはとても重要な意味を持ってくるし、様々な形で外国人が訪れやすい環境を作っていく必要があると思う。
しかしどうして外国人は日本ないし京都を訪れるのだろう?何を求めて彼らは来るのだろう?といつも思います。
彼らが見たい日本とはなんなのでしょうか。
その形はさまざまであり、必ずしも実際の日本(京都)の現状とは一致しないと思います。
単純なエキゾチズムの需要に迎合してはならないと思うし(これは実際ネパールなどの途上国の観光業界では起こりつつある深刻な現象です)、ビジネス的な側面と文化財(tangible & intangible)保存を両立しなければならないと思います。
観光業は、常にあるひとつの問いを潜在させていると思う。それは「本当の○○とは何か?」という問いです。
僕はグッドサマリタンクラブに所属し4年近く京都で通訳ガイド活動を行い、その技術を発達させ自らに浸透させていく中で、自分のガイドによる媒介のオーセンティシティ(真正性)への問いかけを、いっそう拡大させ、それまで自明であった「オーセンティック」の前提をどこまでも掘り崩してきました。それはこれからも同じだとおもいます。
かつて、「本物」は単一でした。しかし、観光業の発達により、あたかも本物の京都の断片的な鏡像として、複数のオーセンティシティが生み出されてしまっているように感じます。
旅行会社、ツアコン、地方自治体、宗教法人などから構成される京都の観光ビジネス市場は、現実の単一性をフィクションに替え、ツーリストはすでにオーセンティシティの多層的なレイヤーで構成された世界を旅しているかのようです。
何を言っているかわからないと思いますが笑
例えば、友達と喋っているとき、話す内容の真偽は問われうるとしても(はいはい、僕のことですね)、友達の存在とか、キャラまでは疑いようがないですね。
しかし、極東の異国、日本を訪れ、その文化に触れる外国人旅行者にとって、対象たる「日本」の「真正性」はきわめて不確かだとはいえないでしょうか。これは僕が海外旅行に行ったときに得る感覚でもあります。とはいえ、訪れる国が自分の中で不確かだからこそ、その単一の真正性を保証するものが何もないからこそ、スリリングだとも言えるでしょう。私見ですが、「異国情緒」「旅情」といったものの正体は端的に言ってこの不確定性なのではないかと考えています。
さてこの不確かさを踏まえて、観光を考えてみます。
まず、多くの外国人観光客がツアーやガイドを利用するのはなぜか。ここではおそらく、旅行会社のツアーガイドによって提供される情報が「日本」の真正性を代替しているのでしょう。言ってみれば、「ツーリスト-ガイド」という人間関係における文脈的リアリティとでも呼ばれるべきものですね。
そして、半ばは論理的な必然として、日本はそれを媒介する「観光」の形式に従って変化する、という確信がもたらされます。
穏当に言い換えるなら、観光はオーセンティシティの文脈を部分的に決定する、ということになります。同じ情報であっても、それがガイドブックにかいてあることなのか、ガイドの言葉で語られたことなのかによって、まったく異なった意味に受け取られうるという事実。
観光業とはつまり「コンテクストを与えるもの」にほかならないわけです。
観光ビジネスは、「意味」を伝達するためのインターフェイスを提供することによって対価を得ています。したがってサービスにおいては、内容と媒介手段とがきわめて緊密に結びつくことになります。したがって観光業の限界について検証することは、すなわち観光ビジネス市場が消えてもオーセンティックな日本を伝えうるかという問いを批判的に検討することにつながります。
(観光論については多くの研究書があり、不勉強な僕が語るのもはばかられるのですが、)
観光業論には大きく分けてふたつの形式があると考えられます。ひとつは、歴史都市京都についての情報が伝達され蓄積され共有されることの効果を中心とするものです。これはかなり現実的な議論であって、その重要性については疑問の余地はないですね。問題は、観光業の発展そのものが外国人観光客に及ぼす影響について、それのみに限定した議論を試みることです。
観光業の発展が持つインパクトは、それが剥き出しの日本を伝達可能な形に変換するだと考えるなら明らかでしょう。
卑近な例をあげると、ガイド技術でもっとも重要なものに「通訳」があります。一般的には寺社のあちこちにある掲示を英語にして読み上げたり、ランチしに入った飲食店でメニューを英語で説明したりすることを指すのですが、最も広義には、「ある言語を別の言語に変換する」こと全般を意味しますね笑
この意味では、なぜ禅寺の廊下は鴬張りなのかを説明したり、舞妓体験をしている人を指差して「あれは本物ではない」と言ったりすることも通訳に含まれます。つまり、ツーリストが見るもの聴くもの感じるものの意味を理解可能な形にする、言い換えるなら、人間の視覚聴覚触覚嗅覚味覚に適合させるための技術なのであります。ガイドの意義はここに束ねられていますし、ツーリズム全般に拡張してみても結局は同じです。
僕の考えでは、観光業は、循環する貨幣の欲望に縛られたリビドー経済の中で、究極的には、どれだけオーセンティックなイメージを独自に生成しうるかという課題を担わされています。そしてその「オーセンティック」が、外国人が求めるものの最大公約数に近ければ近いほど良い。
もし観光ビジネスが隆盛を極めて、ツアコンや旅行会社が独自に、どんなに詳細なガイドブックよりも有益な情報を伝達しうることに成功したらどうなるでしょーか。
業者がオーセンティシティを伝達するのではなく、業者がオーセンティシティを生成すると言う事態は何を意味するのでしょうか。
もしそれが可能であるなら、「観光」の意義全体が、大きな転回を強いられることになります。少なくとも観光にまつわる議論は、その存在論的な地位の正当性を獲得するでしょう。しかし、さしあたりそれは不可能ですわ。さらに言えば、今後ともずっと不可能でしょう。
伝えるべき内容、「日本」を尊重しないわけではないですが、広く展開された観光業に多くのツーリストが依存せざるをえないということは、そこに過剰な「オーセンティシティ」が宿っているということでしょう。
既に述べたように、独自の真正性の生成ができないことは自明です。どんな「オーセンティック」も、観光のうえでは、訪問地たる「日本」とは切り離しえないわけです。
ここのところをしっかり意識しないと、ただただYokoso!Japanとか叫んでいるだけでは、良くないことになるでしょう。
どういう風に良くないかは、ちょっと、わからないですが・・・
生物多様性保存とかと一緒で、伝統文化保存とか文化財保存て、その意義を説明しろと言われたら弱いんよな。
その辺の話を、日舞とか茶道とかやってる人と語りたいなーー笑
みたいなことを、京都検定1級取得者のおじさんたちとずっと話してました。
さぼってはないです。
観光っていう側面から文化を考えたことは無かったので、今回の文章を見てて、単純だけど面白いなと思いました。
返信削除僕は日舞も茶道もやっていないけど、「何ちゃって観光客」と「日本オタク」の程よいバランスが、京都ないし日本の観光を支えているのかなと思っています。
文化って言ったらとても崇高な響きがあるけど、こんな流動的なものはないですよね。
文化は間違いなく観光資源であり財源なので、うまく利用していかなければなりません。
返信削除ただしバランス良くやらないと保存と両立できないというジレンマないしトリレンマ。
京都の観光ももっともっと良くなる余地はあると思う。日本の観光政策に期待。
日舞とか茶道とかやってる人です、ハイハイww
返信削除あやぱん代理したのね!!スバラシイ!!
わたしはそれこそ、お茶会で忙しかったのでした。
それから、ライブもおつかれさま。
オーセンティシティ、真正性って、なんかおもしろい言葉を使いますね。
わたしはhkoiのように考えながら日本文化を学びに行ってたわけじゃないから、うまく口で説明できんけど・・・><
複数の真正性が生み出されてるのは、間違いないと思うね。ツーリストのみなさんにとって、いわゆる日本人にとっては”違和感のある”日本の姿をあえて見せ付ける、で、誤解したまんま本国に帰って”やっぱり日本はそういう国なんだ”とか思ったままのツーリストさんも五万といるでせう。
わたしもサマでガイドするときは、やっぱり自分が出来うる限りの”正しい”京都っていうものを伝えたい、と思っているけどそれさえほんとに正しいのかはわからない・・・・・・・・・堂々巡りになってしまうね!!
ということなので、自分で体験してみようと日舞とか茶道したけど、それもやっぱり、お師匠さんから自分に伝わるときに、お師匠さんの技ってのはそのままそっくり自分に伝わるわけじゃないんだよね。どことなく、その人の体型や癖、一緒に習うお弟子さんたちとか、そういう諸々の条件から自分なりの姿になって、それはとってもいいことで、オリジナリティが出て、そこからが自分の「道」の始まりだと思うのですが。
そうやって、お師匠さんとはまた別のじぶんの「道」がついてきて、自分のモノにしたな、体得したなってじっくり実感できたときに出てくる言葉とか、動作とかは、「本物」なのかもしれないね。そういうものを言葉でツーリストに伝えたい!!けど、3年間は短すぎた・・・・・感があります。これからどんどん年を重ねて、ずーっと経ったときに、自分がどんな言葉を伝えられるんだろう、ってのは楽しみですが。(対日本人でも、ツーリストでも。) 来たばかりのツーリストが、異国情緒を味わうのはとっても素敵なことだし、よきかなと思うね。だけど、もっとニッポンに突っ込んで踏み込んでみたい!!って思うツーリストのニーズに応えられるようにするには、観光バスでぐるぐる名所めぐりしたり、自分らだけでちょっとかいつまんだりするだけじゃなくて、そういう「本物」を求めて学んでる人(それは日舞とか茶道だけじゃなくて、サマリタンでしてきた勉強会だって、そうだと思うよ~)とか、むしろ「本物」を自分なりにその中に確立してる人と話をしたりするのが一番いいのかもね。やっぱり、異国ではその土地の人との生々しい触れあいがないと、風景の奥行きは広がらないんですねーww
長文失礼いたしました。
うーん、せやねんせやねん!
返信削除読みながらめっちゃうんうんうなずいてしまったよ!
旅行先でのローカルとの触れ合いが重要なのは実感としてあるし、自分がガイドする時は、京都を訪れる人々の思い出に、旅行代理店のツアーとかでは得られない奥行きを与えていきたい。
それが特定の意味において本当に日本的かどうかは副次的な問題なのだろうけど。ま、所詮学生ガイドだし。とは思う。
僕は伝統芸能を習っている訳ではないし、どちらかというと疎いのでまだまだ本物じゃないなと感じるけどね。そうやっていろいろ習い事とかしてガイドをエンハンスしている人たちはほんまにすごいと思う。あ、Tさんもかwwwwwww