2009年12月15日火曜日

交霊術と一般意志について

真の教養人を目指すべく、あいかわらずフロイト著作集を読んでいるのですが(現実逃避ともいう)、ついにかの有名な「無気味なもの」という論文に達し、そこにおいてフロイトも交霊術に言及していたことをはじめて知りました。

当然、ネイティブ・アメリカンがタバコの煙を使ってやってるやつとは違うもののことだろうけども。

フロイトは交霊術を通して、思考の非本質的な力能がどのようにして人を不安にさせるようなかたちをとるのかを説明しています。

フロイトによると、「思考が外的で、実践的で、直ちに有効な能力を有すると感じている病人は、人から条件を与えられたり打ち負かされたりするのではないかと絶えず懸念している」とされている。

この同じ状況がまた、交霊術においても引き起こされるものらしい。
交霊術が行われる場では、あらゆる個的な特徴を無効にするようなひとつの融合的な関係の中に、参加者全員が一同に押し込められることになるからです。

で、これって実は最近やたらあずまんたちが言ってる「一般意志/集合知」の発想に警鐘を鳴らす考え方なんじゃないかと思いました。

フロイトが研究していた「思考の全能」への信仰、あるいは交霊術における限界状況は、公的領域なき公共性がどのようなものであり得るのか、換言すればいかなる政治的空間にも関連しないような「一般意志」の様態の一面を例証しているのではないか。

つまり、人間にとって基本的な諸々のハビトゥス(個人の言語活動とか、認知活動とか)が前面に立ち現れてくる場合、それは主権の神話や儀式からかけ離れたまったく別の公的領域、すなわち、ひとつの非国家的な公的領域を生起させるのではないかということです。

ウェブ2.0という言葉が流行ってたころから「一億人総表現時代」が称揚されています。
ブログやツイッターないしニコニコ動画を通じて「群衆=マルチチュード」がそれぞれ考えたことを、これまで踏む必要のあったさまざまなステップをとばして発信していけるようになっています。
これは諸ハビトゥスの前景化にほかなりません。良いことかもしれませんが、語りや思考の氾濫は、その集積によって作り上げられる集合知の公共性がひとつの公的領域、すなわち多数的なものがそこにおいて共有の諸問題に関わり得るようなひとつの政治的空間のなかに包摂されない事態を招く危険もあると思うのです。

あたかも交霊術が実践される場のように。

そしてそのような事態はフロイトのいう「恐怖」をもたらしうるのではないかと思うのです。
21世紀、あらゆる価値の源泉となる「知」の公共性は、それが公的領域ないし政治的共同体とならない場合、諸々の支配形式を増殖させることになります。

集合知にこの理屈を直接当てはめて考えるのは難しいかもしれないので、現代の生産様式を例にとって説明しますと、例えば、今日のポストフォーディズム的労働過程において、すべての労働者は「思考する存在」として生産に参加していることは多くの人に共通した認識だと思います。
これはまさに、多数的な「群衆=マルチチュード」を特徴づけるものであり、現代の生産にとっての基礎となっています。
職務の分節化は、もはや客観的な基準に対応してはおらず、むしろ明確な形で、自由意志に基づき、可逆的でうつろいやすいものになっているのです。
そうした分節化は、次々に起こる科学的/技術的イノヴェーションに対して反応する際の機敏さや順応性といったものを保証しているので、現実の生産過程の内部におけるマルチチュードの思考の分節化が、公的領域にも、政治的共同体にも、構成原理にならないということは明白ですね。

知の公共性は、いかなる公的領域とも関連していない場合は、(労働における主従関係に対応する)政治的空間でのヒエラルキーの無統制な拡散へと姿を変える恐れがあると思うのです。
諸々の支配形式とはこのことです。
ヒエラルキーは拡散し、細部に及ぶものとなります。そしてこれこそ、知の公共性ないし分節化における否定的な裏面であると考えます。


あずまんの言っている「民主主義2.0」がどんな構想なのか僕もはっきり把握しているわけではないですし、どちらかというと僕は集合知の可能性には楽観的です。
しかし、集合知、ザ・コモンズ、マルチチュードといった新たな公共圏を叙述する着眼点ないし発想も、それぞれ両義的な存在様態であることを忘れてはならないと思いました。

2 件のコメント:

  1. 文章が ちょっと難しくて僕の頭じゃ解らんとこも多いのだけど
    トランペットに関しては
    現在の 情報の氾濫で 何か変わって来ている気は 全くせず
    インターネット、パソコンなど という新しい百科事典や電話帳を手に入れて
    世の中 浮かれてるだけ にしか思えないし、
    今と昔は大事にするところが変わっただけで 大儀では 誰も 今も昔も上達してない。人間10年そこそこで すぐ進化しない気が。。
    演奏 教師 作編曲 バイト 何でもやって 高校生にジャズはプロとアマチュアの区別がつかないなんて言われてる 今どきのミュージシャンのプライドの無さには うんざりする。
    日記に書いてる話しと関係してなかったらごめん。で自分は どうすべきかあなたの日記で何か自分で解るか 読ましてもらったけど脳みそが足りず自爆です。

    返信削除
  2. バン先生コメントありがとうございます。そして昨日はありがとうございました&飲み会お疲れさまでした。
    昨日も少しお話しした通り、情報の氾濫で世の中浮かれてるだけ、というのにはドキッとしましたし、そのとおりだとおもいます。
    10年前に比べると格段に情報量が増えた昨今、コンテンツが増えれば当然作り手の人数も増えます。しかし不幸なことに、需要が多いぶん当落ラインが下がっているので、先生のおっしゃるようなミュージシャンの文脈で言うと、かつてはアマチュアと呼ばれていたような人でもプロを名乗れるのが現状なのかもしれません。

    そして聴き手の側も痴呆化していてるとおもいます。

    私見ですが、プロミュージシャンは聴き手から金を受け取り、CDを出している人はレーベルからペイを受けている以上、そのクオリティはYoutubeやニコニコ動画 にあがっているような素人さんの演奏とは決定的に違うものであるべきです。人々をエンターテインせねばならないと思います。

    このことに自覚的なミュージシャンはまだまだいるのでしょうが、非ミュージシャンの聴き手はどうでしょうか。
    プロのライブに対する要求をはっきりもっていないからこそ、アマとプロの区別がつかないというような発言などが出てくるのではないでしょうか。

    単純に副業で演奏以外のことをやっているかどうかがプロとアマを分ける基準だと僕は思いません。
    聴き手がバカになってるからこそ、演奏する側も自分の演奏がどう聴かれるかに思い至らなくなり、ヘタクソでも堂々とプロを名乗ってしまうのではないでしょうか。

    とにかく今は考えが洗練されていないのですが、音楽に限らずこういう、「誰でも知ったかぶりが出来てしまう」時代にあって、専門家とそれ以外の境界の曖昧化というのは非常に大きな問題圏なので、僕もちょいちょい考えていきたいと思ってます。そんでブログに書きます。

    返信削除