2009年10月25日日曜日

東京大学のアルバート・アイラー感想+P.wave lab振り返り

昨日はP.waveの打ち上げ的なSomethingでした。そのいっぽう人知れず「東京大学のアルバートアイラー」を読了しました。


さてさて、ジャズ系に入って、傑作と言われるジャズのCDたちを聴きだして、さらにそれとは別でジジェクとか斉藤環とか齧り齧りしていた2回生の私が「マイルスは神経症的主体でトレーンこそ統合失調症だ!」と思ったのは、マイルス・デイビスはスイング~ファンク~ヒップホップと、時代ごとに父権的だったビートを下敷きにして即興音楽を作っていたり、マイケルジャクソンやビートルズとかポップスターの真似をしたり、「フリー」というパンドラの箱の存在に気づいていながら黙って「モード」にとどまっていたりしたのに対し、ジョン・コルトレーンはバカテク天才インプロバイザー&コンポーザーだったにも関わらず、あっさりフリーにいっちゃってポピュラリティの追及を放棄し、「宇宙」とか「私は神になりたい。まじで」みたいな発言をしはじめたからである。
つまり、マイルスは抑圧的な現状に迎合し続けるという意味でオイディプス帝国主義の虜囚だったと思ったわけですわ。
一方でトレーンは、循環する貨幣に握られた社会の欲望の型にはまることはなかったけれど、結果的には革命的な欲望が現代の社会にぶつかって敗北した姿そのもののように思えた。

でも『東京大学のアルバート・アイラー』ではそういう整理の仕方はされていない。
むしろ、平均律~バークリー・メソッド~MIDIへと連なる機能和声による作曲/演奏法を一貫して「モダニズム」の運動ととらえ、そこを軸としてモード奏法の発明でバークリーメソッドの外へとジャズ、ひいては北米のブラックミュージック全体を解き放ち、20Cの初頭にすでに出現していながら機能和声理論による分析を拒んでいたブルーズという音楽の初期衝動を蘇らせたマイルス・デイビスをこそ、音楽史におけるスキゾフレニーの登場としてとらえている。まあスキゾという言葉は菊池さんは使ってないんだけど、菊池さんによればブルースの登場時点で、MajorとMinorを共在させるというそれまではなかった方法で複数性を表現できるようになっていた。この、アフロアメリカンが本来的に持っていた脱構築的なブルース衝動―――メランコリーを統合失調に消化するという技法―――がモダニズム運動の慣性に引きずられていったん抑圧されたのを、もう一度マイルスが引っ張り出したということになっている。

だから菊池さん的にはマイルスこそモーセであり、モダニズムの極北をいく存在だったということらしい。モードの時点でバークリーメソッドでは分析できないということなので、これはこれで納得。トレーンは即興法を硬派に追求した結果、ビバップ~モードを通ってスペースに行っちゃった人だから系統が違うらしい。
今月のJazz Lifeのインタビューでリチャード・ボナも、「マイルスバンドの演奏を、音量を絞ってらっぱの音だけ取り出して聴くと、彼はブルースそのものを演奏していたということがわかる」と言っていた。深い。それしか言えん。

なんつか、しかしその「単純化された機能和声の理論による作曲」という流れとそこから逸れていく流派を固定的に対置して、(端的に言ってマルクス的なものからの逃走の文脈において)ジャズの歴史全部を説明しているところがニューアカそのものなんだよなぁ。。菊池さんは文庫版のあとがきで「この本はアンチ・ニューアカデミズム」とか書いてるけど、あもっくそニューアカが香ばしいのですが。まあ別に悪いことじゃないと思うわ。僕は宮台さんとか濱野さんとかの00年代の批評を通った世代がポップミュージックの歴史をどう解釈するかに興味がある。

で、楽理の発展史的には、平均律~バークリーの分析を拒むような形式の誕生こそが近代合理主義の超克だったらしい。そんで、MIDIが登場して音楽がさらに規格化されちゃって、それへの抵抗としてジャズミュージシャンたちはプレイヤーとしての意匠をさらに強化し、正統派モダン・ジャズ回帰、フュージョン/クロスオーバー、フリーインプロに走って行ったというのが、『アイラー』では結論として、ジャズの「ハイパーモダニズム」だとされています。確かにリビドー経済の欲望の型から脱したという意味では成功した「逃走/闘争」であると思うし、結論としてはきれいですな。しかし僕はポピュラー音楽はまた別の側面においてポストモダニズム(あーこの言葉使っちゃった^^;)を経験していると思っていてですね、ちょっとそれについて書きます。

とりあえずP.WAVE.LAB..というバンドについての話。
今年のジャズパーティとオト回廊にてパフォームした実験音楽バンドです。
P.Waveがやったのは、デューク・エリントン、エリック・ドルフィー、クロード・ドビュッシー、トム・ヨークといった過去の偉大な作曲家の作品を切り貼りし、一つのステージに再構成することでした。サンプリングという、MIDIと並ぶ素晴らしい発明品を駆使してですね。
でもこの手の音楽やると必ず目くじら立てて批判してくる人々がいるわけです。じゃずぱでMatsuba氏の隣に座っていた「・・・こいつらッ!」という顔芸を披露していたおじいちゃんがそうだったかはわからんけども、サンプリングにアンチの人たちは大体、「芸術の持つ一回性」がとか、「オリジナルのオーセンティシティ」とか「アウラ」がどうのこうのと言う。
しかし私は、サンプリングを駆使した音楽において行われているのは「文脈の差し替え」であり、アウラの再生産なんだと声を大にして言いたい。

ここまで書いて思ったが、メンバーの一人なのに自分のやったことに注釈いれるのも変ですね。まあ発案者じゃないから良かろ(?)

とにかく、文脈の差し替えは悪いことじゃない。それによってオリジナルの持つインパクトを効果的に普遍化できるわけです(ここではオリジナルが何かという話はひとまず保留)。パウロがキリストの磔刑を勝利と解釈し、ラカンがフロイトを鏡像段階のソシュールをとおして読んだようにですね。
客も違えば演奏された場所も時間も違うわけだから、たとえばCDに閉じ込められた録音ですら完全に同じ反復をすることはできないでしょ。ましてや、ドビュッシーとRADIOHEADが西部講堂で並べて演奏される状況とか(しかもホットケーキ調理中に!)、「アラベスク」が作曲された時点では考えられなかったはずです。私たちは場所とか時間とか客とか演奏方法とかいろいろ新たに文脈を付加して、オリジナルの持つ意味を変化させる。だから極端な話、どんなにサンプルてんこ盛りの音楽でも、たとえば毎回まったく同じリストでプレイするクラブDJがいたとしても、その一回一回がスペシャルなものでしょ。
P.waveで気に入ったのは、「After music is over~」ていうドルフィーの名言も再生しちゃったところ。これって電子楽器とかサンプリングといった手法にアンチな人々に対する痛烈なアイロニーになっていると思ってですね。つまり、おまえらがどんなに嫌いなサンプラーとかCDJで作られた音楽でも、この西部でこの時間に生起した出来事としてのShowcaseは、「You can never capture it」ですよという。一回性を条件とするアウラの生成を宣言しているわけですね。さらに、それをDolphyの引用によって行うことで、メタ性も付加している。これはTsubasaの人生最大のファインプレイと言わざるを得ない。

学生のフルバン(特にベイシとかエリントンを完コピする集団。アレンジャーいるとことかは別で)を、音楽的な新規性の無さをやり玉にあげて鼻から毛嫌いする人もいてる(僕もかつてはそっち側だった気もする)が、これを一種のサンプリングと考えると、単なるコピーでも新たな価値が付加されていることは明らか。学バン文化はビッグバンドによるスイングジャズという形式がもつ新しいポピュラリティの発現なのだ。極めてアリストテレス的なアイデアで恐縮ながら、ビッグバンドジャズは、それが生まれた世界大戦期のアメリカではたまたまダンスホールで演奏されていたにすぎず、内在する慣性力のようなものによって、21世紀の日本でも続く演奏者の伝統と新しい聴衆を獲得したのだとも言える。

学術論文の価値が後日、同業者に引用されまくることによって決定されるように、音楽においてもオリジナルが作曲された時点ではまだその価値や意味の系列は定まっていないのです。
実際、ハードバップ後期の、俗にファンキージャズと呼ばれる一群の録音の中には、90年代に入ってからクラブミュージック世代によって再評価され、名盤となった作品も多い。Pete RockやCL Smooth、Lord Finesse、Large Professorといった東海岸のヒップホップクリエイターたちは、ニューヨークが育てた文化の象徴として「ジャズ」をサンプリングし、自らのアイデンティティとしていった。本当にドナルド・バードとかボビー・ハッチャーソンをベタ敷きにして。
別の歴史的契機への移植によって、オリジナルは新しい真実性と価値を獲得する。そしてその新しい付加物とともに再生されるバードの録音は、まったく別のアウラをまとうことになるのだ。

サンプリングはクラブミュージック生産の基本テクとなり、ジャズだけに限らず、オールド・ソウルやファンク、ダンス・クラシックスなども新しい歴史的契機への植え替えを次々に経験した。
そして、サンプリング技術の進歩はさらなるポストモダンな経験を、メタファー/象徴としての「ジャズ」に強いることになる。
ニューヨークのヒップホップユニット、GangsterrのトラックメイカーDJ Premierは、「チョップ&フリップ」と俗に呼ばれる技術で、サンプリングネタを、オリジナルを判断するのが難しいレベルにまで細かく裁断し、それをサブリミナル効果的に散りばめたトラックを次々に生産した。上記したように、それまではモロ使いが主流だったにもかかわらず。
ここにおいて完全にオリジナル/非オリジナルの二分法は意味をなさなくなった。Guruは、自分でも把握できないほどに元ネタを散種することによって、マイルスとは別の意味においてジャズを砂漠へと解き放った。
さらに90年代も後半に入ると、ロサンゼルスの鬼才Madlibが、そうした「サンプリング元ネタの名曲」を、もう一度生楽器(全部自分で演奏。超ヘタクソ笑)で再構築するという二重の脱臼をやってのけた。彼はヒップホップに記号論を持ち込み、思想としての音楽を体現するのが東海岸のリリシストたちだけではないことを身をもって証明した。
(ほとんど北米の話に限定されちゃいましたけど、そのへんはサーセン。僕はUKとか欧州でのブラックミュージックの流れには疎いんです。ジャイルス・ピーターソンとかさ。そのへんに詳しい人が語ったらまた違うと思う)

はい、そんで僕たちの青春、00年代です。製作面でのテクニカルなイノベーションを経て、オリジナルと引用の二分法が崩れた後の時代、音楽のモダニズム運動は、コンテンツを伝達する情報技術のイノベーションによりさらに加速されました。

最初から行きます。かつてヴァルター・ベンヤミンは、『複製技術時代の芸術作品』の中で、かつて絵画・彫刻などの芸術作品は、「いま・ここ」に現前しているという「一回性」において「アウラ」を持ちえたが、19世紀に台頭した写真や映画などの複製技術は、その「一回性」の条件を奪ってしまったと論じました。ベンヤミンの考えによれば、芸術作品の「アウラ」は「一回性」という経験の条件、つまりその対象がオリジナルであり、「いま・ここ」という一回限りの場において知覚、経験することで支えられているんですね。しかし、映画や写真やレコードといった、コンテンツを大量に複製してしまう技術の出現は、その「一回性」を奪ってしまうという。
この構図は長年支配的であり、たびたび参照されてきたものだけれども、所謂ニューメディアが登場したことと、それを爆発的に普遍化させたブロードバンドの人口への傀儡によって、芸術作品を取り巻く環境はさらに変化しやした。われわれはベンヤミンを超えて、音楽を含めた芸術の存在様式を読み替えていく必要があると思います。
iTunesで音楽買って、あるいはYoutube上の動画の音声データだけタダで取り出してアイポッドに同期して聴いたり、それをもとにミックスした音源をライブで使える時代ですから。

レブ・マノービッチは「ニューメディア」を定義して、表象するものが不連続で理算的であるメディアだとした。(The Language of New Media, MIT Press, 2001)その意味でニューメディアが対象とするのは、常に「データ」なのである。この定義は必ずしも電子的な媒介物を含意していないが、情報技術の進歩がなければ現れることがなかったのは明らかだ。ちょっと本筋からそれるかもだが(笑)、近年の情報技術の革新と普及を美術史におけるエポックととらえ、広くデジタルデータ化された芸術作品全般とそれをめぐる知覚と経験の変化について論じていきたい。

ニューメディアが、コンテンツが「データ」であることをその最大の特徴とするなら、ニューメディア時代の芸術作品は情報理論のロジックに服従的であるはずだ。つまり、情報の、それ自体としては決して現前することがないという特徴を芸術作品も持たざるを得なくなるのである。ジャック・デリダはテクストという身体を与えられた言葉を「パルマコン」として話し言葉から決定的に区別した。話し声は現前の感覚を含意するが、書くことによって、言葉は、その場面には不在である者への書き込みへと変更された。電子メディアの登場は、この変形をさらに進めたといえるだろう。テクストの登場によって失われていた、語の本来持つイメージとしての感覚が、コンピュータによって回復されると述べたのは、英文学者のキャサリン・ヘイルズである(How We Became Posthuman, The University of Chicago Press, 1999)。ヘイルズによれば、情報技術の発展に従って、言葉は物質的に耐性のあるテクストでなく、電子的なイメージと相互作用するようになった。ニューメディアの時代において言葉をとらえるには、現前と不在の二分律よりも、情報理論のようなパターンとランダムネスの弁証法的関係が有効だという。しかしヘイルズは、それを物質的世界の消失と取り違えてはならないことを強調する。物質的インターフェイスの変化こそがこの転換を引き起こしたのであり、パターンとランダムネスの弁証法は、物質的世界を消去していない。ニューメディアが生み出した語の意味作用の変化は、その消費様式の変化に結びつき、新しい身体経験を引き入れているのである。

ヘイルズが述べたのは主に文学テクストの生産の文脈においてであろうが、この変化は、音楽を含めた他の多くの芸術作品の形態においても現れているといえよう。フロイトのような存在論になるが、そもそも人間は常に間接的な代替イメージ、身体的刺激、あるいは他者の身体を手掛かりとしなければ己の身体イメージを確保できない。そうした中で、絵画や彫刻の身体経験は、間接的な表象実践の中で、人間が自らを見つめなおす際に強い力を持つ、きわめて凝集されたイメージとしての経験であった。それはまた、映画や写真では異なっている。映画や写真に写し取られた身体のイメージは、己の身体とそれを取り巻く状況を極めて生々しく与えてくる。バルトが『明るい部屋』で述べた「写真的エクリチュール」は、写真があまりにもあるがままであるがゆえに、現実との強い結びつきを有していることを説明する概念である(みすず書房、1985)。そして、ニューメディアの時代にあっては、もはやそのような区分ではとらえきれない身体性の存在様式の地平が現れているのではないだろうか。いまや表象されるコンテンツは「情報」なのであり、身体性は情報が現れる地点によって如何様にも経験されうる。

このことを踏まえると、さっきのベンヤミンの立場が、そもそもの前提から崩れ去ってしまうことは明らかだ。ポストモダニズムとシミュラクルについての議論はすでに語りつくされた感すらあるが、実際、データ化された可変的なコンテンツがネットワーク上を流動する現代にあって、何がオリジナルであるかは大した問題とみなされていないといえよう。これは、前述したような、サンプリング&MIDI時代のクラブミュージック生産者が行ったオリジナルと引用の脱構築のダメ押しである。端的に言って(!)、今日「いま・ここ」は遍在する。ニューメディアは、芸術が持つ「いま・ここ」性をも複製しうるのである。

例えばウェブ上でストリーミング配信されるような作品を考えてみる。これまでのメディアとの最大の違いは、オンデマンド型の鑑賞に適しているということになるだろう。現代人の多忙さを反映し、各個人が、自分の都合のよい時間に、自分好みのコンテンツを鑑賞できるこのような形態は、よりポピュラーになってきている。映画館やコンサートホール、美術館、あるいはお茶の間のテレビとは明らかに異なり、もはや鑑賞者たちは鑑賞の場を共有する必要がない。コンテンツはパケットに分解され、お互い物理的にはるかに離れた情報端末に分配され、それぞれに再構成される。「いま・ここ」はあらゆる場所に現れうる。マノービッチも、ニューメディアの別の特性として、モジュラリティという言葉を使っている。ニューメディアは、ある機能を持った統一体を一つ一つバラバラにでき、いつでも再構成できるのだ。これはある単一の身体をもった芸術作品では不可能なことである。ショウビズとしてスタートしたジャズ然り。

ニューメディアの席捲は芸術鑑賞における主体の自由度を高めているように見える。ではこの事態は手放しで歓迎すべきことなのだろうか。現実には一方で、情報アーキテクチャからの強い規制を受けるようになっているのではないか。再びヘイルズを参照すると、彼女は、情報の持つ、耐久財との決定的な違いは、それが保存された量ではないことであるとしている。インターネットを通じてやり取りされるファイルは、実際の物理空間上の交換とは異なり、どれだけコピーしても元のファイルが失われるわけではない。ヘイルズによれば、情報にとって持つ者と持たざる者を分け隔てる決定要因は、所有というよりアクセスであるという。アクセスという言葉はそれ自体エンコードとデコードに必要な暗号を生産者と消費者が共有することを要請している。電子メディア時代の語り手の形態は、物理的にはさまざまに現れうるが、その常数として、複雑なコードを操作する能力を持つとヘイルズは言う。コードの操作者として語り手を構築することで、読み手にも変化は起こる。デコーダーへと移行した読み手は、テクストを超えたコードの力に影響を受け続けるようになる。

コードという語の持つ意味は、文学作品との関係において、より強力になるのかもしれない。しかしコードの共有は、電子メディアに媒介された芸術作品全般の消費、鑑賞に必要な義務として付きまとうもののように思われる。単純にメディアリテラシーの問題へと解消できるものでもない。先にも述べたが、この問題は情報環境アーキテクチャに関わる。コンテンツとは無関係な電子メディアに媒介されることによって、主体と芸術作品を取り巻く世界は暗号に満たされるのである。そこで必要とされるのは解釈ではなく解読である。主体は自分の情報端末を通して見えるものを見えたままに受け取ることで、複製された「いま・ここ」性を感受しつつも、絶えずそのイメージを二重化しているコンパイラ言語を意識せざるをえないのではないか。そうした暗号を共有しているという事実において、時間的にも空間的にも別々にいる無数の鑑賞者たちは、同一の「場」を経験しているのかもしれない。視覚的聴覚的空間を攪乱し認識に時間的不一致を到来させるテレプレゼンスの「不気味な」体験について、デリダは郵便と電話のアレゴリーによって語った。電子メディアがもたらしている根源的な変動は一見このモデルと類似している。しかし芸術鑑賞に到来しつつあるのは、もはや空間的でも視覚的でもない世界と言えるのではなかろうか。マルチメディア世代の人間にとって、複製メディア体験が身体性を最初から取り込んだものであったことを踏まえれば、情報ネットワークを介した芸術鑑賞は、自らの身体が時間空間を超えて無限に拡大していくような主観体験をもたらすものである。そうした感覚の中で、それぞれの鑑賞者は、それぞれの「いま・ここ」性において「一回」しかない場を知覚している。これは印刷技術と映像的音声的複製メディアとの「緊張関係」をあまりに意識していた前世紀の複製メディア論の射程ではとらえきれない事態だろう。ニューメディア時代の芸術鑑賞者は、なんの抵抗もなくこの文化変容を受け入れられるため、形式と身体性において一体化することができる。認識と媒介のあいだに厳密な区分を設けることは、もはやできない。そしてそれゆえに、主体は意識せずして自由を奪われていると言えるだろう。

ニューメディア環境の下では、主体は解釈ではなく解読をするようになると述べた。これでは、暗号を用いてエンコード/デコードできる以上のものを、芸術は伝えることができなくなる。精神分析医の斎藤環は、コンピュータグラフィクスを例にとってこの話題を扱っている(『メディアは存在しない』NTT出版、2007)。確定記述の集積の、直接的な画像への変換であるCGには、決定的に「ノイズ」が欠けており、そこに表現力の限界が存在していると斎藤は言う。これはデジタルに取り込まれ、ダブ処理を施された音声データにも共通する特徴である。つまり、芸術にとって本質的であるはずの、記号レベルで実体化できない、明示できない要素が、CGやMIDIを含む電子メディアでは伝達できないというわけだ。これではますます一様な「解読」が要求されるようになり、主体の自由が脅かされる由々しき事態となる。
(ここで、すべてを「ザ・コモンズ」と化して公開してしまえば、コードを定める必要がなくなり、このような自由を奪われることもないという可能性が示唆されるが、その議論はここではひとまず保留しておく)

さて、ニューメディアは本当に主体から自由を奪うのだろうか。そして芸術からいわば偶発的な要素を取り去ってしまうのだろうか。この問題の自己解決の可能性を示唆しているのはまたしてもヘイルズのパターン/ランダムネスの弁証法モデルである。ヘイルズは、ニューメディア環境下にある主体が共有する一定のパターンをもったコードは、長大であるがゆえに、その一部にランダムな要素が混入した場合でも、全体に及ぼす影響が大きくなると主張する。電子的なノイズのような小さな変化が非線形な相互作用を引き起こし、いわば「質から量」への転化が、おこるという。その結果もたらされたランダムネスが新しいパターンとして認識されるようになり、コンテンツの変化へと連続していくという。

P.wave.lab..は、こうした情報技術革命と、それに付随する主体の不安とが切り結んだ地点に生まれ落ちたポストモダンジャズの鬼子である。われわれはヘイルズの指摘するような方法によってではないが、生楽器によるインプロヴィゼーション(+ホットケーキ)という要素を加えることによって、ニューメディアに媒介されて(過去から、そして現在から)運ばれてきたデジタルなコンテンツてんこ盛りのショウケースの中にも、可塑性を半ば強引に引き入れた。ニューメディア時代にあって、その技術的恩恵を最大に享受しつつも、ショウビズとしてスタートし、即興性を本質的な要素としていたトラッドなジャズへの敬意を忘れないことで、新たな形での自由を生成したのだ。
ここに、ジャズが向かうべき未来のひとつの形があるとでも言っておこう。



いろいろ講釈垂れましたが、デリダ先生によれば
「意味は真理を待ち受ける」(『声と現象』)そうです。

みなさん良い日曜日をば。

5 件のコメント:

  1. すごい。エクリチュールの束。

    しかし一義的な音楽評価を脱したp.waveがどこへ向かって自らの音楽を高めていくのかが気になりますね。もはや彼らの音楽にまつわる語りは古き良き音楽の、欠落した痕跡でしかないのでしょうか。音楽を脱構築したp.waveは自己に対する語りを常に過去へ繰り延べていく。
    僕はむしろp.waveにはロゴス的評価よりも、それを越えてなお身体へ触れてくる音楽の渦としての評価が必要なんだと思います。それはごく単純なリズムや生活経験の積み重ねによるものだとも。

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  2. 枝葉末節かもしれんが、ベンヤミン誤読かもしれませぬぞ。かの論文で、ベンヤミンが俎上に上げたのは、音ではなく、写真と映画だったことは、些細なことで、なにも言及しなくていいようなことなのでしょうか。もしかすると、彼は、「いわれもない批判にさらされている」かもしれません。そして、ベンヤミンはアウラの凋落を憂いていただけなのでしょうか。

    あなたに指摘すべきは、「いま・ここ」、という言葉が少なくとも2通りの意味で使われていることです。あなたの語用に倣っていえば、たとえばピカソの絵は、それが存在する場所に、一回限り存在する、という意味の「いま・ここ」という性質をもっています(それがアウラが定着していることの条件、つまり真正性でもあります)。それが、写真という技術によって複製が出回り、各々の複製が人の視線にふれたその場所、その瞬間、「いま・ここ」がありふれたものになります。前者の語用に問題はないですが、後者はベンヤミンを逆撫でています。ベンヤミンなら後者のような状況を次のように説明するでしょう。

    「複製技術は複製を数多く作り出すことによって、複製の対象となるものをこれまでとは違って一回限り出現させるのではなく、大量に出現させる。そして複製技術は複製に、それぞれの状況のなかにいる受け手のほうへ近づいていく可能性を与え、それによって、複製される対象をアクチュアルなものにする。」(どの邦訳を参照しているのか分からないので、頁数は明示できませんが、III章の後半にこの記述を見つけることができるでしょう。)

    端的にいえば、ベンヤミンがいったような意味での、「いま・ここ」は偏在しません、残念なようですが。あなた独特の語用でいう「いま・ここ」は、ベンヤミンに倣えば、「アクチュアルなもの」と言い換えができるかもしれません(が、安直な換言は避けるべきです)。

    以下の記述は、僕の個人的な解釈に属するものです。ベンヤミンのテクストにおける省察とは区別しなければなりません。ベンヤミンのテクストについての省察です。

    ベンヤミンは、複製技術に対して極めて曖昧な態度を取っていたようにも思えますが、彼は複製技術に対しても希望的観測をしていたように思います(ベンヤミンはあまり自分の意見を述べないのですが)。論文結部の「芸術の政治化」という言葉に宛てた思いは、当時の政治状況を考えれば、曖昧なものではありません。

    ベンヤミン以外の箇所でいえば、椹木野衣の『シュミレーショニズム』がおもしろいかもしれません。僕のは、いまZanFにかしてしまっている。

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  3. >KEGANI氏

    コメントありがとうございます。
    確かに、二度と帰ってこないと自ら認めるショウケースについて回帰的に自己言及し、エクリチュールの束を生産していくことは、いわば器官から身体を奪う愚かしい行為と映るかもしれません。
    しかし私が強調したいのは、P.waveのように唐突かつ不連続な形で「シーン」をつないでいく手法を解釈するには、聴き手にもロゴスの助けがやはり必要だということです。それはもちろん、完全にランダムに見える星の布置から星座を見つける行為と対応しています。
    前回のパフォーマンスでは、一部の聴衆からは、ただの不可解なものとして片付けられた印象をぬぐえなかったというのがメンバーの総意でした。
    こうした夢幻的な経験としてだけでなく、ぜひモンタージュというアヴァンギャルドな切断作用を効果的に使用したモダニズム作品ととらえてほしいという考えがあって、ここに一部のコンセプトを述べさせてもらったまでです。
    もちろん身体経験としての音楽の諸相が希薄化してはならないと思いますし、そこはP.waveのメンバーが強化していかなければならない部分です。
    本文でも述べたように、音楽のデジタル化・ユビキタス化は、聴取の場を非活性化し、特定の音楽にのめりこむ「自己」を孤立させ、サウンドの社会的な意義を希薄する方向への進化でした。極論すれば文化からのすり落ちです。
    それでもなお、刺激信号を快感中枢へフィードする機能は失われてはならないと思いますし、ロゴスに先立って、人をもっと直接的に、動物的に釘づけにする音楽を作っていかなければならないとは考えています。

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  4. >匿名氏

    コメントありがとうございます。敬語いいな。さっそく敬語で返信書かせてもらいました。(ルイギャンごめん違和感あったら)
    僕はベンヤミンを特に詳しく勉強したわけでもないし、『複製技術~』も一度通読しただけですし、メディア論の文脈で一般に語られることを何となく(「ジョー・ロバーノ、CDで聴くよりライブで聴いたほうがやっぱいいね」という直観とも結びつけて)自分なりに理解しているだけなので、ベンヤミンを研究しているkmtからすれば誤読である部分もあると思います。そこは気に障ったのなら申し訳ない。
    また、本論での僕の最大の飛躍の一つが、映画や写真についてのべたベンヤミンの語りを音楽にも応用してしまったところで、ここは自分でも、芸術作品を十把一絡げに論じてよいのかどうかというところは葛藤ではありました(嘘だけど)。一応それでも良いという判断を下したのですが、特別なことわりは必要だったかもしれないっす。
    ただ、僕はベンヤミンを批判しているわけではなく、新時代に到来すべきメディア論、アウラについての言説との比較対象として用いているだけなのですね。僕は写真や映画によって「いま・ここ」がありふれたものになるというつもりはありません。「いま・ここ」をありふれたものにするのは、近年になって現れたニューメディア、およびブロードバンドの情報環境アーキテクチャだと言いたいのです。
    ベンヤミンのいう「アウラ」は、「一つの身体は一つの場にしか」存在できないという、いわば現実世界の制約条件を前提にしていたのに対し、本文で述べたように、ニューメディアは、本来ならば「その場の一回限り」にしか生じることのない「いま・ここ性」を、アーキテクチャの作用によって複製してしまう装置だからです。芸術作品(コンテンツ)が複製可能なのではなく、それを「いま・ここ」で体験するという「経験の条件」そのものが複製可能であるということ。これはニューメディアの登場による複製技術のラディカルな進化です。
    ベンヤミンが想定した範囲では「いま・ここ」は偏在し得ないものです。kmtは僕が「いま・ここ」を二つ以上の意味で用いていると指摘していますが、仮にそうだとしても、それをベンヤミンの別の語で言い換えることができるとは思いません。なぜならわれわれを取り巻くメディア環境は、ベンヤミンの時代のものとは違うからです
    オリジナルの権威が退き、僕はベンヤミンの時代には複製できないもの、複製技術に媒介された瞬間「アクチュアルなもの」に姿を変えるとされていた「いま・ここ」が、複製できるようになった時代の中で、われわれは新しい芸術論を必要としていると言いたいのです。
    とにかく貴重な指摘をありがとう。

    『シミュレーショニズム』についてですが、実はkmtが少し前にブログでこの本の書評のようなものをしていた記憶があって、今回のエントリの内容はうろ覚えのそれに対する応答という意味もあります。本は読んでいないのですが、おそらく著者の意見には僕は反対であろうという印象を受けました。いずれにしろ、読んでみる価値はありそうだね。

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  5. 「ロゴスの助け」という表現に納得です。

    敬語、違和感ありますね笑

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