第三世代のサイバネティクスを通過したオートポイエーシス的人間観では、人間は自律的な学習システムとして捉えられる。
わたしたちは絶えず、自分の外にある環境から入力を受けて学習する。
ここでの学習とは情報をパケットのように受け取ることではなく、システムの作動の仕方を更新することだ。
そしてわたしたちは学習の結果として内なるシステムの作動の仕方を変え、環境に対する出力を変化させる。
環境もその影響を受けて様態を変化させる。
したがって人間というシステムは、環境の構成要素でもある。
複数の人間同士はお互いにとっての環境を構成している。
学習という語を用いると、いわゆる学校や仕事場での勉強的なイメージを持ってしまうかもしれないが、それ以外にも、あらゆる経験から学習は発生するし、システムも変化する。
わたしたちは日々の楽しいこと、嬉しいこと、腹立たしいこと、悲しいこと、、などから感じ取り、考え、記憶し、そして忘れてゆく。
この変化のプロセスは自律的なもので、時間とともに進み、止めることはできないし、逆行もしない。
それは生物が絶えず代謝を続けることと似ている。
人間の細胞は6〜7年で完全に入れ替わると言われる。
よく「ある人の脳を入れ替えても、その人は同一人物か」というような存在論が話題になるが、そのような大それた問題設定をしなくとも、われわれのは身体は常に代謝を繰り返し組成を変化させているし、その変化はマテリアルな次元に留まらず、システムとしてのふるまいにも現れるのである。
一時非常にハマっていた趣味に対する興味を失ったり、あるいはかつて非常に親しかった人と数年ぶりに会ってみると一切会話が噛み合なかったり・・・といった現象はわかりやすい例だろう(それぞれの逆も然り)。
わたしたちが興味の対象や付き合う相手を絶えず変えていくのは、システムとしての学習と、環境の変化の必然的な帰結なのだ。
おそらく、ずっと変わらないものなんて何もない。
だとしたら、しばらく会っていなかった人に再会したときに、その人は別人であると感じることがあっても当然だし、自分も相手にとって別人であっても何の不思議もない。
まあだから、諸行無常であることは、悲しむべきことではない。
そのときどきによって自分にとってベストなものは違って、時間が経って何かがベストではなくなっても、それがかつてはベストだったことに変わりはないのだから。
貨幣というメディアの機能が象徴するように、個人個人は究極的には機能的に等価な存在として、代替可能であるからこそ、社会生活を営んでいくことができるといえる。
もちろん、いつまでも仲の良い友達や、一生かけて打ち込める何かというのもあるだろう。
しかしそれらが可能なのは、システムとして変化していないからではなく、複数のシステム、あるいはシステムと環境の相互の入出力がバランスを保ったまま変化しているからにすぎない。
したがって、婚姻関係など、感情的な固着をともなって長時間持続する人間関係や、終身雇用などの社会制度は、きわめて強い不確実性の下に置かれていることがわかるだろう。
こうした不確実性を吸収するためには、絶えざる変化の中でも自己を同一のシステムとして同定する再帰的な仕組みが必要になる。
(それは往々にして困難である。不確実性を吸収しきれず、離婚する夫婦があとを絶たなかったり、新入社員が3年でやめたりすることからわかるように)
絶え間なく様態を変化させながらも、同一のシステムとして認識されるにはどうすればよいのだろうか。
否、実際にわれわれが社会生活の中で自己同一性を保持し得ているという事態は何を意味するのか。
いろいろな解があろうが、わたしはいきおい、人間は、自分が認識する自らの状態と、ほかのシステムからの入力から判断される、「他にとっての自己」の姿とを重ねあわせることで、システムと環境の境界を画定していると考える。
もっとも、システムは作動的に閉じているので、他のシステムの認識を完全に把握することはできない。
そもそも自己の状態をある時点に固定することは、システムを動態として認識することを放棄することである。
したがって完全なコヒーレンスは期待できないが、少なくともこの動作によって当初の不確実性は縮小されよう。
これがいつもできていれば良いのだが、長い時間を経るとどうしてもシステムの内側に投射される像と、実際のシステムの像とはズレてくる。。
長い時間的なインターバルを経てシステム同士が再びコミュニケーションするときの不確実性を吸収するしくみは可能だろうか。可能ならば、どのようにして可能だろうか。
この答えはわたしにとって未知だが、ひとつの方向性としてトポフィリア的なものにヒントがあるかもしれないという気はしている。
・・・
広島と京都に帰省していました。
広島では地元で就職した人々に会ったり、元ジャズ系の人たちと山口で遊んだりしました。
京都ではたまりたんの先輩たちと久々に集まり、五山の送り火を見たり、また、馴染みの面子でビアガルテンに行ったりもしました。
とても良い「夏休み」という感じでした。
たまにでいいから、まだまだこういうのやりたいなー
京都は人が集まってくるから好きなのか、京都が好きだから皆集まってくるのか。
本格的ディアスポラが起こればわかるだろう。
来週はついに国際学会ウィーク!
がっきーの「ガキの使いやあらへんで!:5日間スペシャル」が待ちかまえる。
しばらくロジスティクスの準備に明け暮れる。
夏が終わるねー
このブログももうちょいで開設1年。
わたしたちは絶えず、自分の外にある環境から入力を受けて学習する。
ここでの学習とは情報をパケットのように受け取ることではなく、システムの作動の仕方を更新することだ。
そしてわたしたちは学習の結果として内なるシステムの作動の仕方を変え、環境に対する出力を変化させる。
環境もその影響を受けて様態を変化させる。
したがって人間というシステムは、環境の構成要素でもある。
複数の人間同士はお互いにとっての環境を構成している。
学習という語を用いると、いわゆる学校や仕事場での勉強的なイメージを持ってしまうかもしれないが、それ以外にも、あらゆる経験から学習は発生するし、システムも変化する。
わたしたちは日々の楽しいこと、嬉しいこと、腹立たしいこと、悲しいこと、、などから感じ取り、考え、記憶し、そして忘れてゆく。
この変化のプロセスは自律的なもので、時間とともに進み、止めることはできないし、逆行もしない。
それは生物が絶えず代謝を続けることと似ている。
人間の細胞は6〜7年で完全に入れ替わると言われる。
よく「ある人の脳を入れ替えても、その人は同一人物か」というような存在論が話題になるが、そのような大それた問題設定をしなくとも、われわれのは身体は常に代謝を繰り返し組成を変化させているし、その変化はマテリアルな次元に留まらず、システムとしてのふるまいにも現れるのである。
一時非常にハマっていた趣味に対する興味を失ったり、あるいはかつて非常に親しかった人と数年ぶりに会ってみると一切会話が噛み合なかったり・・・といった現象はわかりやすい例だろう(それぞれの逆も然り)。
わたしたちが興味の対象や付き合う相手を絶えず変えていくのは、システムとしての学習と、環境の変化の必然的な帰結なのだ。
おそらく、ずっと変わらないものなんて何もない。
だとしたら、しばらく会っていなかった人に再会したときに、その人は別人であると感じることがあっても当然だし、自分も相手にとって別人であっても何の不思議もない。
まあだから、諸行無常であることは、悲しむべきことではない。
そのときどきによって自分にとってベストなものは違って、時間が経って何かがベストではなくなっても、それがかつてはベストだったことに変わりはないのだから。
貨幣というメディアの機能が象徴するように、個人個人は究極的には機能的に等価な存在として、代替可能であるからこそ、社会生活を営んでいくことができるといえる。
もちろん、いつまでも仲の良い友達や、一生かけて打ち込める何かというのもあるだろう。
しかしそれらが可能なのは、システムとして変化していないからではなく、複数のシステム、あるいはシステムと環境の相互の入出力がバランスを保ったまま変化しているからにすぎない。
したがって、婚姻関係など、感情的な固着をともなって長時間持続する人間関係や、終身雇用などの社会制度は、きわめて強い不確実性の下に置かれていることがわかるだろう。
こうした不確実性を吸収するためには、絶えざる変化の中でも自己を同一のシステムとして同定する再帰的な仕組みが必要になる。
(それは往々にして困難である。不確実性を吸収しきれず、離婚する夫婦があとを絶たなかったり、新入社員が3年でやめたりすることからわかるように)
絶え間なく様態を変化させながらも、同一のシステムとして認識されるにはどうすればよいのだろうか。
否、実際にわれわれが社会生活の中で自己同一性を保持し得ているという事態は何を意味するのか。
いろいろな解があろうが、わたしはいきおい、人間は、自分が認識する自らの状態と、ほかのシステムからの入力から判断される、「他にとっての自己」の姿とを重ねあわせることで、システムと環境の境界を画定していると考える。
もっとも、システムは作動的に閉じているので、他のシステムの認識を完全に把握することはできない。
そもそも自己の状態をある時点に固定することは、システムを動態として認識することを放棄することである。
したがって完全なコヒーレンスは期待できないが、少なくともこの動作によって当初の不確実性は縮小されよう。
これがいつもできていれば良いのだが、長い時間を経るとどうしてもシステムの内側に投射される像と、実際のシステムの像とはズレてくる。。
長い時間的なインターバルを経てシステム同士が再びコミュニケーションするときの不確実性を吸収するしくみは可能だろうか。可能ならば、どのようにして可能だろうか。
この答えはわたしにとって未知だが、ひとつの方向性としてトポフィリア的なものにヒントがあるかもしれないという気はしている。
・・・
広島と京都に帰省していました。
広島では地元で就職した人々に会ったり、元ジャズ系の人たちと山口で遊んだりしました。
京都ではたまりたんの先輩たちと久々に集まり、五山の送り火を見たり、また、馴染みの面子でビアガルテンに行ったりもしました。
とても良い「夏休み」という感じでした。
たまにでいいから、まだまだこういうのやりたいなー
京都は人が集まってくるから好きなのか、京都が好きだから皆集まってくるのか。
本格的ディアスポラが起こればわかるだろう。
来週はついに国際学会ウィーク!
がっきーの「ガキの使いやあらへんで!:5日間スペシャル」が待ちかまえる。
しばらくロジスティクスの準備に明け暮れる。
夏が終わるねー
このブログももうちょいで開設1年。
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