2010年2月12日金曜日

悪魔の話

時が経つのは本当に早い。

2010年の波乱の幕開けを告げた未曾有のハイチ地震からもすでに一か月が経過した。
このブログはいつの間にかうんちく論的転回を経験したが、一応、ただ脈絡のないうんちくではなく、なるべくその時々の注目ニュースや季節を感じさせる話題などを取り上げるup 2 dateなブログにすることを目標としている。
ということでハイチネタでぜひエントリを書きたかったのだが、すっかり乗り遅れてしまった。

とはいえまだまだ大変な状況が続くハイチである。
地震国日本の尺度からすれば決して大地震とは言えない規模だったものの、とんでもない大「災害」になってしまったハイチ直下震災。
この一カ月は現地の悲惨な状況を伝える映像などとともに、欧米の政治家やセレブリティのコンシャスかつスピーディな反応に関する報道が注目を集めた。

だがそれを横目に、わしは「悪魔信仰」についてインターネットで調べるという不埒な行動をとっていた(許されたし)。
そう、ハイチから連想されるものと言えば、ヴードゥー教。
ヴードゥー教といえば、悪魔である。


わしは悪魔の存在を信じている。
もちろんそれはキリスト教的世界観における悪魔だ。
高校を卒業したての春休み、実話をもとにした悪魔憑きの映画『エミリー・ローズ』を映画館に見に行って、「一人暮らしなんてできんわ」と独白するほどの恐怖とともに、悪魔の実在を確信した。

わしはそもそもホラー映画がそれほど好きではない。
さらに、最近の邦画によくある「携帯の着信が呪いを呼ぶ」だの「とあるビデオテープを見た人は何日以内に死ぬ」だの、といった話は、設定を読んだだけで賢者モードに入る。
なんというか、不粋かつ安易に感じられるのだ。
理屈を超越した恐怖と、理屈と直結するテクノロジーをミックスするのは。
まあ、それはそれで、神秘なき時代に新たな恐怖を演出するための努力なのだろうが。

だがエミリー・ローズはわしの胸を貫いた。
エミリー・ローズという実在した若い女性が悪魔に憑かれ、周囲がその悪魔を祓おうと努力して失敗し彼女は亡くなる・・・それだけのシンプルなストーリーなのだが、実話ベースも相まって圧倒的な圧倒的リアリティが圧倒的にドSな演出で圧倒的に迫る!
あえておすすめはしない・・・わしも二度と見る気はないが、とにかくこの映画でわしは悪魔を信じるようになり、悪魔を退けるためにも日々祈らなければならないと思い、信仰を新たにしたのだった。

実際、悪魔をキリスト教の教義の中でどう扱うかに関しては議論が分かれるところではある。
新約聖書におさめられた福音のうちいくつかには、イエスが悪魔祓いをする場面も登場するが、カトリックの神学者の間では「悪魔=ローマ帝国軍」のメタファーであるとする説が主流であるようだ。
一方、ギリシア正教の一部では悪魔祓いの儀式を実際に請け負う教会なども存在するし、リアル・エクソシスト関連の動画などもいろいろ出回っていたりするのだが、怖すぎてとてもここでは紹介できない。
とりあえず十把一絡げでは行かないということである。
基本的に東欧の正教系修道会のほうが悪魔の研究についてはより、進んでいるということは言えるだろう。
しかしわしのようにカトリックでありながら悪魔をガチで信じているヤツもいる。

そんなこんなでハイチ地震をきっかけに故エミリー嬢のことなど思い出しつつ、悪魔信仰をキーワードにウェブを彷徨していたわしがたどり着いたのが、この記事である。
http://x51.org/x/03/08/2127.php

ヴードゥー教神父、悪魔との契約を出品:
英国はナリッジ(Norwich)在住のヴードゥー教実践者、Dtor Snake氏が"悪魔と契約して大物になる方法"をeBayに出品中。
落札後は落札者と個人的に連絡を取り、クロスロードでの契約を確実に行う。
落札者は氏が案内する闇の使者と"真の契約"を交わすことになる


もっとも、これは6年以上前の記事なので、オークション自体はとっくに終了している。
悪しからず。

もちろん、こんな話は笑って楽しむべきもの、信用したらアホである。
「悪魔との契約」と「eBay」という絶妙なミスマッチ感や、「これで救われた人はたくさんいる。でも、名前を明かすわけにはいかない」という理屈からプンプンするインチキ臭さはもちろんのこと。
それ以外にも、「契約」が二段構えになっており、Snake氏は要するに案内人に過ぎない点にも注意したい。
案内するだけの人間が「契約を出品」とはおこがましくないか?
手数料の規模にもよるが。

それ以前に、そもそもSnake氏はUK在住なのである。
イングランド東部の小都市に、どんなヴードゥー・コミュニティが?

こんな人を「ヴードゥー教神父」と呼んでいいのだろうか?

と問題点はいろいろあるが、Snakeさんの発言には、真剣に読むべきポイントもあるのだ。

曰く「本当はクロスロードの儀式の本質は悪魔的(サタニック)ではないんだよ。そもそも悪魔っていう概念自体、キリスト教が勝手に作り上げたものだしね」。

さてここで、映画『クロスロード』を思い出されたい。
ことの発端は、ウィリー・ブラウンという黒人青年(ロバート・ジョンソンの"Cross Road Blues"にて、「俺の友達」と歌われている人物だ)が、ミシシッピ某所の十字路で「ブルースマンとしての腕前」と「魂の所有権」を交換条件として契約したこと。

そして、その契約の相手をウィリー・ブラウンは「レグバ」と呼んでいるのだ。


話をハイチに戻します。
カリブ海に浮かぶイスパニョーラ島の西側を占めるハイチ共和国。
人口の95%はフランス領時代につれてこられた奴隷の子孫である黒人だ。
そしてヴードゥー教は、彼らの故地であるアフリカを起源としハイチで開花した(厳密には少し違うがジャマイカのラスタファリズムと同様の)、非常にパワフルでブラックな宗教である。

(余談だがわしがかつてハマった、米フロリダ州マイアミを舞台にした洋犯罪ゲームGrand Theft Auto: Vice Cityでは、街の外れにあるその名もLittle Haitiという地区にヘイチアン・ギャングたちがナワバッているのだが、そいつらが乗っているクルマ(カッコよさげなローライダー)はVoodooという名前だった。つまりアメリカではハイチといえばヴードゥー、ヴードゥーといえばハイチというわけだ)

黒いタキシードに身を包んだ粋な死神であるバロン・サムディや、蛇神ダンバーラ、怒りっぽい火の神オグン。
キャラ立ち激しい神々のオンパレードだが、中でも異色を放つ神がいる。
彼こそはレグバ(Legba)。
「ぼろをまとった老人の姿をしている」とされるため、死神や蛇神や火神と比べるとビジュアル的インパクトは少ないが、非常に重要な神格である。

トリックスターとしての性格も興味深いが、この場合に肝心なのは、レグバが神界と人間界を結ぶ鍵を握っているということ。
だから、神々を呼び出す儀式の際、最初に到着するのも、最後に去っていくのもレグバ。
彼がドアを開閉しないと交流は不可能なのだ。

そして、彼は「十字路の神」でもある。
十字路=交差点の意味するところは明白だろう。
神界と現実世界とが、文字通り交差するところ。
だからこそ、ウィリー・ブラウンは十字路を統べる主に「レグバ」と呼びかけたのだ。
アメリカンカルチャーとカリビアンカルチャーの距離の近さをいかにも示しているではないですか。


「ハイチ国民は、85%のカトリック教徒と110%のヴードゥー教徒からなる」と言われる。
要は、ハイチのヴードゥー教徒たちは同時にキリスト教徒でもあり、アフリカ起源の神々とともに、イエスもマリアも、そしてカトリック特有の多彩な聖人たちも信仰対象だということだ。
それら聖人は、時に単独で、時にはヴードゥー神と同一視されつつ、愛され崇められている。

たとえば聖ペトロ(ピーター)。
「初代教皇」と扱われることもある彼は、「天国への鍵」を保有すると言われている。
そして、さきほど書いたとおり、異界のドアを開閉する鍵を握っているヴードゥー神といえばレグバ。
ゆえにペトロは、レグバと同一視されることがある。

要するにハイチでは、ヴードゥーがキリスト教を吸収・合併したのだ。
だから「110%」なのだよ。


ロバート・ジョンソンが十字路で出会い、契約を交わした「悪魔」とは、実はレグバのことではないか。
そう結論づけるアメリカ文化史研究家も多い。

だが待たれよ。
映画『クロスロード』にふたたび話を戻すと、物語の終盤、老人となったウィリー・ブラウンが「レグバに会いたい」と言うと、使者が「レグバ?知らんのかいな、あの人は今は改名してんで。今は”スクラッチ”ゆうんや」とあざ笑うシーンがある。

そしてその「スクラッチ」とは、とりもなおさず英語圏での悪魔の別名なのだ。
映画ではほんのわずかな言及ではあるが・・・この改名のくだり、哀しいことにアフリカの神がキリスト教に「悪魔」として取り込まれていることの証左ではないか。

ヴードゥー教→悪魔信仰というイメージも、ここから来ていると思われ。
なんとも申し訳ない話だ。
ハイチでは決してレグバは悪魔では無い(だろう)。

「クロスロードでの契約は、決して悪魔的ではない」
Snake氏はそう主張した。
それはつまり、十字路での儀式が本来、ハイチの人(アフリカ系)による、ハイチ(アフリカ)の神との交流だったことを強調しているのだろう。

だが・・・古代のユダヤ人が近隣民族の神々を悪魔として自分たちの神話に取り込んだのと同様に・・・近世以降のキリスト教はアフリカの神々を悪魔と同一視した。
それを批判したのが「悪魔っていう概念自体、キリスト教が勝手に作り上げたものだしね」という部分だという。

そんなキリスト教の不寛容さと対照的に、「有力な神様は大歓迎!」とばかりに、イエスやマリアや聖人たちを神として取り込む、無節操だがおおらかなヴードゥー教。

多極化・多元主義の時代を生きる人類に必要なのは、後者のメンタリティではないか。
時折、そう思う。


まあ悪魔がいることに変わりはないんだが。

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