2009年9月5日土曜日

サボり厨、アデュー~Mecha-Suzanneへ~

http://suzanne0721.tumblr.com/post/180483615/cd-pretaporter

デリダ厨のわしが考えてみた。

ジャック・デリダはユダヤ系フランス人だけどアルジェリア生まれだった。
家族はほぼユダヤの伝統を失っていた。
さらに、アルジェリアがフランスから独立した結果、彼の故郷はフランスから分断された。

フランスからも切り離され、ユダヤの伝統からも隔絶したルーツを持っていることは、ざっくり語弊を恐れずに言えば、さまざまな概念や着想を区切る境界を曖昧にする脱構築という営為を根幹とする、「脱領域的」な彼の思想に深く影響を与えているように思う。
この点はサイードなどとも通じるが、デリダの場合はただ単にルーツがあいまいであることを強調するのではなく、歴史から切り離された後でも不可避な形で繰り返し回帰してくる、自らのなかのユダヤ的なものにも何度も言及していたのが特徴だろう。これも、単に確固たるルーツがある/ないという二分法の脱構築であると感じる。
デリダは、自らの身体に「書き込まれた」痕跡である割礼に対する執着を示しており、旧約聖書からの引用を頻繁におこなったほか、「署名」や「亡霊」といったモチーフを好んで用いていた。さらには、内面はまったくユダヤ的ではないが、ユダヤの「署名」を持つ自分の体というものを究極の契機として、身体化された記憶とそうでないものとの違いを殊更に強調し、グラマトロジーについての大著を生み出すに至ったのだという可能性が「示唆される」。

これはあくまでわしの解釈じゃけどの。
デリダの出自と思想の関連については先生自身が、
『西洋とイスラム』という対談集で詳しく語っていたんじゃなったっけ確か。

あと、高橋哲哉本にもこのへんのことは書いてあった。ちょっとまた読みたくなったけど早く返してよKawanoさん。

3 件のコメント:

  1. ごめそ。哲夫が持ってるので聞いてみて。

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  2. というか、フランスですらなくなったのか。きっと、自分は何人か迷った青年期だったに違いない。あれ読んだよ、高橋センセの解説本の最初の章だけだけど。

    デリダの出自とデリダの思想が無関係でいられるはずないことは分かり切っていること-というか、どのような思索家も芸術家も、自身の出自と無関係に思考し行動できるはずがない。それは、封建時代の男性に女性差別的だと批判することはあまりにも酷だということに似ているかもしれない、つまり、ある時代・文化に生きた人は、その時代・文化に無関係でいられるはずがない-だけど、それがどのように出自と後世の思想との関係がどのように関係しあっているかは、やっぱりわからないだろうね。きっと、本人にも。

    もしかすると、デリダの二重に屈折させられた出自は、彼の思索の原動力だったのじゃないか、という勘ぐり。

    http://suzanne0721.tumblr.com/post/180483615/cd-pretaporter

    kmt

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  3. 実際デリダは若いころ、もともとつけられていたアメリカ風のジャッキーという名前から、「正しい」名前であるジャックに自分で改名したりしてる。
    知の文化的規定性については同感。そしてそれが、本人も意識しないような形で現れるということも。広義のハビトゥスという感じかな
    思想家にとってルーツは大切なもののような気がする。一部の人類学の左寄りな流れは、今いる場所を特権化するけれども、ルーツの拘束から完全に自由に思索することはできそうにない。Kangさんの「記憶のポリフォニー」も成り立ちません。
    まあデリダの場合、複雑な出自と脱構築との結び付きがあまりにもわかりやすいから、あえてそれをウリにするような確信犯的なところはあるような気もするけどね。ただ、本当に現実界の作動を感じるような瞬間が本人にもいろいろあったんだろう。まわりはそれをあーだこうだと「解釈」するしかないわけだけど。

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