具体と抽象についてのスキルは,英語カルチャーの教養だ。
"It is a pen."という文。
前回述べたとおり、Itで指示されるペンは,誰が見てもペンだ。
この文は客観的に事実を表現している。
観察者を離れて,事実は客観として成立する。
これは科学哲学では,アインシュタイン/ハイゼンベルグ以前の古い近代のパラダイムの立場である。
客観的事実が、原因となり,結果を決定する。
近代医学,心理学,社会科学は,この立場に立つことで発展,展開した。
身体的・心理的な病気は,原因を特定することによって,治療が可能になる。
社会科学では,社会現象に対して定量的なアプローチが可能になる。
近代パラダイムは,社会についても言語表現についても,客観的決定論をもって完成するかのように思われていた。
20世紀はパラダイム転換の時代だった。
アインシュタインの相対性理論と量子論は,互いにせめぎあいながら20世紀前半に展開した。
20世紀の後半,ポストモダン文芸運動は,人間の認識をテーマとして展開した。
転換の中心は,ニュートン力学の客観主義から,アインシュタインの相対主義への移行であった。
焦点は,観察者の位置づけにある。
ここで否定されるのは,客観の「自明性」である。
ヒラリー・ローソンは、「これはペンです」のかわりに、「わたしはうそつきです」という文章を分析した。
第一に正直者は,「わたしはうそつきです」とは言わないはずだ。
うそつきが「わたしはうそつきです」と発話したら,発話者はうそつきだろうか、正直者だろうか。
ローソンは正解を求めなかった。
パラドックスを明らかにしようとしただけだ。
発話者がうそつきか、正直者かは,文自体には含まれていない。
この文の事実性は,文と発話者の関係のなかにある。
文は,発話者を離れては成立しないのだ。
文の事実性は,言われていることと言っている人(発話者)の間の構造のなかにしか,求めることはできない。
この文は,客観的自明性を欠いているばかりでなく、何事をも決定することはない。
しかもここでローソンは,文と発話者の間にある構造は,文がどのようなものであっても、実は存在すると考える。
つまり、「これはペンです」の場合も,発話者を除外することはできないとローソンは考える。
発話者は,社会的・文化的な存在であり,認識の主体である。
社会,文化,主観,認識,主体のどれについても、客観でもなければ,自明でもありえない。
「これはペンです」という文は,これらの要素を含むことで,言われていることと言っている人との関係を表現するのである。
ポスト近代では,客観はどこにいったのか。
古い近代のパラダイムでは,文はそれ自体,客観的に成立する。
しかし新しいパラダイムでは,文は発話者を離れては成立しないと考える。
"It is a pen."
も
"I'm a goddamn liar."
も、同じように主観的である。
では、客観は消滅したのか。
前述したように,ポスト近代の客観は,観察者の主観を通じて相対化される。
観察者なしには観察できないのだから,出発点が主観であり,相対的である。
そうだとしても、ここにおいても客観は,観察者の観察対象としては,やはり存在する「はず」である。
この存在する「はず」の客観を、ポストモダンの現代思想は仮説として探求した。
客観の「自明性」は、認識者の主観によって相対化される。
だから、客観の認識の有効性は,認識の仕方にかかっている。
とすれば、理論とは、客観的事実と主観的認識の関係を定義づけることである。
理論構築の焦点は,「自明性」から「定義づけ」へと変わる。
この立場に立てば,パラダイムとは客観と主観の構造だと言える。
ポストモダンの試みとは,古い近代によって構築されたこの二者間の構造を、意図的に解体することによって,新しいパラダイムに導こうとする運動だった。
だからこそ、それは認識論を扱うものであって,文芸運動として,哲学と言語学を中心に展開した。
とにかく、アメリカを典型として,ポストモダンの試行錯誤を経験した社会は,すでに個を単位としている。
「個」とは、客観の認識を仮説とする,認識の主体である。
この個は,ポストモダンである。
これが社会単位なのだ。
このポストモダンの人間集団は,いつでも個に分解可能であり,またいつでも組織を構成することが出来る。
生態学的な社会システム論の考え方では,ネットワークは個(ノード)が組織の主体で,個と個の関係は相互のコミュニケーションにより決定される。
人間が先で,関係があとだ。
(環境/システムの区別がはじめから存在するのではなく,コミュニケーションを契機として「複雑性の縮減」がなされる)
ところがたとえば日本の縦型組織では,関係が先にシステムとしてできあがっている。
人間を所与の関係が規定しており、人間(ノード)は与えられた関係に適応することしか許されない。
適応が,社会倫理であり、適応できなければ脱落する。
登校拒否や引きこもりは,脱落者に許された社会空間である。
この許された空間さえも拒否すれば,自殺や心中となる。
これに対して西欧のネットワーク社会は,運動するシステムであり、社会組織は、いつでも個に分解する。
その実現のために、カウンターカルチャーなどの社会運動にまで発展した,「ポストモダン」という高い対価をすでに支払っている。
たとえば1980年代アメリカ東海岸のDigital Equipmentや,もっと最近の例で言えば,ドイツのSteinweissなどが、事例として有名だ。
制度でありながら運動体である,開放系でありながら閉鎖系である、という意味で,ネットワーク社会は、近代の常識からは外れている。
ありえないものが存在しているという意味で,本質的にパラドキシカルだ。
そしてこのパラドクスはすでに実現している。
これが現代。可塑性の高いアーキテクチャによる緩やかな統合を特徴とする組織のスタイルだ。
ネットワーク組織は柔構造を持つ運動体である。
ネットワークでは,中心は作ることもできるし、必要ないかもしれない。
中心も周辺も変更が可能であり,組織は常に変容している。
日本も含めた非西欧社会の近代には,ローカルな伝統と融合という問題がついて廻る。
これは西欧とは別の近代の試みなのだから,古い発想に閉じ込めることなく,新しい理論の構築が必要である。
そうなってはじめて,西欧との関係も論ずることが出来る。
自然科学のパラダイムそのものではなく、自然科学のパラダイム転換に伴う社会変容を、説明できる理論の登場が待たれる。
日本の周辺部(典型的には、ベンチャーキャピタル)では,伝統とネットワークの融合は,すでにトレンド化している。
そこでは90年代から,さまざまな試行錯誤が継続しているが,理論が出来なければ,また概念が用語として定着しなければ,試行錯誤は一過性のままに留まる。
ソフトバンク,光通信,ライブドアなど、周辺独自の可能性と困難は目に見えている。
テンポの速いグローバル化時代に,さまざまな意味でリスクとチャンスを見てとり,対応できるのは周辺部だろう。
周辺部が,西欧社会のポストモダンの成果を何処まで吸収できるか,が、実は近道であるように思う。
しかし、その際に最大のバリアとなっているのが,具体から抽象へ、つまり端的には理論化/概念化という英語の教養的スキルだと、わしには思われるのだ。
物事を特定するとき,日本語では具体に返る。
英語では抽象に進む。
一般化によって個別のペンは「ペン」として抽象化され、共通に特定された。
抽象・一般化によって物事を特定するのが,英語の論理である。
この論理は,サイエンティフィックだ。
天動説から地動説への移行はまさしく、この具体・個別から抽象的思考への移行ではなかったか。
この移行が構造的に組み込まれた英語では,日常会話でも、つねに具体・個別から抽象へと,話者は進む。
一般化による共通認識が成立しなければ,"it"へは移行せず、"this"と"that"にとどまることになる。
物事の抽象的な特定の例としては,南極点や北極点,あるいは、「国境」などが挙げられよう。
これらは緯度・経度(僕はいつもLongitudeとLatitude、どっちがどっちだったか忘れてしまうんですが,みんなはどうですか?)という抽象的な線引きがあって、はじめて特定可能になる。
抽象的にしか特定できない。
あるいはもっと身近な例でいうと,時間がある。
だから英語では時間には抽象の"it"を使う。
言語は決して論理的に作り出されるものではないが,論理を含み込んでおり、話者はその論理に縛られる。
日本語では、抽象的論理を表出することは可能でも,その論理で話者を縛ることはしない。
英語の抽象について語りはじめた出発点は,極めて抽象度の高い「上の英語」を認知したことにあった。
おそらくこの「上の英語」は、大学に行って学ぶものだろう。
抽象能力のチャンピオンは「考える」作業のチャンピオンだ。
グローバル社会でのネゴシエーションでは,こういうヤツらが相手になる。
わしもそろそろえーかげんに、アメリカの大学に行かなければならないのである・・・!!
「具体から抽象へ」を、日本の学校の英語教育の初頭に教えることはできるだろうか。
もし可能なら,日本語にも良いインパクトがもたらされるのではないか。
つまり豊かな論理性だ。
このプロセスを野放しにせず,コントロールできる力を日本の英語教育法が獲得することが出来れば,日本ももっと変わることができるかもしれないなどと言ってみる。
グローバル社会のネゴシエーションで大切なのは陳腐なヒューリスティクスなどではないだろう。
具体から抽象へという心の動きは,民主主義社会の根底にあるものだ(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』)。
日常的な抽象の駆使があってこそ、ポストモダンの試みも意味を持つと思う。
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