2009年10月25日日曜日

東京大学のアルバート・アイラー感想+P.wave lab振り返り

昨日はP.waveの打ち上げ的なSomethingでした。そのいっぽう人知れず「東京大学のアルバートアイラー」を読了しました。


さてさて、ジャズ系に入って、傑作と言われるジャズのCDたちを聴きだして、さらにそれとは別でジジェクとか斉藤環とか齧り齧りしていた2回生の私が「マイルスは神経症的主体でトレーンこそ統合失調症だ!」と思ったのは、マイルス・デイビスはスイング~ファンク~ヒップホップと、時代ごとに父権的だったビートを下敷きにして即興音楽を作っていたり、マイケルジャクソンやビートルズとかポップスターの真似をしたり、「フリー」というパンドラの箱の存在に気づいていながら黙って「モード」にとどまっていたりしたのに対し、ジョン・コルトレーンはバカテク天才インプロバイザー&コンポーザーだったにも関わらず、あっさりフリーにいっちゃってポピュラリティの追及を放棄し、「宇宙」とか「私は神になりたい。まじで」みたいな発言をしはじめたからである。
つまり、マイルスは抑圧的な現状に迎合し続けるという意味でオイディプス帝国主義の虜囚だったと思ったわけですわ。
一方でトレーンは、循環する貨幣に握られた社会の欲望の型にはまることはなかったけれど、結果的には革命的な欲望が現代の社会にぶつかって敗北した姿そのもののように思えた。

でも『東京大学のアルバート・アイラー』ではそういう整理の仕方はされていない。
むしろ、平均律~バークリー・メソッド~MIDIへと連なる機能和声による作曲/演奏法を一貫して「モダニズム」の運動ととらえ、そこを軸としてモード奏法の発明でバークリーメソッドの外へとジャズ、ひいては北米のブラックミュージック全体を解き放ち、20Cの初頭にすでに出現していながら機能和声理論による分析を拒んでいたブルーズという音楽の初期衝動を蘇らせたマイルス・デイビスをこそ、音楽史におけるスキゾフレニーの登場としてとらえている。まあスキゾという言葉は菊池さんは使ってないんだけど、菊池さんによればブルースの登場時点で、MajorとMinorを共在させるというそれまではなかった方法で複数性を表現できるようになっていた。この、アフロアメリカンが本来的に持っていた脱構築的なブルース衝動―――メランコリーを統合失調に消化するという技法―――がモダニズム運動の慣性に引きずられていったん抑圧されたのを、もう一度マイルスが引っ張り出したということになっている。

だから菊池さん的にはマイルスこそモーセであり、モダニズムの極北をいく存在だったということらしい。モードの時点でバークリーメソッドでは分析できないということなので、これはこれで納得。トレーンは即興法を硬派に追求した結果、ビバップ~モードを通ってスペースに行っちゃった人だから系統が違うらしい。
今月のJazz Lifeのインタビューでリチャード・ボナも、「マイルスバンドの演奏を、音量を絞ってらっぱの音だけ取り出して聴くと、彼はブルースそのものを演奏していたということがわかる」と言っていた。深い。それしか言えん。

なんつか、しかしその「単純化された機能和声の理論による作曲」という流れとそこから逸れていく流派を固定的に対置して、(端的に言ってマルクス的なものからの逃走の文脈において)ジャズの歴史全部を説明しているところがニューアカそのものなんだよなぁ。。菊池さんは文庫版のあとがきで「この本はアンチ・ニューアカデミズム」とか書いてるけど、あもっくそニューアカが香ばしいのですが。まあ別に悪いことじゃないと思うわ。僕は宮台さんとか濱野さんとかの00年代の批評を通った世代がポップミュージックの歴史をどう解釈するかに興味がある。

で、楽理の発展史的には、平均律~バークリーの分析を拒むような形式の誕生こそが近代合理主義の超克だったらしい。そんで、MIDIが登場して音楽がさらに規格化されちゃって、それへの抵抗としてジャズミュージシャンたちはプレイヤーとしての意匠をさらに強化し、正統派モダン・ジャズ回帰、フュージョン/クロスオーバー、フリーインプロに走って行ったというのが、『アイラー』では結論として、ジャズの「ハイパーモダニズム」だとされています。確かにリビドー経済の欲望の型から脱したという意味では成功した「逃走/闘争」であると思うし、結論としてはきれいですな。しかし僕はポピュラー音楽はまた別の側面においてポストモダニズム(あーこの言葉使っちゃった^^;)を経験していると思っていてですね、ちょっとそれについて書きます。

とりあえずP.WAVE.LAB..というバンドについての話。
今年のジャズパーティとオト回廊にてパフォームした実験音楽バンドです。
P.Waveがやったのは、デューク・エリントン、エリック・ドルフィー、クロード・ドビュッシー、トム・ヨークといった過去の偉大な作曲家の作品を切り貼りし、一つのステージに再構成することでした。サンプリングという、MIDIと並ぶ素晴らしい発明品を駆使してですね。
でもこの手の音楽やると必ず目くじら立てて批判してくる人々がいるわけです。じゃずぱでMatsuba氏の隣に座っていた「・・・こいつらッ!」という顔芸を披露していたおじいちゃんがそうだったかはわからんけども、サンプリングにアンチの人たちは大体、「芸術の持つ一回性」がとか、「オリジナルのオーセンティシティ」とか「アウラ」がどうのこうのと言う。
しかし私は、サンプリングを駆使した音楽において行われているのは「文脈の差し替え」であり、アウラの再生産なんだと声を大にして言いたい。

ここまで書いて思ったが、メンバーの一人なのに自分のやったことに注釈いれるのも変ですね。まあ発案者じゃないから良かろ(?)

とにかく、文脈の差し替えは悪いことじゃない。それによってオリジナルの持つインパクトを効果的に普遍化できるわけです(ここではオリジナルが何かという話はひとまず保留)。パウロがキリストの磔刑を勝利と解釈し、ラカンがフロイトを鏡像段階のソシュールをとおして読んだようにですね。
客も違えば演奏された場所も時間も違うわけだから、たとえばCDに閉じ込められた録音ですら完全に同じ反復をすることはできないでしょ。ましてや、ドビュッシーとRADIOHEADが西部講堂で並べて演奏される状況とか(しかもホットケーキ調理中に!)、「アラベスク」が作曲された時点では考えられなかったはずです。私たちは場所とか時間とか客とか演奏方法とかいろいろ新たに文脈を付加して、オリジナルの持つ意味を変化させる。だから極端な話、どんなにサンプルてんこ盛りの音楽でも、たとえば毎回まったく同じリストでプレイするクラブDJがいたとしても、その一回一回がスペシャルなものでしょ。
P.waveで気に入ったのは、「After music is over~」ていうドルフィーの名言も再生しちゃったところ。これって電子楽器とかサンプリングといった手法にアンチな人々に対する痛烈なアイロニーになっていると思ってですね。つまり、おまえらがどんなに嫌いなサンプラーとかCDJで作られた音楽でも、この西部でこの時間に生起した出来事としてのShowcaseは、「You can never capture it」ですよという。一回性を条件とするアウラの生成を宣言しているわけですね。さらに、それをDolphyの引用によって行うことで、メタ性も付加している。これはTsubasaの人生最大のファインプレイと言わざるを得ない。

学生のフルバン(特にベイシとかエリントンを完コピする集団。アレンジャーいるとことかは別で)を、音楽的な新規性の無さをやり玉にあげて鼻から毛嫌いする人もいてる(僕もかつてはそっち側だった気もする)が、これを一種のサンプリングと考えると、単なるコピーでも新たな価値が付加されていることは明らか。学バン文化はビッグバンドによるスイングジャズという形式がもつ新しいポピュラリティの発現なのだ。極めてアリストテレス的なアイデアで恐縮ながら、ビッグバンドジャズは、それが生まれた世界大戦期のアメリカではたまたまダンスホールで演奏されていたにすぎず、内在する慣性力のようなものによって、21世紀の日本でも続く演奏者の伝統と新しい聴衆を獲得したのだとも言える。

学術論文の価値が後日、同業者に引用されまくることによって決定されるように、音楽においてもオリジナルが作曲された時点ではまだその価値や意味の系列は定まっていないのです。
実際、ハードバップ後期の、俗にファンキージャズと呼ばれる一群の録音の中には、90年代に入ってからクラブミュージック世代によって再評価され、名盤となった作品も多い。Pete RockやCL Smooth、Lord Finesse、Large Professorといった東海岸のヒップホップクリエイターたちは、ニューヨークが育てた文化の象徴として「ジャズ」をサンプリングし、自らのアイデンティティとしていった。本当にドナルド・バードとかボビー・ハッチャーソンをベタ敷きにして。
別の歴史的契機への移植によって、オリジナルは新しい真実性と価値を獲得する。そしてその新しい付加物とともに再生されるバードの録音は、まったく別のアウラをまとうことになるのだ。

サンプリングはクラブミュージック生産の基本テクとなり、ジャズだけに限らず、オールド・ソウルやファンク、ダンス・クラシックスなども新しい歴史的契機への植え替えを次々に経験した。
そして、サンプリング技術の進歩はさらなるポストモダンな経験を、メタファー/象徴としての「ジャズ」に強いることになる。
ニューヨークのヒップホップユニット、GangsterrのトラックメイカーDJ Premierは、「チョップ&フリップ」と俗に呼ばれる技術で、サンプリングネタを、オリジナルを判断するのが難しいレベルにまで細かく裁断し、それをサブリミナル効果的に散りばめたトラックを次々に生産した。上記したように、それまではモロ使いが主流だったにもかかわらず。
ここにおいて完全にオリジナル/非オリジナルの二分法は意味をなさなくなった。Guruは、自分でも把握できないほどに元ネタを散種することによって、マイルスとは別の意味においてジャズを砂漠へと解き放った。
さらに90年代も後半に入ると、ロサンゼルスの鬼才Madlibが、そうした「サンプリング元ネタの名曲」を、もう一度生楽器(全部自分で演奏。超ヘタクソ笑)で再構築するという二重の脱臼をやってのけた。彼はヒップホップに記号論を持ち込み、思想としての音楽を体現するのが東海岸のリリシストたちだけではないことを身をもって証明した。
(ほとんど北米の話に限定されちゃいましたけど、そのへんはサーセン。僕はUKとか欧州でのブラックミュージックの流れには疎いんです。ジャイルス・ピーターソンとかさ。そのへんに詳しい人が語ったらまた違うと思う)

はい、そんで僕たちの青春、00年代です。製作面でのテクニカルなイノベーションを経て、オリジナルと引用の二分法が崩れた後の時代、音楽のモダニズム運動は、コンテンツを伝達する情報技術のイノベーションによりさらに加速されました。

最初から行きます。かつてヴァルター・ベンヤミンは、『複製技術時代の芸術作品』の中で、かつて絵画・彫刻などの芸術作品は、「いま・ここ」に現前しているという「一回性」において「アウラ」を持ちえたが、19世紀に台頭した写真や映画などの複製技術は、その「一回性」の条件を奪ってしまったと論じました。ベンヤミンの考えによれば、芸術作品の「アウラ」は「一回性」という経験の条件、つまりその対象がオリジナルであり、「いま・ここ」という一回限りの場において知覚、経験することで支えられているんですね。しかし、映画や写真やレコードといった、コンテンツを大量に複製してしまう技術の出現は、その「一回性」を奪ってしまうという。
この構図は長年支配的であり、たびたび参照されてきたものだけれども、所謂ニューメディアが登場したことと、それを爆発的に普遍化させたブロードバンドの人口への傀儡によって、芸術作品を取り巻く環境はさらに変化しやした。われわれはベンヤミンを超えて、音楽を含めた芸術の存在様式を読み替えていく必要があると思います。
iTunesで音楽買って、あるいはYoutube上の動画の音声データだけタダで取り出してアイポッドに同期して聴いたり、それをもとにミックスした音源をライブで使える時代ですから。

レブ・マノービッチは「ニューメディア」を定義して、表象するものが不連続で理算的であるメディアだとした。(The Language of New Media, MIT Press, 2001)その意味でニューメディアが対象とするのは、常に「データ」なのである。この定義は必ずしも電子的な媒介物を含意していないが、情報技術の進歩がなければ現れることがなかったのは明らかだ。ちょっと本筋からそれるかもだが(笑)、近年の情報技術の革新と普及を美術史におけるエポックととらえ、広くデジタルデータ化された芸術作品全般とそれをめぐる知覚と経験の変化について論じていきたい。

ニューメディアが、コンテンツが「データ」であることをその最大の特徴とするなら、ニューメディア時代の芸術作品は情報理論のロジックに服従的であるはずだ。つまり、情報の、それ自体としては決して現前することがないという特徴を芸術作品も持たざるを得なくなるのである。ジャック・デリダはテクストという身体を与えられた言葉を「パルマコン」として話し言葉から決定的に区別した。話し声は現前の感覚を含意するが、書くことによって、言葉は、その場面には不在である者への書き込みへと変更された。電子メディアの登場は、この変形をさらに進めたといえるだろう。テクストの登場によって失われていた、語の本来持つイメージとしての感覚が、コンピュータによって回復されると述べたのは、英文学者のキャサリン・ヘイルズである(How We Became Posthuman, The University of Chicago Press, 1999)。ヘイルズによれば、情報技術の発展に従って、言葉は物質的に耐性のあるテクストでなく、電子的なイメージと相互作用するようになった。ニューメディアの時代において言葉をとらえるには、現前と不在の二分律よりも、情報理論のようなパターンとランダムネスの弁証法的関係が有効だという。しかしヘイルズは、それを物質的世界の消失と取り違えてはならないことを強調する。物質的インターフェイスの変化こそがこの転換を引き起こしたのであり、パターンとランダムネスの弁証法は、物質的世界を消去していない。ニューメディアが生み出した語の意味作用の変化は、その消費様式の変化に結びつき、新しい身体経験を引き入れているのである。

ヘイルズが述べたのは主に文学テクストの生産の文脈においてであろうが、この変化は、音楽を含めた他の多くの芸術作品の形態においても現れているといえよう。フロイトのような存在論になるが、そもそも人間は常に間接的な代替イメージ、身体的刺激、あるいは他者の身体を手掛かりとしなければ己の身体イメージを確保できない。そうした中で、絵画や彫刻の身体経験は、間接的な表象実践の中で、人間が自らを見つめなおす際に強い力を持つ、きわめて凝集されたイメージとしての経験であった。それはまた、映画や写真では異なっている。映画や写真に写し取られた身体のイメージは、己の身体とそれを取り巻く状況を極めて生々しく与えてくる。バルトが『明るい部屋』で述べた「写真的エクリチュール」は、写真があまりにもあるがままであるがゆえに、現実との強い結びつきを有していることを説明する概念である(みすず書房、1985)。そして、ニューメディアの時代にあっては、もはやそのような区分ではとらえきれない身体性の存在様式の地平が現れているのではないだろうか。いまや表象されるコンテンツは「情報」なのであり、身体性は情報が現れる地点によって如何様にも経験されうる。

このことを踏まえると、さっきのベンヤミンの立場が、そもそもの前提から崩れ去ってしまうことは明らかだ。ポストモダニズムとシミュラクルについての議論はすでに語りつくされた感すらあるが、実際、データ化された可変的なコンテンツがネットワーク上を流動する現代にあって、何がオリジナルであるかは大した問題とみなされていないといえよう。これは、前述したような、サンプリング&MIDI時代のクラブミュージック生産者が行ったオリジナルと引用の脱構築のダメ押しである。端的に言って(!)、今日「いま・ここ」は遍在する。ニューメディアは、芸術が持つ「いま・ここ」性をも複製しうるのである。

例えばウェブ上でストリーミング配信されるような作品を考えてみる。これまでのメディアとの最大の違いは、オンデマンド型の鑑賞に適しているということになるだろう。現代人の多忙さを反映し、各個人が、自分の都合のよい時間に、自分好みのコンテンツを鑑賞できるこのような形態は、よりポピュラーになってきている。映画館やコンサートホール、美術館、あるいはお茶の間のテレビとは明らかに異なり、もはや鑑賞者たちは鑑賞の場を共有する必要がない。コンテンツはパケットに分解され、お互い物理的にはるかに離れた情報端末に分配され、それぞれに再構成される。「いま・ここ」はあらゆる場所に現れうる。マノービッチも、ニューメディアの別の特性として、モジュラリティという言葉を使っている。ニューメディアは、ある機能を持った統一体を一つ一つバラバラにでき、いつでも再構成できるのだ。これはある単一の身体をもった芸術作品では不可能なことである。ショウビズとしてスタートしたジャズ然り。

ニューメディアの席捲は芸術鑑賞における主体の自由度を高めているように見える。ではこの事態は手放しで歓迎すべきことなのだろうか。現実には一方で、情報アーキテクチャからの強い規制を受けるようになっているのではないか。再びヘイルズを参照すると、彼女は、情報の持つ、耐久財との決定的な違いは、それが保存された量ではないことであるとしている。インターネットを通じてやり取りされるファイルは、実際の物理空間上の交換とは異なり、どれだけコピーしても元のファイルが失われるわけではない。ヘイルズによれば、情報にとって持つ者と持たざる者を分け隔てる決定要因は、所有というよりアクセスであるという。アクセスという言葉はそれ自体エンコードとデコードに必要な暗号を生産者と消費者が共有することを要請している。電子メディア時代の語り手の形態は、物理的にはさまざまに現れうるが、その常数として、複雑なコードを操作する能力を持つとヘイルズは言う。コードの操作者として語り手を構築することで、読み手にも変化は起こる。デコーダーへと移行した読み手は、テクストを超えたコードの力に影響を受け続けるようになる。

コードという語の持つ意味は、文学作品との関係において、より強力になるのかもしれない。しかしコードの共有は、電子メディアに媒介された芸術作品全般の消費、鑑賞に必要な義務として付きまとうもののように思われる。単純にメディアリテラシーの問題へと解消できるものでもない。先にも述べたが、この問題は情報環境アーキテクチャに関わる。コンテンツとは無関係な電子メディアに媒介されることによって、主体と芸術作品を取り巻く世界は暗号に満たされるのである。そこで必要とされるのは解釈ではなく解読である。主体は自分の情報端末を通して見えるものを見えたままに受け取ることで、複製された「いま・ここ」性を感受しつつも、絶えずそのイメージを二重化しているコンパイラ言語を意識せざるをえないのではないか。そうした暗号を共有しているという事実において、時間的にも空間的にも別々にいる無数の鑑賞者たちは、同一の「場」を経験しているのかもしれない。視覚的聴覚的空間を攪乱し認識に時間的不一致を到来させるテレプレゼンスの「不気味な」体験について、デリダは郵便と電話のアレゴリーによって語った。電子メディアがもたらしている根源的な変動は一見このモデルと類似している。しかし芸術鑑賞に到来しつつあるのは、もはや空間的でも視覚的でもない世界と言えるのではなかろうか。マルチメディア世代の人間にとって、複製メディア体験が身体性を最初から取り込んだものであったことを踏まえれば、情報ネットワークを介した芸術鑑賞は、自らの身体が時間空間を超えて無限に拡大していくような主観体験をもたらすものである。そうした感覚の中で、それぞれの鑑賞者は、それぞれの「いま・ここ」性において「一回」しかない場を知覚している。これは印刷技術と映像的音声的複製メディアとの「緊張関係」をあまりに意識していた前世紀の複製メディア論の射程ではとらえきれない事態だろう。ニューメディア時代の芸術鑑賞者は、なんの抵抗もなくこの文化変容を受け入れられるため、形式と身体性において一体化することができる。認識と媒介のあいだに厳密な区分を設けることは、もはやできない。そしてそれゆえに、主体は意識せずして自由を奪われていると言えるだろう。

ニューメディア環境の下では、主体は解釈ではなく解読をするようになると述べた。これでは、暗号を用いてエンコード/デコードできる以上のものを、芸術は伝えることができなくなる。精神分析医の斎藤環は、コンピュータグラフィクスを例にとってこの話題を扱っている(『メディアは存在しない』NTT出版、2007)。確定記述の集積の、直接的な画像への変換であるCGには、決定的に「ノイズ」が欠けており、そこに表現力の限界が存在していると斎藤は言う。これはデジタルに取り込まれ、ダブ処理を施された音声データにも共通する特徴である。つまり、芸術にとって本質的であるはずの、記号レベルで実体化できない、明示できない要素が、CGやMIDIを含む電子メディアでは伝達できないというわけだ。これではますます一様な「解読」が要求されるようになり、主体の自由が脅かされる由々しき事態となる。
(ここで、すべてを「ザ・コモンズ」と化して公開してしまえば、コードを定める必要がなくなり、このような自由を奪われることもないという可能性が示唆されるが、その議論はここではひとまず保留しておく)

さて、ニューメディアは本当に主体から自由を奪うのだろうか。そして芸術からいわば偶発的な要素を取り去ってしまうのだろうか。この問題の自己解決の可能性を示唆しているのはまたしてもヘイルズのパターン/ランダムネスの弁証法モデルである。ヘイルズは、ニューメディア環境下にある主体が共有する一定のパターンをもったコードは、長大であるがゆえに、その一部にランダムな要素が混入した場合でも、全体に及ぼす影響が大きくなると主張する。電子的なノイズのような小さな変化が非線形な相互作用を引き起こし、いわば「質から量」への転化が、おこるという。その結果もたらされたランダムネスが新しいパターンとして認識されるようになり、コンテンツの変化へと連続していくという。

P.wave.lab..は、こうした情報技術革命と、それに付随する主体の不安とが切り結んだ地点に生まれ落ちたポストモダンジャズの鬼子である。われわれはヘイルズの指摘するような方法によってではないが、生楽器によるインプロヴィゼーション(+ホットケーキ)という要素を加えることによって、ニューメディアに媒介されて(過去から、そして現在から)運ばれてきたデジタルなコンテンツてんこ盛りのショウケースの中にも、可塑性を半ば強引に引き入れた。ニューメディア時代にあって、その技術的恩恵を最大に享受しつつも、ショウビズとしてスタートし、即興性を本質的な要素としていたトラッドなジャズへの敬意を忘れないことで、新たな形での自由を生成したのだ。
ここに、ジャズが向かうべき未来のひとつの形があるとでも言っておこう。



いろいろ講釈垂れましたが、デリダ先生によれば
「意味は真理を待ち受ける」(『声と現象』)そうです。

みなさん良い日曜日をば。

2009年10月18日日曜日

やっとリンクの貼り方わかった




おとといじゅーじやに立ち寄ったら、菊池なるよしの本が文庫になっていたので思わず買いました。

やっぱおもろいなーこういう本は。
ふだん読まないといけない専門書などとはページをめくるスピードがおのずと違ってくる。
それはそうと菊池さんの文体はザンギャフのそれに似ている。

この本を初めて読んだときは確か2回生か1回生の終わりだったけど、そのとき○らしたさんに「マイルスはパラノでコルトレーンはスキゾですね」とかいう話をしたら、
む○したさんには「いや、逆だろ」と言われて、僕はただ怪訝な顔をしていた気がする。

今読んだら確かに逆だと思った。

今日は嵐山に遊びに行く予定。

2009年10月5日月曜日

People Get Ready

昨日は天気が良かったので河原で仲間とキャッチボールなどしました。

出雲路橋のへんは芝生が広くて気持ちよいね。

平和すぎた。



その後遅刻しつつも「魚の会」へ。

Marusanを中心としたいつものグルメ会メンバーで海鮮料理くって酒とか呑みました。
久々にみんなと会えて話せてよかったです。
魚も美味かったし。

でも2次会残ったのは、AladdinとTaylor Oだけ。

4回生は最後のセメスターなわけだけど、なんだかんだ皆さん忙しいのかな?
僕ぁ結局かなりヒマなんだが。

このままだとかなり無為に日々を過ごしてしまいそう。
今日も結局何もしてねーや。ちょっと学校行ったけどね。

京都の人々と離れる前に、金と体力の続く限り遊ぶ所存。
みんな頑張りましょう。

2009年10月4日日曜日

旅行中考えたこと2

駄文が続いた気がするので今日くらいはまともなエントリーを書けたらよいと思う。


言語学者のソシュールは、「パロールは個人的なものでラングは社会的なものだ」と言っていて、これがおそらく一応言語学をかじったことがある人8割がたの通念だろう。なにも根拠はないが。


ソシュール先生には申し訳なく、わりと突拍子もなくてさらに申し訳ないのだが、

「ラング(文法)は個人的で、
パロール(発話)こそ社会的なものである」

という実感を得る瞬間が9月の旅行中に多々あった。


先月はシンガポールとオーストラリア(とネパール)という英語圏ないし準英語圏の国々をめぐったのだが、これらの国々では、きわめて異なるアクセントや特有の言い回しを携えた英語が話されている。

特にシンガポールではマレーやマンダリンの語彙をふんだんに借用した悪名高いSinglish、オーストラリアでは日本語で言う北関東弁のような田舎言葉(イメージです。。むしろIrishとかがそっちに相当するのか?Aussieは結構かわいいからね。広島弁?)Aussie Englishが話されている。

さらに、そこに飛び込んでいった僕が「話す」英語はどちらにも属しておらず、おそらく日本語的なラングを基本としてそれを補う形で構成された文法の上に、きわめてアメリカ的要素が強い語彙とアクセントを携えていると思われる。一応努力目標としているのはカナダ人の英語である。しかし周辺にいる何人かのネイティブによるとたまにシンガポール人のような訛りが出ているらしい。



例えば「コーヒー飲まない?」という単純な提案を行う場合、

シンガポール人なら「Join me for Kopi?」というであろうし、
オーストラリア人なら「Would you like a cuppa?」となるであろう。

ちなみに僕なら普通に「You wanna grab some coffee?」と言う気がする。
純正のアメリカ人なら「Hey let's hit a starbucks dude!」というところだろう。


(すごくわかりにくい例だし、十分じゃない)


とにかく、この劇的なSinglish~Aussie環境の転換を経て感じたのは、それでもコミュニケーションが成立するということは、一見ばらばらな個々人の発話は周囲の集団の中での社会的なプロセスを経て(きわめていい加減かつどうとでも解釈できる表現で申し訳ない)「英語のパロール」というレンジへと一種「翻訳」されているからではないかという可能性である。

つまり、世界中の英語話者全員が、ある普遍的で厳密な文法=ラングを共有しているからコミュニケーションが成立しているのではなく、コミュニケーションを担保しているのは言葉の使い方の緩やかで可変的な「同型性」なのではないかということだ。

文法というのは個人が、言語の生得的な能力をもとにしながら、他の人と言葉をつかってコミュニケートしながら作り上げるものだ。そのときには誰も文法なんて教えてはくれないし、自分の中で個人が自分なりに作り上げるしかない。僕自身もよく、まわりの人の話し方に影響を受けるのを感じるし、個人の中ですら固まっていないものだと思う。

ただ、ソシュール先生も言ったように、言語構造はとりあえず恣意的なのだが、世間にある程度フィットする形でしか作れないので、世間で流通しているコードにある程度合わせていくことになる。(僕もシンガポールで「Fair dinkum」などとは言わないし、オーストラリア人の男友達に対して「Dude!」と呼びかけることもない)

だが、それが自分の周囲でのコードに完全にあっているかどうかはわからない。というより、「これがAussie!」「これがSinglish!」という厳密なコードがあること自体が幻想であろ。

個人によって文法が少しずつ違うというのはそういう意味である。

しかしあまりにもめちゃくちゃな言語構造だと、言葉が通じなくなるので、修整せざるを得ない。それで少なくとも上に述べた「同型性」に関してはだんだん収斂していくことになるだろう。

そんで、ラングというのは自分の頭の中にあるだけでは何の役にも立たないので、必ず発話することになる。そこでコミュニケーションできなければパロールは成り立たないから、パロールは社会的なものだと思う。


うまく説明できたかな。
自分の文章の下手さ加減にほとほと嫌になるぜぃ。

ちなみに、僕は「社会的Social」という言葉があまり好きではないということは断っておこう。
修士でのボスは大好きなのだが。