2010年4月5日月曜日

思考法としての文体




石原千秋『大学生の論文執筆法』(筑摩書房)













zanFから返ってきたのがきっかけで再読した本だが、最初に買って読んだのは1回生のときだった。
そのときは出たてだったんですよね。
かなりタイトルで損をしている本で、実際は論文やレポート書きのためのtipsのほかにもうんちく満載である。
石原千秋だからね。
わるく言えば偏っているが、特に文科系なら見所がいろいろあって、もっと1回生のとき真剣に読んでおけば、学士生活はより知的に有意義なものになっていたかもしれない。
しかし修士課程の学生としても見るべきところは多く、今になっての思わぬ「再会」は嬉しい。

この本の主題のひとつは、
「現在の日本の高等教育では、学生に文章の書き方の指導をしないのがけしからん!」
というもの。

それに関連して、「通年の授業で8000字以上のレポートを4本、半期なら4000字以上のレポートを3本出して、すべて添削した上でコメントを付けて返却するくらいのことをしていない大学教師は手抜き」云々という記述がある。

こんなことが書いてあったのはとっくに忘れていたが、今思えば学部の4年間を通して、このレベルの負荷をかけてきた授業はi勢田のてっちゃんの専門科目だけだった。

もっとも、iseda先生は逆に各課題の中で、かなり少なめの字数で、「○○字以内」という縛りの小問を複数出題してくるというスタイルだった。

これは彼の、「”○○字程度”というようなファジィな字数制限でだらだらと書くより、コンパクトに論点をまとめるほうが文章を書く練習になる」というフィロゾフィーに基づくものだった。

そして彼は必ず朱入れ添削してコメントを付けて返却してくれていた。
かなりクリティカルで、毎度多いにヘコまされた。

ううむ。教育精神に溢れた先生だったのだなぁ。。

また、『大学生の論文執筆法』の別の箇所にはこのような記述も。

大学に入学したばかりの学生はまだ「文体」と呼ぶべきほどのものを持っていないのがふつうだ。しかし、中にはそうでない学生もいる・・・実際に作文がうまかったのだろうなと思われる学生の扱いが、実は大学では一番大変なのである。そういう学生は「文体」と言うよりは発想の癖のようなもの身につけていて、それに凝り固まってしまっていて、それ以上伸びないことが多いのである。
なぜか。そういう学生にとっては「文体」こそがアイデンティティだからだ。「文体」が「等身大に人格化している」と言ってもいいかもしれない。だから、「文体」を壊すことはアイデンティティを壊すことになってしまうのだ・・・高校生の「文体」はアイデンティティ形成と不可分のものとしてある・・・それはそれでいい。
だが、大学でレポートや卒業論文に使う「文体」は、高校までの読書感想文の「文体」ではない。もちろん、自分の好みから出発してもいいが、大学ではそれをいかに論理的に、あるいは実証的に述べるかが勝負なのだ・・・高校までの文体は一度さっぱりと捨ててみることだ。


これは実にメイクセンスである。
当時は真に受けてなかったが、ここをこそ覚えておくべきだった。

ひんしゅく覚悟であえてはっきり言ってしまえば、わしは間違いなく「作文が得意な高校生」の類いだったと思う。
小学校時代から読書感想文や作文のコンクールで入賞常連であったし、中高時代はエッセイ大会の副賞で海外を旅する男だった。
大学受験期の小論文の授業では、先生が配布する模範解答は十中八九僕が書いた文章であった。
(余談だが、吉田し○"ひろだけは、わしよりも文章がうまかったと思う)
大学に入ってからも、「書く」ことにおいて問題を感じたことはなかったし、今だって「話す」ことより「書く」ことのほうが圧倒的に得意だ。。
ま、京大文学部なんてそんな奴らの集合体なんだろうから、先生たちは大変なのかな?

実際、どんなレポートでも簡単に書けてしまうため、歯ごたえを感じなさすぎて典型的なユニバーシティブルーになった。
文体がアイデンティティと思考法を規定しているというのは本当で、わしは自分が書くレポートの同型性に気付き、2回生の終わりに、
「どんな主題で書いてもすべて『こいひろかず的問題』として処理されてしまう。これを学問とは呼ばないはずだ。」
という旨の日記を書いているな。

もちろん4年間で文章力はあがったと思うし、批判的で論理的な思考も、ある程度は鍛えられたと思う。
しかし最後まで意識して日本語を鍛えよう!などと思ったことはなかったし、文学部はゆとり過ぎて苦労した課題もなかった。
他学部や他大の友達の課題のゴーストライターを務めたことも何度かあったけれども、普段馴染みがないジャンルがきてもチャチャっと書いてちゃんと良いスコアとれてたから少し自惚れもしたよ。


ただ、i勢田師の課すアサインメントだけは違った。笑



字数制限が厳しいということは、好きなように修辞を使えないことを意味する。
ゴマカシが効かない。
いわば両手を縛られた状態で闘う感覚とでもいうか。
カポエラのように、倒立やバク宙やウインドミルといった思考のアクロバットを駆使して問いに立ち向かわなければならない。

これは効いたと思う。
本当にアイデアで勝負しないといけないから。
ううむ。
こんなぺーぺーが言うことでもないが、i勢田師の学恩は、深い!!

ゆーて、師は英語でも回答を受け付けていたので、わしはたまに英語で書いてたりもしたのだがな笑
英語で書くとまた違う。日本語では得られない発想が「キタ」りする。
あまりのムズさに、そこに突破口を見出そうとしていたのだな。
英語を話すときわしは自分の人格が変わってるのをはっきり自覚するが、いずれにせよ、言語論的転回を経たあとの時代に生きるわれわれにとって、「発想とは文体」であり「文体こそ発想である」ことは既に自明なのかも、しれないな。

ついでに言うと、この『大学生の〜』では、英語を含む外国語での論文執筆法については何のアドバイスもないし、外国語の文献の引用法についても何の記述もない。

石原千秋(専門:国文学)だからね。

とにかく読んで面白い本だった。
このタイミングで再読できたのはナイス。
これからでもまだ遅くないと思うので、修士課程では意識的に「文体」を鍛え、「思考」を鍛えていきたいと思う。
文科系出身で、かつ哲学畑オリジンだし、クリティカルさと言語運用能力で東大生に負けるわけにはいかないのじゃ。

というnew academic year resolutionでした。

人から本が返ってくるのって、良い「再会」のチャンスなんだね。

2 件のコメント:

  1. あのときはどうもありがとう笑

    今日ちょうど院の先生に「高校で数学の答案における論理的な文の書き方を習ってないから学部受験の答案がひどい」的な話を聞かされたわ。まぁ文科系に求められる種類の文章能力とはまたちょっと違うのかもしれないけど…。

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  2. なるほど。。
    高校までの論理的思考能力のトレーニングは数学が端的に受け持ってるわけじゃん。それは修辞とか語彙を振り回すという意味でのいわゆる「文章力」とは違うかもしれないけど、間違いなく文系にも必要なものだよね。どんなに字面カッコ良く書けてる論文だろうと論理が破綻してたら意味ないし。
    高校のときの数学は問題文の読解も含めて国語っぽいなあと思ってましたけど。あんま論理的な議論の積み上げ方は身に付かなかったかも
    要は目的意識かね

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