2013年3月14日木曜日

春がきたね(読書感想文)

春がきたぜ!(意味深)

 

大澤真幸『恋愛の不可能性について』 (ちくま学芸文庫)


DLIシリーズ

とりあえずザンの蔵書を渉猟していくシリーズ

林家ぺーさんの著作だが、今見るとタイトルからして黒歴史臭がパない。。

タイトルは中2っぽくてなかなかおもろそうなのだが、抽象的な議論が続くうえ、様々な思想家の用語や概念がパッチワーク的に散りばめられているので読むのは結構大変である。

昔はこのテの、自分が読んだ本を全部引用しないと気が済まないような書き方をする文筆家は、ヒップホップを感じさせるのもあって好きだったが、やっぱり、「いちいちラカンやデリダを経由しないでほしい…」という思いを禁じ得なくなり、最近ではあんま読まなくなっている。

しかしあらためて読んでみると、このテの本も、構造化という意味で価値があるんじゃないかと思った。

つまり、哲学や思想というのはそのときどきでバラバラな人たちが好き勝手言っているのが基本なので、時系列などに沿った体系的な整理というのはほぼ不可能なのだが、まさっち〜のようなガッチャンコしたがりのおかげで、これとこれとこれこれは同一のテーマのもとにこういう風に読めますというのを示されると、部分的にでも哲学の学問体系を俯瞰した気になれる。

(至極当たり前のことかもしれないが)






さて、ぺーによれば、第三者の審級が十分に抽象化した結果、その支配下にいる各個人は、行為の帰結のレベルではなく、行為の選択のレベルにおいて、つまりどの行為を選択するかという志向作用そのもののレベルにおいて、規範的な枠に閉じ込められる。

これは、抽象化された規範である第三者の審級に対して個人が常に「私は〜である」という自己正当化を永続的に反復せざるをえないからである。クリプキが述べたように、「私」は指示詞として発話者をさすが、その述定部分「〜である」は個体としての発話者を余すところなく定義することはできない。しかし、抽象的な規範が個体を捉えているならば、個人はそのような不完全な「私は〜である」という自己正当化を規範に対して永続的に行わざるをえなくなる。このような絶えざる反復の効果によって、あたかも完全には到達できないはずの「自己」が擬制される。

ここでまさっちは擬制的なものとしての主体・主観が、行為選択のレベルにおいて第三者の審級を内在化させることになると演繹する。

第三者の審級が抽象化されるということは、それに先行する具体的な第三者の審級を否定し、主観の内に包括するということでもある。

言い換えれば、具体的な第三者の審級は、先向的投射の範囲内にはない差異=他者に直面するやその確実性を揺るがされてしまうのだが、その他者さえ自らの圏域のなかに包括してしまうような先向的投射が行われえた時にはさらに抽象化した第三者の審級が定立される。

しかしこれは換言すれば、第三者の審級の抽象化は他者抜きには行われえない、ということである。それゆえ第三者の審級が抽象化される過程では、各個人の身体にとって他者が発見される内在性への依存度が増し続けるということでもある。

つまり超越性が十分に超越性を持つためには、それにともなって逆説的に内在性への依存が上昇しなければならない。

抽象的な第三者の審級が自らを位置づける場所として、擬制的な主体性が生み出されたのであるが、それはフッサールが意志と記号の純粋な一致として見出した内面の声にほかならない。

これをデリダは自己への現前と呼び、そのような一致状態においてさえ根源的な差異に付きまとわれていると分析した。つまり、抽象的な第三者の審級によって生み出されたかに見えた一貫した主体性は、同時にまったき差異を孕まざるをえない。

第三者の審級が局限まで抽象的になるということは、その審級が各身体の内面に孕まれた他者に依存せざるをえないことが露呈されていくということでもある。




超越性(第三者の審級)が内在性(主観においてとらえられる他者)に依存せざるをえないということが露呈する過程は、超越性にとって壊滅的である。

大澤先生によれば、超越性が内在性にもろに依存していることが露呈し、そのことから超越性が存立の危機に陥ると、もはや超越性は、主体が直面する他者に依存しているということを隠蔽することさえできない。

むしろ、内在性が直接超越性を支えることになる。したがって超越的な規範は決して到達できない。

しかし、その超越性が抽象化されればさるほど、規範の内実は無化されていく。



難しいのですが、ようは、愛する対象である他者を確定記述の束に回収できないことから生じる愛の記述不可能性(いわゆる、イケメンで商社マンなら誰でもいいのか問題)は依然として存在するとして、さらにその記述不可能性を語る主体の側さえも耐えざる差異化のうちにあるので、「私」と「あなた」の間にあるこの愛というのは余計に何なんですかという問題になる。
この根源的な不確定性が、愛にずっとついてまわることになる。



さらに大澤さんは、ここからルーマンを引っ張ってくる。
「私」と「あなた」の両者が不確実になった状況下で、社会システム論的な考え方を使って、ふたりの間の関係性(コミュニケーション)のみを純粋に把捉しようとする試みなのだが。。。。もちろんルーマソ読みなら察しがつく通り、コミュニケーションにおいてその時点ごとの価値判断の意味が確定される(与えられる)のは、事後のコミュニケーションに接続されることによってでしか可能でないので、結局はこの試みも恋愛の不可能性を裏書きすることになってしまう。


まとめると、恋愛プロセスにおける意思決定の不安を埋め合わせる代理表象はもはや超越的な存在から与えられることはなく、徹底して内在的な自己規定によってしか獲得できない。 というのがこの本のメッセージなのだろうと思いました。

まあぺーさん自身は、そこまでは言ってないんだけど
こういう示唆を引き出せるのは、ぺーさんが参照するに留めている現象学的還元を徹底して突き詰めることこそが、恋愛を含めたコミュニケーションを構成する重層的な意味のネットワークを顕在化することを可能にする戦略だということを、ゼロ年代を通過したわれわれが既に知っているからですね(cf.ジョウカン)。


こう考えると、哲学のincrementalな深化を感じる。

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