2013年1月9日水曜日

すべもて(本が感想)



年末に広島に帰る新幹線の中で、起立したまま読破した。

すべてはモテるためである(文庫ぎんが堂)

 

 

代沢恋愛総研主席研究員であるところのItarun.U氏から勝手に借りた。
AV監督であるところの二村ヒトシ氏が独自のモテ論を展開した書だが、自らの経験をもとに「君がモテないのは、君がキモチワルイからだ」というシンプルなテーゼをストイックに論証していくという内容になっており、いわゆる恋愛ハウツー本とは一線を画している(といいつつモテトレーニング法指南的な要素はあった気がするが)。

ところで私が共通の知り合いである女子の話をきいている限り
、Itarun.Uさんは現状でも十分すぎるほどモテているのでこの本を読む必要があるとは思えず、さしずめ二村さんのいうところの「冷やかしの読者」ということになろう。

Uさんがそういうタイプだと言うわけではないが、皆さんの周りにも、「何も考えていない(ように見える)クセになぜかモテる」という人がひとりふたりいるのではないだろうか。
二村氏はこういうタイプのモテ人種たちを「明るいバカ」と呼ぶ。多くの人が異性との関係において嵌りがちな陥穽である自意識過剰を回避し、ナチュラルな感じの良さを演出できる人たちである。
この「明るいバカ」は、私が勝手に 野生のリア充 と呼んでいる人種と大きく重なるだろう。底抜けにテンションが高く、初対面だろうがガンガン凸って行くにも関わらず、不自然さが皆無で決して嫌らしくない。こいつらがパーティに現れるとそれはもう(ry
二村氏の言うとおり生得的な要素が強いので、私を含めた自意識過剰系ピープルは明るいバカをこれから目指すのは難しいと考えられる。

ただの思いつきだが、

「明るいバカ」=思い切りがよい、考えすぎないイケイケのコミュニケーションができる
→1曲を一気通貫で爽やかに吹ききる チャーリー・パーカー型
「暗い自意識過剰」=考えすぎ。直前の言動を自分でフォローしようとしつづける。
→ついついアドリブ長くなりがちな ジョン・コルトレーン型
というジャズメンの演奏スタイルになぞらえた類型化もアリかもしれない。
(※二村氏の分類は実際にはこのような二分律ではなくもっと細かい)

思えば去年は、働きだしてから男女問わずリア充系との付き合いがなんとなく増え、自分の中でリア充のデータベースが蓄積された。おかげでリア充が話す言語の5割くらいは理解できるようになったと思うし、さらに一度は自らリア充になろうともした、と思う。
しかし結果として、自分が決してリア充的コミュニケーションに没頭できないこともわかった。また野性のリア充的なモテは私が志向するモテでもないことが感得できた。
結局自意識過剰で、常に自分のタチーチを再帰的に問いなおしてる京大生みたいなコミュニケーションが好きなんかなぁ。


じゃあ自意識過剰なコルトレーン系メンズがモテるためにはどうすればよいのだ!
二村氏によれば自意識過剰で考え過ぎで臆病(←ワシはまさにこのタイプだ)なのはキモチワルイのだが、どうすればそこを克服できるか。
手元に本が無いのでおぼつかないが、結局提案されていたのは、


①自分がどのような人か、高い次元で語れるようになれ(コンテンツ力を鍛えて競争力基盤を強化せよ)

②相手との関係性に配慮しつつ自己を開示していけ(新しいコンテクストを生成せよ)

③相手が少しでも自分の土俵に乗ってくれたと感じたらエ□モード発動(イノベーションによる価値の創造)
といったものだった気がする。


ようは相手と自分の差異を前提としつつも、その境界がどこにあるかは事前にはわからないので、コミュニケーションを通じて事後的に発見していきなさいよ、ということだろう。それが発見できてはじめてキモチワルくなくなることができる、と。
この「コミュニケーションを通じて」 の部分で前提として二村氏が一貫して強調しているのが、「自分が何者であるか」「あなた(女性)とどうなりたいか」という要素についての徹底した言語化である。コルトレーンが吹いている内容を外部から観察するとただただキモチワルイので、生成の源であるコルトレーンその人を伝達するには、何を考えて吹いているかを翻訳可能な形で表現する別の技術が必要になるということだ。

自分を理解可能な形でさらけ出すことが必要という部分には共感した。
ところがこれは簡単なようで、ガチな相手だとなかなかできないことだと思うし、熱に浮かされた状態で相手が自分の土俵に乗ったかどうかの判断はつきにくい。逆にのへんの、判断力が下がった状態での駆け引きの難しさにこそ、恋愛のおもしろさは詰まっているとわしは思うね。
(↑いかにもモテないヤツが言いそうなことだ)


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