2012年7月17日火曜日

なんやかや働き女子が好き(本の感想


「女子」の時代! (青弓社ライブラリー)



読んだ。








さすが、神戸ニュートラ発祥の地であり、女性ファッション誌の草分け的存在であるJJが創刊されたとき、フェリスと並んでその学生が理想的な読者層として想定されていたという、甲南女子大学の教員陣が中心になって執筆しているだけある。









ライトな読み物としても楽しめるし、いくつかの論考はなかなかに学術的で、面白かった。







オタク女子にはじまり、「(少女マンガに対する)女子マンガ」の読者層(≒働き女子)、KPOP女子、鉄子、など多様なトライブ(こう呼んで差し支えなければ)が分析され、また、女子写真に見る「かわいい」の系譜学や女性ファッション誌の言説分析などヨコグシ的な論考もあった。




やはり興味をひいたのは、従来の少女マンガとは異なる「大人の女子」マンガなるものと、その読者層について書かれた節である。




『リアルクローズ』や『働きマン』といった作品に代表されるように(読んだことはないが)、大人の女子マンガには、企業で男性に囲まれてバリバリと働く女性を主人公にした作品が多い。

そして当然読者層としても、同じ様に働いてる女子が想定されている。




少子高齢化が進む日本社会において女性には労働力としてこれまで以上に経済活動に貢献することが期待されるし、就労者の平均所得も減っていく中で、旧来の腰掛けパン職→寿退社というようなライフモデルも通用しにくくなっている。

そうした中で、働き女子の生態系はますます興味深いものになっている(少なくとも個人的には)。




もちろん働く女性は昔からいたし、そうした人たちは体力的・社会的なハンデを負いつつもまだまだ男中心の資本主義社会をサバイブするたくましい存在、所謂「キャリアウーマン」だったのだろう。

しかしここで重要なのは、現代において女性が(男並みに)働くことが珍しくなくなった結果、マンガやドラマのようなマスカルチャーに表象される機会が増え、働き女子の人口層としてのプレゼンスが高まっていることだ。




さらにこの文化的な「マス化」は、働き女子自身の側にも変化を引き起こしている。

それが、『働きマン』における「男スイッチ」、いわば象徴的に「男になること」の意識化なのだろう。

つまり、企業社会において男性並みあるいはそれ以上のパフォーマンスを発揮するためには、象徴的かつ時限的に女性であることをやめ、男性のようなタフネスやクールさといったものを発揮する必要がある。

これは従来「キャリアウーマン」なら多くの人がやってきたことなのかもしれないが、こうしたプロセスが文化表象されることで象徴界に引き出され、ひいては「働き女子」なる新しいカテゴリを作り出している、というのが面白いと思うのである。




以前のエントリで、「女子」とはジェンダー間の内戦の実働部隊となっている女性のサブカテゴリではないかということを書いたが、この本における女子の定義は違う。

むしろ男性を参照点とせずとも、内在的に社会アイデンティティの自己記述を行う社会集団こそが、女子であると論じられている。

全体社会の中ではどうしても所与のものとして与えられてしまう男性⇔女性という二分律的社会関係からは独立しているのである。

つまり、究極的には「女子」は(生物学的な)女性である必要すらない。

げんにこの本にも書かれているように、鉄子(鉄道ヲタ女子)の多くは元男であるという。




この定義はそれなりに説得力があるが、しかしそれでも立ち現れてくるのが性差なのではないだろうか。

性差を超越し、まったく新しい社会システムとして閉鎖系を構成しようとしても(あるいはかようなものとして記述しようとしても)、女子の生態系内のコミュニケーションは、男女の二分律、そしてそれが帯びる旧来の社会的ステレオタイプとの接続の可能性を完全に絶つことはできない。

『働きマン』において反復される男というモチーフは象徴界に入った亀裂から覗く現実界のようである。という陳腐な精神分析学的アナロジーはどうでもいいが。




ともあれ、女子システムを観察する私は男であり、永遠の第三者である。

もちろん、いわゆる「女子」的な会話や「女子力」といった女子文化の構成要素が性差を超えて開かれているのは言わずもがなだし、これは非常に印象的な特徴だ。

ただ、女子のいかなるトライブにも属さずに、女子の社会システムを観察できるのは、男の特権であるのは確かだし、これからの女子スタディーズは、男性のほうからこそ、切り開いていくべきなのではないだろうか。

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