駄文が続いた気がするので今日くらいはまともなエントリーを書けたらよいと思う。
言語学者のソシュールは、「パロールは個人的なものでラングは社会的なものだ」と言っていて、これがおそらく一応言語学をかじったことがある人8割がたの通念だろう。なにも根拠はないが。
ソシュール先生には申し訳なく、わりと突拍子もなくてさらに申し訳ないのだが、
「ラング(文法)は個人的で、
パロール(発話)こそ社会的なものである」
という実感を得る瞬間が9月の旅行中に多々あった。
先月はシンガポールとオーストラリア(とネパール)という英語圏ないし準英語圏の国々をめぐったのだが、これらの国々では、きわめて異なるアクセントや特有の言い回しを携えた英語が話されている。
特にシンガポールではマレーやマンダリンの語彙をふんだんに借用した悪名高いSinglish、オーストラリアでは日本語で言う北関東弁のような田舎言葉(イメージです。。むしろIrishとかがそっちに相当するのか?Aussieは結構かわいいからね。広島弁?)Aussie Englishが話されている。
さらに、そこに飛び込んでいった僕が「話す」英語はどちらにも属しておらず、おそらく日本語的なラングを基本としてそれを補う形で構成された文法の上に、きわめてアメリカ的要素が強い語彙とアクセントを携えていると思われる。一応努力目標としているのはカナダ人の英語である。しかし周辺にいる何人かのネイティブによるとたまにシンガポール人のような訛りが出ているらしい。
例えば「コーヒー飲まない?」という単純な提案を行う場合、
シンガポール人なら「Join me for Kopi?」というであろうし、
オーストラリア人なら「Would you like a cuppa?」となるであろう。
ちなみに僕なら普通に「You wanna grab some coffee?」と言う気がする。
純正のアメリカ人なら「Hey let's hit a starbucks dude!」というところだろう。
(すごくわかりにくい例だし、十分じゃない)
とにかく、この劇的なSinglish~Aussie環境の転換を経て感じたのは、それでもコミュニケーションが成立するということは、一見ばらばらな個々人の発話は周囲の集団の中での社会的なプロセスを経て(きわめていい加減かつどうとでも解釈できる表現で申し訳ない)「英語のパロール」というレンジへと一種「翻訳」されているからではないかという可能性である。
つまり、世界中の英語話者全員が、ある普遍的で厳密な文法=ラングを共有しているからコミュニケーションが成立しているのではなく、コミュニケーションを担保しているのは言葉の使い方の緩やかで可変的な「同型性」なのではないかということだ。
文法というのは個人が、言語の生得的な能力をもとにしながら、他の人と言葉をつかってコミュニケートしながら作り上げるものだ。そのときには誰も文法なんて教えてはくれないし、自分の中で個人が自分なりに作り上げるしかない。僕自身もよく、まわりの人の話し方に影響を受けるのを感じるし、個人の中ですら固まっていないものだと思う。
ただ、ソシュール先生も言ったように、言語構造はとりあえず恣意的なのだが、世間にある程度フィットする形でしか作れないので、世間で流通しているコードにある程度合わせていくことになる。(僕もシンガポールで「Fair dinkum」などとは言わないし、オーストラリア人の男友達に対して「Dude!」と呼びかけることもない)
だが、それが自分の周囲でのコードに完全にあっているかどうかはわからない。というより、「これがAussie!」「これがSinglish!」という厳密なコードがあること自体が幻想であろ。
個人によって文法が少しずつ違うというのはそういう意味である。
しかしあまりにもめちゃくちゃな言語構造だと、言葉が通じなくなるので、修整せざるを得ない。それで少なくとも上に述べた「同型性」に関してはだんだん収斂していくことになるだろう。
そんで、ラングというのは自分の頭の中にあるだけでは何の役にも立たないので、必ず発話することになる。そこでコミュニケーションできなければパロールは成り立たないから、パロールは社会的なものだと思う。
うまく説明できたかな。
自分の文章の下手さ加減にほとほと嫌になるぜぃ。
ちなみに、僕は「社会的Social」という言葉があまり好きではないということは断っておこう。
修士でのボスは大好きなのだが。
言語学者のソシュールは、「パロールは個人的なものでラングは社会的なものだ」と言っていて、これがおそらく一応言語学をかじったことがある人8割がたの通念だろう。なにも根拠はないが。
ソシュール先生には申し訳なく、わりと突拍子もなくてさらに申し訳ないのだが、
「ラング(文法)は個人的で、
パロール(発話)こそ社会的なものである」
という実感を得る瞬間が9月の旅行中に多々あった。
先月はシンガポールとオーストラリア(とネパール)という英語圏ないし準英語圏の国々をめぐったのだが、これらの国々では、きわめて異なるアクセントや特有の言い回しを携えた英語が話されている。
特にシンガポールではマレーやマンダリンの語彙をふんだんに借用した悪名高いSinglish、オーストラリアでは日本語で言う北関東弁のような田舎言葉(イメージです。。むしろIrishとかがそっちに相当するのか?Aussieは結構かわいいからね。広島弁?)Aussie Englishが話されている。
さらに、そこに飛び込んでいった僕が「話す」英語はどちらにも属しておらず、おそらく日本語的なラングを基本としてそれを補う形で構成された文法の上に、きわめてアメリカ的要素が強い語彙とアクセントを携えていると思われる。一応努力目標としているのはカナダ人の英語である。しかし周辺にいる何人かのネイティブによるとたまにシンガポール人のような訛りが出ているらしい。
例えば「コーヒー飲まない?」という単純な提案を行う場合、
シンガポール人なら「Join me for Kopi?」というであろうし、
オーストラリア人なら「Would you like a cuppa?」となるであろう。
ちなみに僕なら普通に「You wanna grab some coffee?」と言う気がする。
純正のアメリカ人なら「Hey let's hit a starbucks dude!」というところだろう。
(すごくわかりにくい例だし、十分じゃない)
とにかく、この劇的なSinglish~Aussie環境の転換を経て感じたのは、それでもコミュニケーションが成立するということは、一見ばらばらな個々人の発話は周囲の集団の中での社会的なプロセスを経て(きわめていい加減かつどうとでも解釈できる表現で申し訳ない)「英語のパロール」というレンジへと一種「翻訳」されているからではないかという可能性である。
つまり、世界中の英語話者全員が、ある普遍的で厳密な文法=ラングを共有しているからコミュニケーションが成立しているのではなく、コミュニケーションを担保しているのは言葉の使い方の緩やかで可変的な「同型性」なのではないかということだ。
文法というのは個人が、言語の生得的な能力をもとにしながら、他の人と言葉をつかってコミュニケートしながら作り上げるものだ。そのときには誰も文法なんて教えてはくれないし、自分の中で個人が自分なりに作り上げるしかない。僕自身もよく、まわりの人の話し方に影響を受けるのを感じるし、個人の中ですら固まっていないものだと思う。
ただ、ソシュール先生も言ったように、言語構造はとりあえず恣意的なのだが、世間にある程度フィットする形でしか作れないので、世間で流通しているコードにある程度合わせていくことになる。(僕もシンガポールで「Fair dinkum」などとは言わないし、オーストラリア人の男友達に対して「Dude!」と呼びかけることもない)
だが、それが自分の周囲でのコードに完全にあっているかどうかはわからない。というより、「これがAussie!」「これがSinglish!」という厳密なコードがあること自体が幻想であろ。
個人によって文法が少しずつ違うというのはそういう意味である。
しかしあまりにもめちゃくちゃな言語構造だと、言葉が通じなくなるので、修整せざるを得ない。それで少なくとも上に述べた「同型性」に関してはだんだん収斂していくことになるだろう。
そんで、ラングというのは自分の頭の中にあるだけでは何の役にも立たないので、必ず発話することになる。そこでコミュニケーションできなければパロールは成り立たないから、パロールは社会的なものだと思う。
うまく説明できたかな。
自分の文章の下手さ加減にほとほと嫌になるぜぃ。
ちなみに、僕は「社会的Social」という言葉があまり好きではないということは断っておこう。
修士でのボスは大好きなのだが。
僕は、僕が記憶する限り、「ラング」、「パロール」という言葉を発したことはないのだけれど。
返信削除kmt
ラングとパロールという言葉を使ったのはソシュール先生です。
返信削除>kmtや僕が崇拝しているレヴィ・ストロースと並び、構造主義のパイオニアといわれる言語学者のソシュールは、「パロールは個人的なものでラングは社会的なものだ」と言っていて、これがおそらく一応言語学をかじったことがある人8割がたの通念だろう。
返信削除僕はレヴィ=ストロースを「崇拝」したことはない。彼の著作を読み、なにかしたの評価をした憶えはあるが。<並び>という語用が、誤解を生みかねない。思想史的に考えても、ソシュールとレヴィ=ストロースは同列ではない。僕は「言語学をかじったことがある」のかもしれないが、あなたがいうような、「言語学をかじったことがある人8割がた」の陣営に与したことはない。
僕の名を出す意味があるとは思えない箇所でわざわざ登場させ、そのような誤解を生じさせている。誤解を与えかねない表現が過失によるものであれば、表現があなたを裏切っている。言葉の戯れに興じてばかりいると、いつか言葉の報いを受ける。
もし、表現があなたを裏切らず、あなたがそれを表現しているのであれば、また別の道も開かれる。思索の海に溺れろ。
kmt
フルバンをやろうといっていた時期にレビストロースを崇拝するバンドにしようというような会話をしたのを思い出しただけなの。
返信削除そもそも考えてみればリーバイスの名前を出す必要性すらなかった。失礼した。
ああ、あとちなみにkmtが、「言語学をかじった人の8割がた」に入るという含意もまったくなかったから。
返信削除ビーフをしかけたわけじゃないんだ。
ピーショー