小熊英二「社会を変えるには」
読んだ。
小熊さんは代表作「民主と愛国」が、文系大学生必読書として両手指に入るレベル(じゃね?)で知られているが、今論壇で最も影響のある社会学者のひとりだ。
この本では、福島第一原発事故後の反原発/脱原発ムーヴメントの盛り上がりを背景としつつ、社会運動の意味、および社会運動を通じてわれわれが社会を変革しうる可能性について論じている。
小熊チャンは、自らもいろいろ積極的にデモに参加していることで知られる、イケてる慶応の先生だ。
反原発運動などというと毎週金曜日に首相官邸前に集まる香具師どもがアタマに浮かぶが、「運動」を最も広義に捉えた場合、それは国からトップダウンに与えら れる以外の部分での自主的な情報収集や放射線量の測定、自治体への電凸、自主避難、官庁への陳情/パブコメ、消費行動の変化、2ちゃんへの書き込み 等、非常に多様であるはずで、人によって手段はいくらでもありうる。
格差社会を放置すると治安が悪化したり少子化や税収減 が起こって跳ね返ってくる。また途上国の貧困を放置していると、テロや環境破壊が起こる。地方のことを都市部の人間が見てみぬフリをしていると、原発事故 が起きる。。。といったような、自分には関係ないと思っていたところから、自分に危害が跳ね返ってくるという「ブーメラン効果」 の存在を小熊チャンは協調する。
これを敷衍すると、すぐに効果がでないようでも、議会でも地域でも、行政からでも運動からでも、さまざまな場所から発想や行動、関係性に変化をつけることで、少しずつ社会を変えることができる可能性が示唆される。
危機のときに、意外な力をみせて全体を救うのが、普段は役に立たない余計者だったりする。特定の方向に向けて効率化し、無駄や異論をすべて切った組織は、環境の変化や想定外の事態にきわめて弱いことが、組織論では常識として知られている。
し たがって現代の公共政策において、恵まれない人、不満を持った人を、「失業者」「非正規」「母子家庭」といったカテゴリごとにカバーしようという発想は限 界である。また、現代日本でいう格差意識の性格を考えてみても、カテゴリがある限り格差は無くなることはなく、むしろ増やせば増やすほど格差意識が強化さ れる可能性がある。
となると、そうした不満を持った人々が共通して抱いている、ないがしろにされている感を足場に動きをおこし、そこから対話と参加をうながすしかない。具体的な動きのなかから、「われわれ」という共同性を作る動きに繋げるしかない。
「デモの意味」については、参加者が楽しいことが重要であると小熊チャンはいう。
参加者全員が生き生きとして、思わず参加したくなる「まつりごと」が民主主義の原点なのであり、自分たちが、個人を超えたものを「代表」していると思えるとき、政治は活き活きとしたものになる、と小熊チャンは締めくくる。
うむ。とりあえず新書でありながら500ページを超える大著ということで、とても読み応えがある。
小熊さんは「民主と愛国」にしろ、「1968」にしろ、いつもくっそ分厚い本を書くが、なぜか?というのは疑問なわけです。
あくまで仮説的だがおそらくこれは、彼の社会学に対する研究スタンスの直接的な反映なんじゃないか。量は付随的なことがらではなく、それ自体きわめて理論的な問題と結びついているのではないか。
[※以下コムズカシイ話注意]
私も修士論文を書いていたころから色々思い悩んでいたことで、実は今の仕事でも重要な問題なのであるが(←)、社会科学的な思考は対象がなんであれ、何らかの形でその対象が置かれている文脈依存性を考えざるをえない。
対象を切り取る根拠を示すためには、切り取りの妥当性を示す理論が必要であり、そういう理論が必要であるということは、対象を局所として内包する全体性、すなわち対象が置かれる文脈を想定することを回避できないということだ。
したがって、特に社会科学の中でも対象の単位性を見通しにくい社会学の研究者が再帰性を非常に重んじるのは至極当然のことで、ぱっと思いつくだけでもマンハイム『知識社会学』やグールドナー『社会学の再生を求めて』、ブルデュー『社会学の社会学』とか、再帰性の問題を真っ向からあつかった本がいろいろあるわ。
その意味で、社会学研究は扱う単位がミクロなものであれマクロなものであれ、何らかの形で全体性に言及せざるを得ないわけよね。
より正確にいうなら、自らがいかなる視座構造から全体性を観察しているか、ということを観察しなくてはいけない。
そしてこの全体性観察の観察、という難題への小熊スタイルの回答が、近似的に全体/総体としての言説空間へ迫ろうとすることなんじゃないかと。
小熊さんは各著作で、とにかく特定のテーマをめぐる言説を網羅的に把握することを目指している。部分から全体を帰納していく中途半端な社会批評に抗するため、局所を取り囲む全体の外延をなるべく大きくとっていく。
この全体性志向ゆえに、議論を詰めていけばいくほど、そして言説と言説生産者の数が増大し言説の全体平面が際限なく拡大する現代に近づくにつれて、分量的な厚みを増して行くことになる。
言説の量的増大は、言説と言説生産者の社会的な希少性の減少を意味し、同時に歴史記述に登場する当事者の持つ記憶という資料の取り扱いがクリティカルなものとなる。
言説の希少性の現存と資料としての記憶の現存にもかかわらずあえて言説に焦点を絞る意味をいうためには、希少性の薄い言説へと射程を広げて行かなくてはならず、不可避的に「量」による言説の全体性への漸近という方法論へと行きつく。
小熊チャンの本が大著にならざるを得ないのには相応の理由があるのだ。
この本で主張されている、、誰もが行為者であり、社会に変化をもたらす潜在力を持つというアイデアの根本には、社会(die Gesellschaft)に「外側」はないという発想があり、上述した小熊タソの社会学研究における全体性志向と一貫している。
社会運動を冷笑している人や非難する人さえ、実は関心を持っていて、すでに関係に巻き込まれ、運動が起きる前とは変化しているのだな。
読んだ。
小熊さんは代表作「民主と愛国」が、文系大学生必読書として両手指に入るレベル(じゃね?)で知られているが、今論壇で最も影響のある社会学者のひとりだ。
この本では、福島第一原発事故後の反原発/脱原発ムーヴメントの盛り上がりを背景としつつ、社会運動の意味、および社会運動を通じてわれわれが社会を変革しうる可能性について論じている。
小熊チャンは、自らもいろいろ積極的にデモに参加していることで知られる、イケてる慶応の先生だ。
反原発運動などというと毎週金曜日に首相官邸前に集まる香具師どもがアタマに浮かぶが、「運動」を最も広義に捉えた場合、それは国からトップダウンに与えら れる以外の部分での自主的な情報収集や放射線量の測定、自治体への電凸、自主避難、官庁への陳情/パブコメ、消費行動の変化、2ちゃんへの書き込み 等、非常に多様であるはずで、人によって手段はいくらでもありうる。
格差社会を放置すると治安が悪化したり少子化や税収減 が起こって跳ね返ってくる。また途上国の貧困を放置していると、テロや環境破壊が起こる。地方のことを都市部の人間が見てみぬフリをしていると、原発事故 が起きる。。。といったような、自分には関係ないと思っていたところから、自分に危害が跳ね返ってくるという「ブーメラン効果」 の存在を小熊チャンは協調する。
これを敷衍すると、すぐに効果がでないようでも、議会でも地域でも、行政からでも運動からでも、さまざまな場所から発想や行動、関係性に変化をつけることで、少しずつ社会を変えることができる可能性が示唆される。
危機のときに、意外な力をみせて全体を救うのが、普段は役に立たない余計者だったりする。特定の方向に向けて効率化し、無駄や異論をすべて切った組織は、環境の変化や想定外の事態にきわめて弱いことが、組織論では常識として知られている。
し たがって現代の公共政策において、恵まれない人、不満を持った人を、「失業者」「非正規」「母子家庭」といったカテゴリごとにカバーしようという発想は限 界である。また、現代日本でいう格差意識の性格を考えてみても、カテゴリがある限り格差は無くなることはなく、むしろ増やせば増やすほど格差意識が強化さ れる可能性がある。
となると、そうした不満を持った人々が共通して抱いている、ないがしろにされている感を足場に動きをおこし、そこから対話と参加をうながすしかない。具体的な動きのなかから、「われわれ」という共同性を作る動きに繋げるしかない。
「デモの意味」については、参加者が楽しいことが重要であると小熊チャンはいう。
参加者全員が生き生きとして、思わず参加したくなる「まつりごと」が民主主義の原点なのであり、自分たちが、個人を超えたものを「代表」していると思えるとき、政治は活き活きとしたものになる、と小熊チャンは締めくくる。
うむ。とりあえず新書でありながら500ページを超える大著ということで、とても読み応えがある。
小熊さんは「民主と愛国」にしろ、「1968」にしろ、いつもくっそ分厚い本を書くが、なぜか?というのは疑問なわけです。
あくまで仮説的だがおそらくこれは、彼の社会学に対する研究スタンスの直接的な反映なんじゃないか。量は付随的なことがらではなく、それ自体きわめて理論的な問題と結びついているのではないか。
[※以下コムズカシイ話注意]
私も修士論文を書いていたころから色々思い悩んでいたことで、実は今の仕事でも重要な問題なのであるが(←)、社会科学的な思考は対象がなんであれ、何らかの形でその対象が置かれている文脈依存性を考えざるをえない。
対象を切り取る根拠を示すためには、切り取りの妥当性を示す理論が必要であり、そういう理論が必要であるということは、対象を局所として内包する全体性、すなわち対象が置かれる文脈を想定することを回避できないということだ。
したがって、特に社会科学の中でも対象の単位性を見通しにくい社会学の研究者が再帰性を非常に重んじるのは至極当然のことで、ぱっと思いつくだけでもマンハイム『知識社会学』やグールドナー『社会学の再生を求めて』、ブルデュー『社会学の社会学』とか、再帰性の問題を真っ向からあつかった本がいろいろあるわ。
その意味で、社会学研究は扱う単位がミクロなものであれマクロなものであれ、何らかの形で全体性に言及せざるを得ないわけよね。
より正確にいうなら、自らがいかなる視座構造から全体性を観察しているか、ということを観察しなくてはいけない。
そしてこの全体性観察の観察、という難題への小熊スタイルの回答が、近似的に全体/総体としての言説空間へ迫ろうとすることなんじゃないかと。
小熊さんは各著作で、とにかく特定のテーマをめぐる言説を網羅的に把握することを目指している。部分から全体を帰納していく中途半端な社会批評に抗するため、局所を取り囲む全体の外延をなるべく大きくとっていく。
この全体性志向ゆえに、議論を詰めていけばいくほど、そして言説と言説生産者の数が増大し言説の全体平面が際限なく拡大する現代に近づくにつれて、分量的な厚みを増して行くことになる。
言説の量的増大は、言説と言説生産者の社会的な希少性の減少を意味し、同時に歴史記述に登場する当事者の持つ記憶という資料の取り扱いがクリティカルなものとなる。
言説の希少性の現存と資料としての記憶の現存にもかかわらずあえて言説に焦点を絞る意味をいうためには、希少性の薄い言説へと射程を広げて行かなくてはならず、不可避的に「量」による言説の全体性への漸近という方法論へと行きつく。
小熊チャンの本が大著にならざるを得ないのには相応の理由があるのだ。
この本で主張されている、、誰もが行為者であり、社会に変化をもたらす潜在力を持つというアイデアの根本には、社会(die Gesellschaft)に「外側」はないという発想があり、上述した小熊タソの社会学研究における全体性志向と一貫している。
社会運動を冷笑している人や非難する人さえ、実は関心を持っていて、すでに関係に巻き込まれ、運動が起きる前とは変化しているのだな。
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